「真珠湾攻撃」に先立つ,ルーズベルトの日本爆撃計画(動画)!

「日本は支那事変でドンパチやってるのに、なんで後ろの正面の真珠湾にまで行って、わざわざアメリカとドンパチを始めたんだろう?」
親や祖父母の世代が、そんなにも愚かとも思えなかった。
これは、長年の私の疑問だった。教科書にも、ちょっとした本にも、その答えは書いてなかった。


 ルーズベルトは「日本の真珠湾攻撃」に先立つこと5ヶ月の昭和16(1941)年7月23日に,対日戦を決定する「日本爆撃計画」に許可の署名をした。2日後に在米の日本資産を凍結。8月1日にアメリカ,対日石油輸出禁止。その年の10月16日に第三次近衛内閣は総辞職。18日に東條内閣の成立。東條英機は「昭和天皇の命を受けて日米開戦を回避する努力」を続けたが,もはやどうにもならなくなっていた。東條らをA級戦犯とする東京裁判は茶番だ。東京裁判を是認する「東京裁判史観」はまやかしである。
 ところで,コーヒーさんが引用した1991年11月24日の読売新聞記事の
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18552735.html
元となった米ABCテレビの動画を見つけたのでご紹介したい。
引用元:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5562/column/column088.html
なお,一部を編集した。

キャスター(この若造キャスターの
「信じられん!俺たちゃ『真珠湾攻撃の卑怯なだまし討ち』に対して立ち上がったんじゃないのか?そう聞かされてきたぞ・・」
という表情が面白い)
ルーズベルト大統領は,日本を挑発していたのか?
元・フライングタイガースのエド・レクター氏
確信をもって「そうだ」と言える。
「正義はアメリカにあったのだ」
と,心のどこかで願う若いキャスター。いきおい,当事者のスキップ・アデアー爺さんに何度もくどく念を押す・・・。爺さんはそれに耐えかねて,
「あまり言いたかないが・・・,今さら言いつくろったところで,もう済んだことだ。それに・・・,もうワシャ疲れたわい。」
といった本音まじりに,ボロッと真相を白状する場面もリアルだ。
 1991年12月6日の米ABCテレビ「20/20」ではイェール大・米国外交史専門のスミス教授が「本物の政府計画だ」とコメントしている。オリジナルの映像14分が2分割で見られるので、ご紹介しておく。出典は日本語ふきかえのNHK番組である。

(前半)http://www.youtube.com/watch?v=C1cX_Fr3qyQ
(後半)http://www.youtube.com/watch?v=2Uf_3E4pn3U

 動画の出典は,NHKのBSー1ですね。NHKも,単純な「東京裁判史観」ではマズイと知っているはずですが・・・?

ところで,「中国大陸からの日本爆撃」は,技術的にはすでに可能でした。Bruxellesさんによれば,ルーズベルトは「ルーズベルト秘録(上)」P.264で「アリューシャン列島から日本本土を空爆すべきだ」と1933年3月14日に言っているそうです。この10日前に、大統領就任。昭和12(1937)年の第二次上海事変の時に,日本海軍は「渡洋爆撃」を行っています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%B4%8B%E7%88%86%E6%92%83

