【江崎道朗・小野義典】終戦工作・日米戦争―背後の仕掛人
【1月8日配信】江崎道朗のネットブリーフィング
日米戦争についての日本の終戦工作について、ライアン氏は次のように述べている。
(2)最初に日本からアメリカに和平提案が出されたのは、昭和20(1945)年2月だった。
(3)マッカーサーがルーズベルトに「日本の和平提案」を含む覚書を送ったのは、2月のヤルタ会談の2日前だった。それにもかかわらず、ルーズベルトは「日本の和平提案」を拒否した。ルーズベルト政権にもぐり込んだソ連スパイが、戦争を引き延ばしていたからだ。
すまんが、ここでリーチ(子供は蒋介石)
私のコメント
「日米戦争の終戦が遅れたのは、日本政府の不手際に原因があるからだ」と言う主張をしばしば見る。そうやって、戦前政府の責任を追及するのである。
また、「大金つかってやっと完成した原爆を、実戦で使ってスターリンを威嚇するため」に、8月まで遅らせたのだという説もある。この説は、原爆が完成間近になった6~7月以降については説得力がある。
1941年12月8日にソ連の駐米大使にルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。その10日後には、スターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。スターリンが、具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことを、ハルやスターリンの通訳が証言している。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。
秘密協定では、1944年12月14日に、スターリンはアメリカの駐ソ大使に対して、満州国の権益(南満州鉄道や港)、樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないと(ソ連スパイによって)思い込まされていたため、1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。
スターリンにしてみれば、ソ連の対日参戦以前に日本に降伏されては日露戦争の仇は討てず、日本周辺の利権を得ることはできない。また、独ソ戦終結後に最低三ヶ月の対日参戦のための準備期間が要る。当然、2月時点の「日本の和平提案」受諾には反対である。
「日本政府の不手際」は、自虐史観である。停戦には、相手の都合がモノを言う。
スターリン「俺の分け前が確保されるまで、日米戦争をやめるな!」
ルーズベルト「分かった。アンタがいないと『本土決戦』を構える日本の占領に
自信が持てない。足りない船をまわそう。兵隊も訓練してやる」
2月時点で日本側の和平提案をアメリカが受け入れていれば、北千島の占守(シュムシュ)島・南樺太・満洲・朝鮮の軍民、特に日本人居留民の犠牲も軽微だっただろう。日本軍は防御には十分な戦闘能力を持っていたから、敗戦の混乱は少なかったはずである。6万人の死者を出した60万人のシベリア抑留も、なかった。日本全国の焼夷弾による都市絨毯爆撃もなかった。特攻機出撃は、もっと減った。米兵の損耗も、もっと軽減された。