お尋ね者史観
山本夏彦 1999. 誰か「戦前」を知らないか. 文春新書より一部改変
このごろ戦前を知る者が少なくなった。私は少しく知る者である。
自分のミクロの見聞を語ってマクロに及びたい。それをわが「室内」の連載にしたいと聞き手を探して二十代の女子社員何人かを得た。物を知らぬ世代の代表者である。その人たちと語って三年以上になる。
聞き手は時々変わるが、なに似たようなものだ。
自分のミクロの見聞を語ってマクロに及びたい。それをわが「室内」の連載にしたいと聞き手を探して二十代の女子社員何人かを得た。物を知らぬ世代の代表者である。その人たちと語って三年以上になる。
聞き手は時々変わるが、なに似たようなものだ。
――今回から「戦前という時代」のお話をしていただけるんでしたね。
山本:そのつもりでした。ところがそれは予想以上に難しい。なぜか?
その「なぜか」から説きおこさねばならなくなった。
本でいうなら「序文」といったところです。
その「なぜか」から説きおこさねばならなくなった。
本でいうなら「序文」といったところです。
――「序文」ですか。うかがいましょう。
山本:戦後五十余年という歳月は互いに理解を絶した歳月だと分かりました。それは前から気がついていましたが、この五、六年特に顕著(けんちょ)になってきました。僕はあなた方の目の前に戦前という時代を彷彿(ほうふつ)とさせたい。それは手をかえ品(しな)をかえればできるだろうと思っていたのが、出来ないと分かってほとんどあきらめているんです。
――私たちのせいだとおっしゃりたいんですね。
山本:誤解しないでくれ、あなた一人じゃない、あなたと同時代人の大群です。
ひとつは学校教育のせい、それに先立つ親たちのせいで合作です。
核家族は「完了」しました。いま親たちといいましたが核家族に祖父母はいません。いても発言しません。子や孫に教えません。教えても聞いてもらえないからです。なお言えばカドがたちます。「老人のいない家庭は家庭ではない」と言えば老人は喜び、若者はいやな顔をすると三十年前僕は書きました。――はい、文庫本で読みました。
山本:けれども、今の老人は老人ではない、若い者の口まねに終始します。同棲しても何の参考にもなりません。追い出されるのはもっともだと結びました。
見れない出れない食べれない。
「ら抜き言葉」はなるべくなら避けたいと、このあいだ文部省は言いましたが、何を今さらです。テレビを見てごらんなさい。老いも若きも「ら抜き」ですよ。親子ともども「寝れる」です。
見れない出れない食べれない。
「ら抜き言葉」はなるべくなら避けたいと、このあいだ文部省は言いましたが、何を今さらです。テレビを見てごらんなさい。老いも若きも「ら抜き」ですよ。親子ともども「寝れる」です。
――私は直しました、おかげさまで。
山本:例外です。わが社だからです。
言葉を手がかりに過去(歴史)にさかのぼるよりほかないのに言葉を大事にしません。
タダだからです。応急の手当に総ルビを振れと古くは芥川龍之介、近くは僕が言いました。ルビを振らないと「如し(ごとし)」「非ず(あらず)」のたぐいが読めません。
なぜ、二十年前三十年前の親どもは叱らなかったのですっ!
親は子供の言葉を正す義務があります。戦災で日本中丸焼けになりました。残ったのは「言葉」だけです。言葉を手がかりに過去(歴史)にさかのぼるよりほかないのに言葉を大事にしません。
タダだからです。応急の手当に総ルビを振れと古くは芥川龍之介、近くは僕が言いました。ルビを振らないと「如し(ごとし)」「非ず(あらず)」のたぐいが読めません。
―中略―
山本:あなた方に「戦前」を話して理解が得られないのは、ひとえに言葉が滅びたからです。それは核家族が完了したからです。教育のせいです。あなた方は戦前という時代はまっ暗だったって習ったでしょう。
社会主義者は戦争中は牢屋にいた、転向して牢屋にいない者も常に「特高」に監視されていた。彼らにしてみれば、さぞまっ暗だったでしょう。けれども社会主義者はほんのひと握りです。転向しなかった主義者は戦争が終わった途端にアメリカ軍によって解放され、凱旋将軍のように迎えられました。彼らは直ちに労働組合を組織してその指導者になりました。短期間ではあるが「読売新聞」を乗っ取りました。労働者は唯々(いい)として従いました。社会主義には何より「正義」があったから一世を風靡(ふうび)しました。「日教組」はその巨大な組合の一つです。手短にいうとその教育で成功したものの随一は、
と呼んでいます。
「戦前戦中まっ暗史観」は社会主義者が言いふらしたんです。 |
古いものは悪い、新しいものはいい、
でしょう。彼らは日清日露の戦役まで侵略戦争だと教えました。戦艦陸奥(むつ)長門(ながと)の名も事典から抹殺しました。僕はそれを「お尋ね者史観」 |
――そんな言葉はじめて聞きます。
山本:言い得て妙でしょう。
大衆はお尋ね者ではないから、その日その日を泣いたり笑ったりすること今日(こんにち)の如く暮らしていました。向田邦子は「襞(ひだ)」という短編の中で、
私たち女学生はもんぺはいて明日の命も知れないというのに箸(はし)がころんでも笑っていた
と書いています。
大衆はお尋ね者ではないから、その日その日を泣いたり笑ったりすること今日(こんにち)の如く暮らしていました。向田邦子は「襞(ひだ)」という短編の中で、
私たち女学生はもんぺはいて明日の命も知れないというのに箸(はし)がころんでも笑っていた
と書いています。
――「箸がころんでもおかしい」は大げさじゃありませんか。
山本:そういうたとえがあるのです。
「年ごろの娘が何かにつけて笑う」のを、戦前はそう言ったんだよ。
「年ごろの娘が何かにつけて笑う」のを、戦前はそう言ったんだよ。
ちなみに,入力者は祖母と親たちがそういう言い回しで会話していたのを聞きました。昭和30年代のことです。
「戦後もそう言ったんだよ。でも,テレビ・ラジオが新語を流行らせて,年寄りはだんだん言わなくなったなあ。」
山本夏彦:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%A4%8F%E5%BD%A6「戦後もそう言ったんだよ。でも,テレビ・ラジオが新語を流行らせて,年寄りはだんだん言わなくなったなあ。」