 さて,この動画に出て来るロークリン・カリー大統領補佐官については,文末に履歴をまとめておきました。今では故人ですから,貴重な証言ということになります。

 時系列に事実を箇条書きにしておこう。

1933年3月14日 ルーズベルト大統領 戦争になった場合は「アリューシャン列島から日本本土を空爆すべきだ」と書いている(「ルーズベルト秘録(上)」P.264より)。
1934年2月17日  中国広東空軍司令部と米航空機器公司との間で、米国の援助による空軍3年計画契約交渉が行われていることが明らかになる。
1934年2月20日  米国の借款により、米軍用機購入と米海軍予備将校の指導を条件として、福州およびアモイに飛行場を建設。
昭和 9(1934)年 というと,米国がはっきりと国民党に肩入れし出した頃です。
1934年11月29日 モーリス・モー・バーグ(Morris "Moe" Berg)は、日米野球のためメジャーリーグ選抜として来日した際、11月29日に大宮球場で開催された試合を欠場して、東京・明石町の聖路加国際病院(この病院は前年に再建され、東京市内の眺望がきくことで有名だった)の屋上から東京市街一円を16ミリカメラで撮影し、この時に撮影された映像は8年後の1942年に行なわれたドーリットル空襲で爆撃ポイントの選定に利用された。
ウィキのモーリス・モー・バーグ
Bergが東京で撮影した時は、まだOSSの正式メンバーではなかったようです。1942年にメンバーになって、そのときに8年前の東京でのFilmを提出、それが即Doolittleの東京空爆に役立った。今日記事に追加しておきました。大物スパイでした、この野球選手は(Bruxelles氏 私信)。
「大物スパイだったモーリス・モー・バーグ」ほか
『親善野球に来たスパイ』
モー・バーグが撮影した東京の映像は、ネット上で公開されていたが、現在は削除されている。
モー・バーグの映像
https://www.youtube.com/watch?v=yFmJ4B4SLTo
https://vimeo.com/156112284
1936年8月10日  ルーズベルト大統領はこの段階で対日戦争を意識し、日系人隔離を自ら構想していた。
開戦5年前に日系人収容を検討=F・ルーズベルト大統領覚書
2008年12月3日2時32分配信 時事通信
【ワシントン2日時事】
1941年(昭和16年)12月8日(米時間7日)の日米開戦に先立つ5年前の36年(昭和11年)、フランクリン・D・ルーズベルト米大統領が対日有事を想定し、ハワイの日系人強制収容所に収監する計画を検討していたことが2日までに、ニューヨーク州ハイドパークの同大統領図書館に保管されていた極秘の覚書から分かった。
日系人強制収容は、日本海軍機動部隊によるハワイ・オアフ島パールハーバー真珠湾)奇襲攻撃に衝撃を受けたルーズベルト政権が「戦争ヒステリー」という異常な心理状態で、軍主導で急きょ実施したとするのが通説だが、同大統領は極めて早い段階で対日戦争を意識し、日系人隔離を自ら構想していたことが判明した。覚書は海軍作戦部長にあてられたもので、1936年8月10日付。関西学院大学非常勤講師の藤岡由佳氏(日米政治外交史)が入手した。同氏によれば、覚書は80年代に米国研究者によって発見されていたが、これまで日本の研究者には知られていなかった。
この中で、ルーズベルト大統領はハワイにおける日本側の秘密情報活動への危機感を背景に、「わたしに明確な考えが浮かんだ。日本船舶・乗組員に接触するオアフ島日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ」と提案している。
藤岡氏は「日系人収容は大統領自身が主導した可能性が出てきた」と話している。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081202-00000222-jij-int
魚拓
ttp://s02.megalodon.jp/2008-1203-1658-20/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081202-00000222-jij-int
関連スレ
アメリカ】 開戦5年前に日系人収容を検討=F・ルーズベルト大統領覚書 [12/02]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news5plus/1228339885/

1937年春~夏頃  アメリカ人(旅行家・ジャーナリスト)フランシス・ラインが訪日。東京市中を映画に撮影してまわる。(7:20~9:22)
https://www.youtube.com/watch?v=DCbYsFcMDcc#t=546
この動画の中のフランシス・ラインというアメリカ人旅行家の顔がぼやけているのですが、なぜでしょう?NHKが故意にそうしたとも考えられるのですが、だとすると何か都合の悪いことでもあるのでしょうか?
7:58でラインの脇にいる二人の男ははたして日本人でしょうか。
この旅行家の手記に書いてあることが本当ならば、この人物こそがスパイとして送り込まれ、東京のどこをどのように空襲すれば効果的か探っていたのではないのでしょうか?
確か、日米開戦の5か月前、ルーズベルト支那大陸から日本の都市を空爆する計画にサインしましたね。その数ヶ月前、または1年以上も前にさまざまな調査が行われたことでしょう。

