【江崎道朗・小野義典】終戦工作・日米戦争―背後の仕掛人

【1月8日配信】江崎道朗のネットブリーフィング
「元米太平洋艦隊司令官「真珠湾攻撃の 背景にはコミンテルンの謀略があった」小野義典【1月8日配信】  

雑誌「WiLL」2018年2月号のジェームズ・A・ライアン「日米戦争―背後の仕掛人」に、興味深い記述があったので一部をご紹介したい。
ジェームズ・A・ライアン氏は、レーガン政権でのアメリカ太平洋艦隊司令官である。

日米戦争についての日本の終戦工作について、ライアン氏は次のように述べている。
(1)日本は、バチカンソ連など、5つのルートから和平提案をしていた。ところが、スターリンは、和平を望まなかった。
(2)最初に日本からアメリカに和平提案が出されたのは、昭和20(1945)年2月だった。
(3)マッカーサールーズベルトに「日本の和平提案」を含む覚書を送ったのは、2月のヤルタ会談の2日前だった。それにもかかわらず、ルーズベルトは「日本の和平提案」を拒否した。ルーズベルト政権にもぐり込んだソ連スパイが、戦争を引き延ばしていたからだ。
(4)マッカーサーが、トルーマンに「日本の和平提案」を含む覚書を送ったのは、8月だった。「日本の和平提案」は、2月のものとまったく同じものだった。
(5)2月の時点でアメリカが「日本の和平提案」を受け入れていれば、東京大空襲も、沖縄戦も、硫黄島の戦いも、広島・長崎への原爆投下も、起きなかった。
(6)ヤルタ会談で、スターリンはアジアでの支配力を強めた。そのことが、その後の朝鮮戦争や冷戦に結びついて行った。
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すまんが、ここでリーチ(子供は蒋介石

私のコメント
 「日米戦争の終戦が遅れたのは、日本政府の不手際に原因があるからだ」と言う主張をしばしば見る。そうやって、戦前政府の責任を追及するのである。
 また、「大金つかってやっと完成した原爆を、実戦で使ってスターリンを威嚇するため」に、8月まで遅らせたのだという説もある。この説は、原爆が完成間近になった6~7月以降については説得力がある。
 アメリカは、ヤルタ会談で対日参戦を決めたソ連に対して、艦船を貸与し、ソ連兵の訓練をアラスカで行っていたという事実が、最近明らかになった。

 ウィキペディアの「ヤルタ会談」の記述をまとめると、次のようなことになる。
アメリカから「ソ連に対する対日参戦要請」は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の
1941年12月8日にソ連の駐米大使ルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。その10日後には、スターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。スターリンが、具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことを、ハルやスターリンの通訳が証言している。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。
秘密協定では、1944年12月14日に、スターリンアメリカの駐ソ大使に対して、満州国の権益(南満州鉄道や港)、樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルト太平洋戦争日本の降伏ソ連の協力が欠かせないと(ソ連スパイによって)思い込まされていたため、1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。

 スターリンにしてみれば、ソ連の対日参戦以前に日本に降伏されては日露戦争の仇は討てず、日本周辺の利権を得ることはできない。また、独ソ戦終結後に最低三ヶ月の対日参戦のための準備期間が要る。当然、2月時点の「日本の和平提案」受諾には反対である。
 ルーズベルト政権にもぐり込ませたソ連スパイの政府高官を暗躍させて、トルーマン政権になっても「日本の和平提案」をアメリカが受諾するのを妨害することになる。
これらから、「日米戦争の終結が遅れたのは、スターリン終戦妨害工作による」と見て、差しつかえないだろう。
「日本政府の不手際」は、自虐史観である。停戦には、相手の都合がモノを言う。

スターリン「俺の分け前が確保されるまで、日米戦争をやめるな!」
米・国務長官の首席顧問としてヤルタ会談に出席したアルジャー・ヒス(ソ連スパイ)は、ルーズベルト大統領からも頻繁に意見を求められた。
ルーズベルト「分かった。アンタがいないと『本土決戦』を構える日本の占領に
         自信が持てない。足りない船をまわそう。兵隊も訓練してやる」 
ポツダム会談当時、米軍幹部や国務省は、「ソ連の対日参戦は無用」とする報告書を作成していたが、トルーマン大統領には届かなかった。政権高官のソ連スパイに妨害されたとしか考えようがない。
 日本はソ連に、日米戦争の「停戦の仲介」を打診していたから日ソ中立条約による日露相互不可侵は昭和20(1945)年の年末まで有効だった〕スターリンは日本の終戦工作の動向を刻々と把握していたはずだ。
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2月時点で日本側の和平提案をアメリカが受け入れていれば、北千島の占守(シュムシュ)島・南樺太満洲・朝鮮の軍民、特に日本人居留民の犠牲も軽微だっただろう。日本軍は防御には十分な戦闘能力を持っていたから、敗戦の混乱は少なかったはずである。6万人の死者を出した60万人のシベリア抑留も、なかった。日本全国の焼夷弾による都市絨毯爆撃もなかった。特攻機出撃は、もっと減った。米兵の損耗も、もっと軽減された。

まことに、スターリンルーズベルトは罪深い。