支那の古典は、「中国」の古典ではない。

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」のコメント欄に、表題に関わるコメントがありました。

私的備忘録として、収録しておきます。

(読者の声4)アメリカはこれから衰亡期へ向かいますが、次の覇権国家が地平線上に雄姿を現すまでに、痛めつけてきた諸国からのブロウバックをどうにかかわしつつどう過ごしていくかが焦点となります。
 そんな時期になって、混血大統領の可能性がほの見えてきたわけですが、南部1億人、農村人口6千万人、容易ではなさそうです。
ローマに大事にされたアテナイアテナイ知識人はローマ貴族子弟の家庭教師、いや政治家の指南役としても大もて)、
イスパニアに掌中の玉とされたルネッサンス・イタリア、
同じくアメリカの上流WASPにもてたイギリスの文化人ーー
アメリカが何をもって次の覇権国家に取り入ることができるのやら・・・。

 ある国の文化が古典化するとは、覇権国家から留学生を引き寄せられるだけの文化遺産を確保できるかどうかということでしょうから。
 政治は文化、文化は政治の視点が大事です。      (MO生、相模原)

宮崎正弘のコメント)コメントは巨視的で、すごいヒントが含まれています。
 「政治は文化、文化は政治」
「文化が古典化する」
 なるほど、だから皮相な日本人は「文化が古典化した」かにみえる中国に憧れる?
出典:http://www.melma.com/backnumber_45206_4183712/

 批林批孔をスローガンとして、毛沢東は地位を維持しようとした。そのために、孔子を否定したのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD#.E6.89.B9.E6.9E.97.E6.89.B9.E5.AD.94.E9.81.8B.E5.8B.95
ところが、最近の中国(中華人民共和国)政府は、今度は孔子を持ち上げて、日本の各大学に孔子学院を作っている。「文化大国」であるとアピールしようとしている。
しかし、支那(地域名)の古典は「中国の古典」ではない。
 このことを知る宮崎正弘氏は、上のコメントで揶揄しているのである。

 宮崎氏の文章ではないが、彼はおよそ以下のような認識に立っている。

 「中国の捏造歴史」
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-303.html

 「自分の国を知らない中国人」
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-304.html

「文化不毛の国『中国』」
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-308.html


(1)支那大陸史は実はヨーロッパのような民族の離合集散が行われていることが発見されるはずである。
 このような整理を阻んでいるのは支那史における統一願望である。
大帝国とされる唐、元、清にしても統一が保たれているのは建前の期間の半分にも満たない。そう考えれば統一されていた期間は十分の一にも満たないだろう。統一は願望であっても例外であった。そして統一といっても現在の国民国家の統一とは全く異なる。

(2)漢民族は二千年近くの昔に滅びていない。四書五経を作った漢民族はいない。
漢民族の復興などというのは、支那大陸を支配するものの正統の象徴であって事実ではない。
 我こそ漢民族の復興をなしたる者なるぞ。我が支配に従えというときのせりふである。だから歴史書は支配民族の出自を漢民族と偽って書かされるというのは既に常識である。

(1)と(2)の出典:ブログ「日本の元気」のなかの「支那大陸論」
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php