ラインのフィルム(サクラの花、人々の服装、「中国との戦争」)から、撮影されたのは4月~8月頃だろう。
7:24~「その頃、厳しい検閲の目をかいくぐって、日本本土の様子を撮影・・・。」
8:29~「ラインは、当局の監視を振り切って、路地裏をフィルムに収めました・・・。」
「皆様の」NHKのナレーションには、戦前の日本政府に対する「敵意」が感じられる。日本共産党の視点だろう。ラインはスパイである。当局の見立ては正しかった。しかし、軍で訓練されたプロのスパイではあるまい。渡日に際して、アメリカ政府か米軍から「依頼」という形で密命を受けたのだろう。
戦後の日本でも、こういう例がある。
末延氏は、1986年のフィリピンのピープルパワー革命を、内閣から頼まれて調査した。
ニュース女子』#104  15:26~16:20
https://dhctv.jp/movie/100929/
「東京ほど空襲に脆弱な都市はない。
風の強い日に爆撃されれば、600万人はひとたまりも無いだろう。」
プロではないから、「空襲が予期される人々の運命を案じた」のである。モーリス・モー・バーグの映像は遠景だった。近接した映像で、木造家屋の材質と構造、密集度合いを知りたかったのだろう。アメリカは、「木造家屋が東京のどこに、どの程度密集しているか?人口密度はどのくらいか?」などを調査したのである。「風の強い日に、大量の爆弾を投下されれば・・」とは、爆撃の専門家から説明を受けていたということだ。
アメリカは、この頃から、ハーグ陸戦協定違反の「日本の民間人大量殺戮をねらった」無差別爆撃を計画していたのだ。
ラインは、二重底のトランクかなにかで出国審査をかいくぐり、フィルムをアメリカへ持ち帰った。
その成果が、1945年3月の東京の下町の民間人をねらった「東京大空襲」なのである。

アメリカの対日先制爆撃計画

1937年7月    米陸軍航空隊シェンノート(動画ではシュノルト)大尉が退役して中国(国民党軍)空軍を指揮。
  同年8月    第二次上海事変で,台湾・九州済州島基地より,日本海軍の 爆撃機が中国大陸を「渡洋爆撃」。
  同年12月12日  パナイ(パネー)号誤爆事件
この時パナイ号は、蒋介石空軍基地に運ぶガソリンを満載したタンカー3隻を護送していた[5]。
パナイ号の船底には支那事変で撃墜された日本機(ゼロ戦ではない)の残骸から収集した部品が秘密裏に積まれており、米側は日本側の無償引き揚げ提案をあわてて断ったそうです(東海子)。
  同年12月    南京陥落
1938年5月    重慶から米国製マーチン製139型爆撃機(B-10 (航空機)の輸出型)2機で漢口と寧波を中継して九州(熊本県人吉の山中)に宣伝ビラを撒き各々玉山と南昌を経由して漢口に帰還(入力者思うに・恐らく,搭乗員は米・軍人)。

1940年9月    アメリカは蒋介石政府に対し、2500万ドル借款供与を決定。
  10月7日   「マッカラム覚書」完成。ヘンリー・スチムソン陸軍長官の日記には、マッカラム八項目を知っていた人物にルーズベルト大統領の他に、陸海軍の要人を挙げている。その中に、ジョージ・マーシャル陸軍大将がいたのは注目してよい(馬渕睦夫アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ」p.199)。

