新元号 寸感

上方の ぜいろく共が やって来て 東京などと 江戸をなしけり
「ぜいろく」とは、上方の人をあざけった言葉。京都育ちの公家ばかりでなく、薩長土肥もこれに入れていたのだろう。「西からやって来たよそ者がデカイ面してやがる。面白くねえ」ということか。
上からは 明治だなどと いうけれど 治明(おさまるめい)と 下からはよむ
当時は漢文で書き(真名書き)、日本語で読み下して読んでいたから、文字を下から読むのはよくあることだった。江戸っ子は、こうやって下々の立場から新政府高官をこき下ろしたのである。
明治新政府はもともとが軍事クーデター政権だった。だから、全国を治める経験も才覚も無かっただけに、明治初期はいつ政府がつぶれても不思議は無かった。「馬上天下を取るも、馬上天下を治むべからず」に直面したのである。
不平武士の反乱を除いても、幕末よりは一揆が多発し、秩父事件などは反乱だった。
それがなんとかまとまりがついてきたのは、
1)初等教育が普及したこと、
2)日清・日露の国難で、国民が天皇を中心に団結しない訳には行かなかったこと、
が要因だと思われる。
明治日本が国民国家として成功した理由を、歴史家はまだ書いていないのではないか?
明治維新150年」とか言っても、世相は明治元年から目出度かった訳ではない。

レイワと聞いた時、
「麗和」かな?
と思った。
ウ~ム・・、「麗」は画数が多く、
ワープロ慣れした身には、書くのがツライ
と思った。

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それが、「令和」と分かった。
まあ、「平成」よりは志が高い。

小渕さんが発表した「平成」は、
ヒラに成る
で、ヒラナリは私としては気に入らなかった。