東京大空襲・アメリカの戦争犯罪
American war crimes at Tokyo,japan,on 10 March 1945.
Robert Strange McNamara ロバート・ストレンジ・マクナマラ(1916~2009年)は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%A9
アメリカ陸軍航空軍の統計管理局の将校だった。彼らは統計分析により、「B-17を廃棄してB-29を大量生産し、対日戦に投入する方がコスト面で効率的だ」と主張した。マクナマラらの意見は採用され、カーチス・ルメイの下で対日戦略爆撃にB-29を大量投入して大きな戦果を挙げた。
2009年、93歳で没。
元・国防長官・ロバート・マクマナラの "The Fog of War" から、日本の都市爆撃についての部分を紹介し、東京大空襲に焦点を当てて考えてみたい。フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白 - allcinema
The fog of War - Lesson 5 HQ (日本語字幕)
帝都大空襲
および
日本各地で繰り返された無差別都市絨毯爆撃
空襲による民間人の死者
空襲対象に関する米軍の意図や正当性については、東京新聞大図解「空襲被害」(2015年8月2日)に掲載された山辺昌彦氏(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)による解説文を以下に引用するので参照されたい。
「米軍など連合国軍による空襲は、日本の軍事施設を破壊するとともに、国民の戦争継続の意欲をくじくことによって日本を降伏させようとの狙いがあった。本土空襲の初期は、飛行機工場が第一目標であり、それができない時は第二目標として産業都市とみなした市街地を空爆した。工場爆撃の巻き添えを含め、民間人に被害が出ており、軍事施設だけでなく民間施設をも狙う無差別爆撃が、すでに始まっていたといえる。
これが大きく変わるのは、1945年3月10日の東京下町大空襲からである。米国は一年前から、都市の最も燃えやすい人口密集地域を目標に設定し、木造家屋を効果的に焼く油脂焼夷弾を開発し、大型で航続距離の長いB29爆撃機とともに大量生産していた。
これらがそろった3月に都市を焼き尽くす空襲を始めたのである。単に無差別攻撃というより、民間人を主な標的とした空襲だった。
当時の国際法では民間人への空爆は禁止されていた。しかし、日本も日中戦争段階で中国の重慶などの都市を空襲し、それを現代の都市は高射砲や航空機で守られているので無防守都市ではなく、無差別攻撃をしてもよい、と正当化していた。米軍も日本の市街地爆撃に際し、そこは小さな軍需工場がある産業都市なので空襲する、などとしていた。
そして戦争犯罪裁判では、連合国の空襲はもちろん日本の空襲も裁かれなかった。そのことが世界で今でも、盛んに空爆が行われ、誤爆の名のもとに民間人の被害が続いていくことにもつながっている。」
出典: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226e.html
「米軍など連合国軍による空襲は、日本の軍事施設を破壊するとともに、国民の戦争継続の意欲をくじくことによって日本を降伏させようとの狙いがあった。本土空襲の初期は、飛行機工場が第一目標であり、それができない時は第二目標として産業都市とみなした市街地を空爆した。工場爆撃の巻き添えを含め、民間人に被害が出ており、軍事施設だけでなく民間施設をも狙う無差別爆撃が、すでに始まっていたといえる。
これが大きく変わるのは、1945年3月10日の東京下町大空襲からである。米国は一年前から、都市の最も燃えやすい人口密集地域を目標に設定し、木造家屋を効果的に焼く油脂焼夷弾を開発し、大型で航続距離の長いB29爆撃機とともに大量生産していた。
これらがそろった3月に都市を焼き尽くす空襲を始めたのである。単に無差別攻撃というより、民間人を主な標的とした空襲だった。
当時の国際法では民間人への空爆は禁止されていた。しかし、日本も日中戦争段階で中国の重慶などの都市を空襲し、それを現代の都市は高射砲や航空機で守られているので無防守都市ではなく、無差別攻撃をしてもよい、と正当化していた。米軍も日本の市街地爆撃に際し、そこは小さな軍需工場がある産業都市なので空襲する、などとしていた。
そして戦争犯罪裁判では、連合国の空襲はもちろん日本の空襲も裁かれなかった。そのことが世界で今でも、盛んに空爆が行われ、誤爆の名のもとに民間人の被害が続いていくことにもつながっている。」