11月    蒋介石アメリカ財務長官のヘンリー・モーゲンソーに送った覚書に「500機の戦闘機と米軍パイロットを派遣してもらえば、広東と漢口を取り戻し、日本本土さえも爆撃出来る」と書いてあったのが始まり。
  実は蒋介石は、日本との停戦交渉を行っていた。重要拠点を日本軍に占領され、連日の重慶爆撃を受けて、継戦能力に自信を失っていたからである。支那派遣軍の板垣総参謀長と蒋介石が8月に長沙で和平協議を行うことが7月に決まった。
 ところが、それまで隠れていた中国共産党軍が8月に大規模な攻撃(支那では百団会戦という)を日本軍に加え、交渉をブチこわしたのである。
 次に、松岡外相の日本政府が事態収拾に乗り出した。
   11月中旬、国民政府の回答(和平交渉の開始の条件)が到着した。
   11月24日 日本政府は、国民政府に「交渉条件」を受諾するむね通告したが、回答はなかった。
 後に、蒋介石は停戦交渉を中止したことが分かった。

   11月30日 ルーズベルト蒋介石に、1億ドルの資金援助と50機の新型戦闘機を送ると約束したからである。(ルーズベルトは、実現しそうな「日本爆撃」に心を動かしたのであろうか?
 私は、この決定が日米戦争の起点と考えている。)

1940(昭和15)年12月8日、真珠湾攻撃の1年前に、財務長官のモーゲンソーは蒋介石代理人である宋子文とともに、ルーズベルト大統領との昼食会に出席した。当時の蒋介石政権は内陸部の重慶にまで追い詰められていた。
昼食会後の宋子文との会話を、モーゲンソーは以下のように記録している。(文責:伊勢雅臣)
 そこで私は、1942年までに航空機を提供できるかもしれないが、東京や日本のその他の都市を爆撃するために使うという了解の下で、長距離爆撃機を数機供与するというアイデアについてどう思うか、と宋に尋ねた。彼の反応は、控えめに言っても熱狂的だった。・・・
私は宋に、この件に関して大統領とは相談していないと言ったが、それが大統領のアイデアであることはほのめかした。事実、部分的にはそのとおりで、なぜなら、大統領は私に、中国が日本を爆撃するなら、それは結構なことだと語ったからだ。[アラン・アームストロング『「幻」の日本爆撃計画』、日本経済新聞出版社、H20 1,p68]
「中国側がこれを実行するなら、極東情勢の全貌が一夜にして変わると私は確信している」とモーゲンソーは記している。(文責:伊勢雅臣)
 この会談の後、宋子文蒋介石の覚書をモーゲンソー経由でルーズベルトに提出した。その中にはアメリカとイギリスから派遣されたパイロットと整備兵による、200機の爆撃機と300機の戦闘機からなる特別航空戦隊の結成を提案しており、また日本から1000キロ以内の範囲に、利用可能な軍用飛行場がいくつかある事を指摘していた。
 モーゲンソーの記録では、この覚書を読んだ大統領は「非常にご満悦」であり、即座に具体的な計画の策定を命じた。そこでモーゲンソー、宋子文、さらに中国空軍の幹部・毛邦初将軍、毛にスカウトされて米陸軍航空隊を除隊し、中国空軍を指導していたクレア・シェノールトが参加して、具体的な計画を打ち合わせた。
 その中で、モーゲンソーは、日本の都市は「木材と紙だけでできている」ので、焼夷弾の投下を勧めた。なぜ財務長官であるモーゲンソーがこんな事まで知っているのか。実はこの数ヶ月前、東京のアメリカ大使館付海軍武官から次のようなレポートが送られていた。
 (日本の家屋の)99%は、驚くほど早く引火する薄手の木材で建てたものだ。日本の都市一帯に焼夷弾をばら撒けば、これらの都市の主要な部分は灰燼に帰すだろう。・・・
 輸送施設はすでに過密であり、民間人の避難は著しい困難を伴うだろう。日本のすべての家庭はすでに満員の状態だから、難民の収容施設は限られている。
 飛行機工場、鉄鋼・ガス会社、主要交通機関、政府建物などを含む重要な爆撃目標の完成したリストは、近く作成し、送付するものとする。[アラン・アームストロング『「幻」の日本爆撃計画』、日本経済新聞出版社、H20 1,p106
 日本爆撃のアイデアは、ルーズベルトの個人的な思いつきというより、ある程度、組織だって準備されつつあった、ということを窺わせる。
 それにしても、この海軍武官のレポートからは、一般市民への無差別爆撃が重大な戦争犯罪であるという認識のかけらも感じられない点に留意したい。 (文責:伊勢雅臣)

   12月19日  蒋介石の提案ホワイトハウスの仲間たちの前で発表されたけど、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルと海軍作戦部長、ハロルド・スタークの反対により却下。
1940年12月21日  モーゲンソー財務長官、シェンノート(シュノールト)らが米軍人による日本爆撃を立案。「(実験結果から推定して)木と紙でできている日本家屋には焼夷弾が効果的」と意見一致。
「実験」の資料に、アメリカ人(ジャーナリスト)フランシス・ラインのフィルムを使ったことは疑いない。

1941年1月27日  日本軍の真珠湾攻撃計画を、駐日大使グルーが国務省のハル長官に報告した。
        これは、日本の真珠湾攻撃の約10ヶ月前のことである。
その内容は、「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」というものである(米国ウィスコンシン大学国務省外交文書図書館で公開された、戦前の駐日大使グルーの国務省あての公電)。

1941年3月  アメリカは対日経済戦に着手したエドワード・ミラー(2010)「日本経済を殲滅せよ」、p.183-184.)〕。輸出管理局は「日本の経済的脆弱性(品目名)」を調査し、中立国から原材料を先回りして買い占め、日本が手を出せなくした場合、日本の損害がどの程度になるか数値化していた。アメリカの官僚らは「禁輸を使って対日経済戦を仕掛けろ」と提言している。
これが、ABCD包囲網の原形''である。
ルーズベルトは金融専門家を動員して「支那事変で日本はいつ破産するか?」を探っていた(エドワード・ミラー(2010)「日本経済を殲滅せよ」)。
米・財務省によれば、1938年10月まで、
FRBによれば、1939年7月まで、
米・国務省によれば、1939年9月まで、
FRBの再試算によれば、1940年4月まで、
米・陸軍情報部によれば、1941年1月まで、
米・国務省の再試算によれば、1941年6月まで、
駐日大使館によれば、1941年11月まで、
だった。これらは、外れることになる。