出典: http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226e.html
東京116959
沖縄94000
長崎75380
大阪15784 愛知13359 兵庫12427
神奈川9197 静岡6539 福岡5776 三重5612 鹿児島4601 山口3493 茨城3299 富山2300
和歌山1830 福井1809 岡山1773 青森1772 徳島1710
新潟1467 千葉1448 香川1369 群馬1237 北海道1210
岐阜1191 山梨1181 宮城1118
岐阜1191 山梨1181 宮城1118
熊本869 大分710 福島661 高知647 宮崎646 岩手616 栃木612
愛媛546 埼玉392 京都215 佐賀138
愛媛546 埼玉392 京都215 佐賀138
引用元:米軍本土攻撃の県別死者数
地上戦のあった沖縄以上に、
東京で死者を出していることが忘れ去られている。
ある遺族から、1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを見せてもらった。当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対して、官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てた通達だ。
「1.日本国民に戦争を忘れさせたいのである。
2.戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。
だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針が明記され、
これに協力するため「この方針を徹底的に守るようにしなさい」と記されている。
70年たっていながらこの占領下のプレスコードがいまだに続いていることに驚いた。
私のコメント
1:36~「戦争にも釣り合いが必要だ」
2:50~「我々が批判すべきは、当時、そして今日もなお、
『戦争のルール』を確立してこなかったことだ」
アメリカは殲滅(皆殺し)戦を選んだ。四分六なり三分七分なりの優勢勝ちは考えなかった。「釣り合い」などと言う事を考えていたら、アメリカの望む勝利は得られなかっただろう。マクナマラの言葉には、すでに矛盾が含まれている。日本がポツダム宣言を受諾して条件降伏をしたら、アメリカはそれを無条件降伏に塗り替えたではないか。
「戦争のルールを確立してこなかった」と言う。(それについては、責任の一端を感じている)と言いたげである。しかし、当時にしてすでに戦争のルールはあったのである(都市の無差別爆撃が国際法に違反する理由:日本政府、原爆投下に抗議す(世界初の原爆抗議、1945年8月10日)。
その「戦争のルール」を勝手に破って、反則技で日本の都市を絨毯爆撃する作戦に踏み切ったのはアメリカである。
米軍が日本本土に近づくにつれて、日本軍の反撃は熾烈になってきた。郷土の家族と国という運命共同体を守るためだから、当然のことだ。それが硫黄島戦であり、沖縄戦である。沖縄戦ではアメリカ海軍はアゴを出しかけていた。日本のカミカゼ特攻によって、この海域での米軍艦艇の被害は質・量ともに突出している。そうした中で、日本の民間人殺害を目的とした殲滅戦を米軍は実行して行くのである。
一方で、沖縄戦前の昭和20(1945)年2月から、日本政府は停戦工作を始めている(太平洋戦争の和平工作 | https://repmart.jp/blog/history/ww2-mediation/、【江崎道朗・小野義典】終戦工作・日米戦争―背後の仕掛人 )。結果として、7月の原爆完成後、8月の広島・長崎までアメリカは日本との和平交渉に乗ろうとはしなかった。日本が譲れない唯一の条件は、「国体護持」であることを熟知していたにもかかわらず、である。
マクナマラは日米戦争の当事者として、悔恨を残して世を去った。
当事者として、生々しい自分の行為を客観視することができなかったようだ。
アメリカは「戦争のルールを確立してこなかった」。
「そこに過ちがあった」とマクナマラは言いたげなのであるが、
もっと前にアメリカが犯した過ちがある。
それは、
アメリカが「戦争のルール」を破った
ことである。
マクナマラは、この欺瞞を直視できなかった。
追記
松浦賢治7 時間前
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