1941年4月15日 蒋介石政府援助の具体化策として、ルーズベルト大統領は米・軍人に対し、「フライング・タイガース戦闘機部隊に自主的に志願するよう」行政命令を出した。
  大統領命令で、議会の承認なしにフライング・タイガースへの志願を促したことは、事実上の「日本に対する宣戦布告である」(馬渕睦夫アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ」p.201)。
      5月   統合参謀本部(JB)が対日奇襲作戦「JB355」を策定。
    6月上旬  米人パイロットら三百人がサン・フランシスコを出港。
1941年7月22日 カリーはシェンノートに以下の秘密電報を送る。
「今日、大統領が66機の爆撃機を中国へ送るように指示した。うち、24機はすぐ送る。 (作戦には)米国人パイロットが搭乗する。」(ABCテレビ「20/20」より)。
蒋介石の国民党軍中国人パイロットは、技量が劣ることがはっきりしていた。中国人パイロットの訓練に時間をかける余裕はなく、フライング・タイガースに対する5000万ドルの資金と武器・弾薬・人員について、 「ルーズベルト政権主導の援助プロジェクト」が発動していた(ABCテレビ「20/20」より)。
 ルーズベルトの対日軍事挑発
 ルーズベルト巡洋艦による対日軍事挑発をポップアップ(飛び出し)作戦と呼び、自ら担当すると語ったという。ポップアップ作戦は1941年3月~7月に実施された。
 最も挑発的な行動は豊後水道への出撃だった。豊後水道に船体を黒く塗装した2隻の巡洋艦が接近してきた。日本海軍の駆逐艦が向かっていくと、2隻の巡洋艦は暗闇に紛れて見えなくなった。国際法上、領海の外に逃げても、追跡して攻撃する権利がある。日本は自重していたのである(馬渕睦夫アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ」p.210)。
1941年7月23日  ルーズベルト大統領が対日奇襲作戦「JB355」にゴーサイン。
  7月25日 アメリカが在米日本資産を凍結。
  7月26日 イギリスも在英日本資産を凍結。
  7月27日 蘭印政権は28日蘭印よりの日本、満州、中国、仏印への輸出、日本からの輸入に対し全面的許可制を布くとともに、在留邦人の資産を凍結する布告を発する。これでABCD包囲網完成!
これで日本の在外ドル資産は使えなくなり、輸入の代金を支払えなくなった。手持ちの金(きん)を売却してドルを得る方法も封じられた。軍需物資だけでなく、民需物資も輸入できなくなった。
ディーン・アチソンは1941年11月23日、国務長官ハルに
「金融締めつけは禁輸よりもはるかに日本に壊滅的な打撃を与えた」
と、自慢げに報告した(ミラー.2010.「日本経済を殲滅せよ」)〕
  7月28日  日本軍、南部仏印進駐。
  8月1日  アメリカが対日石油輸出を全面的に禁止。
          このように日本への包囲網が出来上がって行きます
私(ヘンリー・S・ストークス)にはネーサン・クラークという伯父がいた。
伯父は、1941年の初頭からインドに展開していたイギリス軍部隊に所属していた。鋭い観察力を有する人物だったが、その伯父から聞いた話がある。

 1941年中頃のある日、伯父はイギリスの統治下にあったビルマ(現・ミャンマー)のラングーン空港に降り立った。そこで膨大な数のアメリカ軍の爆撃機が展開しているのを目の当たりにし、我が目を疑った。伯父は大尉だったが、目の前に展開している大規模な軍備増強の目的が戦争以外の何物をも意味しないことをたちどころに悟った。アメリカは対日戦争の準備を着々と始めていたのである。真珠湾攻撃のおよそ6カ月前のことだった。伯父は言葉を続けた。
アメリカ政府が、とりわけルーズベルト大統領はアメリカ市民を欺いていた。」
と、
伯父の声にはとても強い怒りが込められていた。
その時まだ20代半ばだった私には、なぜ、伯父がそれほど怒りに駆られていたのかわからなかった。

 しかしその後、私は、日本在住50余年という長い年月を経て、様々な歴史的事実を知るにつれ、
実は伯父がタブーともいえる"秘話〃を語ってくれていたのだということを理解したのである。
伯父がラングーン飛行場で膨大な数の米軍爆撃機を目撃した6カ月後の1941年12月8日未明、日本海軍は、ハワイ・オアフ島で米海軍太平洋艦隊に対し、航空機と潜航艇による攻撃を敢行した。真珠湾攻撃である。
 アメリカはそれに対し、「卑怯極まりない日本は、極秘裏に大艦隊をハワイに進攻させ、宣戦布告することもなく、休日(日曜日)を楽しんでいた罪もない人々に奇襲攻撃をしかけた」と、自国民の対日感情を煽った。アメリカの世論は一気に日米開戦へと傾いた。それまで開戦に消極的だったアメリカ国民たちが一斉に戦争へと向かっていったのだ。
 しかし、伯父が目撃していたことからも明らかなように、アメリカは、それ以前から着々と対日戦争の準備を進めていた。つまり、アメリカにとっての「太平洋戦争」は日本が始めたものではなかった。アメリカがしたくて仕掛けた戦争だったのだ。
私がこの話をするのは、大東亜戦争がいつ起こり、いかなる方途へと世界を導いたかを見直してほしいからだ。私は、日本人は歴史の真実をもっと知るべきだと思っている
〔ヘンリー・S・ストークス(2015)「外人特派員重鎮が反日中韓の詐偽を暴いた」(悟空出版)〕。
                         私のコメント
 ヘンリー・S・ストークス氏の伯父がラングーン空港で目撃したのは、JB355作戦の一部だろう。カリーの秘密電報によれば、1941年7月末以降のことではないか?ストークス氏は、「日本人は、歴史の真実を知らない」と言っている。戦後日本の指導層は「アメリカの代官」で、「日本悪玉論」で国民を飼い慣らしてきた。これが、日本の戦後指導層の「身過ぎ世過ぎ(世渡り)」だったのである。
  8月下旬 シンガポールに米人パイロット等三百人が集結。
  計画では9月下旬に奇襲爆撃決行を予定。しかし対独戦で苦戦するイギリスに爆撃機の貸与を求められて欧州戦線に回し,爆撃機の中国到着がズルズルと遅れた。
11月25日 カーチス・B・ドール「ホワイトハウスで1941年11月25日に開かれた会議の記録を読み返して見て、私の義父(ルーズベルト)は、アメリカを日本との戦争に巻き込むと云う陰謀に専ら関わっていたと、私は悟ったのです。」
  12月7日 日本側の真珠湾奇襲攻撃決行。

 「20/20」のスクープでは、戦闘機の護衛がなくて目的が果たせるかと疑問が出されていたが、後に出版された『ルーズベルト秘録』(産経新聞社、2000年12月)では、カーチス戦闘機350機がロッキード・ハドソン長距離爆撃機150機を護衛する計画だったと新しい情報を記している。

アメリカ政府がこんなに堂々と対日奇襲作戦を計画し、実行に移していたというだけでも知らない人は驚くだろう。
しかし、これだけは付け加えておきたい。同じ奇襲作戦といっても、日本側は真珠湾の「海軍力」のみが攻撃目標であり、しかも直前に宣戦布告をする計画だった。
これに対して米側の計画は、初めから民間日本人の家屋を焼き払い、しかもそれを中国軍(国民党軍)の攻撃に偽装しようというものだった。
どちらが「sneak attack」(卑怯なだまし討ち)と断罪されるべきか、答えは明らかであろう。(06/11/27)
この文章の出典:http://www.geocities.jp/oiso_zemi/column/column088.html
この文章の追補(15/10/28)

ロッキード・ハドソン爆撃機

イメージ 1
     カーチスP-40戦闘機

ロークリン・カリー(ルーズベルト大統領)補佐官の履歴
 この空爆計画の推進者だったロークリン・カリー大統領補佐官(当時)は、実はソ連と極秘情報のやりとりをしていた ことが、当時の米暗号解読機関によって確認されていた。
 この文書はVENONA資料と呼ばれ、1940年代後半、ニュー ヨークとワシントンにあるソ連代表部とモスクワ間の交信記録を 米特殊機関(戦後の国家安全保障局=NSA)が暗号解読したものだ。

 カリー補佐官はカナダ生まれの経済学者で、39年から45年まで大統領補佐官(経済担当)をつとめた。41年初頭には対日戦略を調整するため米国の中国支援担当特使に任命され、ルーズベルト大統領と中国国民党蒋介石主席(当時)の橋渡し役をしていた。48年にソ連スパイだったことを告白した政府職員、エリザベ ス・ベントレーによる「カリー氏もスパイだ」という訴えをきっかけに、カリーは米下院・非アメリカ委員会の追及を受けた。しかし最後まで容疑を否定し、50年に米国市民権を放棄し、南米コロンビアに移住、93年に死亡している。
  
 ソ連がスパイを送り込んで、日本と蒋介石軍との戦いをアメリカに支援させていた動機は容易に理解できる。両者が戦えば、毛沢東軍が漁夫の利を占めることになり、中国共産革命が近づく。
 さらに日米戦争ともなれば、ソ連にとっても日本からの軍事的脅威はなくなり、ドイツと日本から挟撃されるという最悪の事態を避けられる。まさに一石二鳥の見事な謀略なのである。


よく言われてきた説明に、「支那事変の泥沼に足を取られ、挙げ句の果てに日米開戦」というセリフがある。しかし、これは、何も説明していない。日本がアジアの有色人種をまとめて白人に立ち向かって来るのを恐れた露独仏英米が、蒋介石に軍事・経済援助して有色人種に共食いさせようとした。日本軍にコテンパンにたたかれてヨレヨレの蒋介石を、米・ルーズベルトが援助した。日本を支那事変に引きずりこんで日本の国力を弱め、アメリカが支那市場をイタダクのが目的だった。ルーズベルトの蒋介石支援が「日米戦争」への導火線となった。アメリカの第二次世界大戦への参戦で、アメリカは「ルーズベルト不況」から脱したのである。
 
米国務省の公文書公開「真珠湾は奇襲ではなかった」
日本の真珠湾攻撃の十ケ月前の1941年1月27日に、日本軍の真珠湾攻撃計画があることを、駐日大使グルーが国務省のハル長官に報告した公電である。
「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」
東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報・・
東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報!!

米英に通じていた外務省の「スパイ」
『正論』1月号に記事を載せました。(外務省にいたスパイ)

丸谷(まるたに)元人(はじめ).2016.英米に通じていた外務省の「スパイ」.雑誌『正論』平成28年1月号:208ー215.

は、行き詰まった日米交渉打開のために、昭和16(1941)年11月中旬になってアメリカに急派された来栖(くるす)使節団にスパイがいたことを突き止めた。それは、直前まで外務省米国局第一課長を務めていた結城(ゆうき)司郎次(しろうじ)(英語表記 Shiroji Yuki)という人物である。結城秘書官は昭和22年8月の東京裁判に証人として出廷。真珠湾が結果として「だまし討ち」になったことを「関係者の怠慢とか官紀の弛緩によるものではな」く、「今さら責任者の処分をなすことは不適当であると思う」との私見を述べ、開きなおっている。
関連情報。http://www.asyura2.com/sora/bd16/msg/562.html
 その後、結城は省内の要職を歴任し、昭和30~32年は、在スリランカ大使を務めた。この間に結城は、ハリウッドから同国へやって来た映画『戦場にかける橋』の撮影隊に日本大使館で食事をふるまったりしたのだそうだ。  http://business2.plala.or.jp/kokki/taimen2.htm

 そこで、結城司郎次の顔写真をネットで検索したが、見事なまでに消し去られていた。

 やっと見つけたクサイ写真が、これである。
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 昭和16(1941)年12月8日(現地時間)、国務省にハル国務長官を訪れる来栖大使(前)と野村大使(後)。
野村大使の右後ろに外務省随行員らしい人物が見える。これが、結城司郎次ではないのか?
しかし、断定はできない。

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日米開戦直前当時の米・ワシントン日本大使館の職員。前列中央は、寺崎秀成(ひでなり)一等書記官。

 日本国民が「真珠湾攻撃」が騙し討ちであったことを知ったのは、戦時中ではなく、「極東軍事裁判」を通じてである。占領下の日本では、この問題を論議することをGHQによって抑え込まれた。
 対米交渉打ち切りに関する「対米覚書」のハル国務長官への伝達が遅れた責任は、(1)栗栖・野村両大使、(2)日本大使館務総括の地位にあった井口貞夫参事官、(3)直接電信課を統轄し且つ浄書の任に当たった首席書記官・寺崎秀成一等書記官の責任である。

 寺崎は、その子のマリコ・テラサキ・ミラー編で、『昭和天皇独白録、寺崎英成御用掛日記』(1991年、文藝春秋)を書いている。

昭和天皇独白録』と寺崎英成についての疑問
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/07ea38e045d1c9b4262837b652977a58