東京裁判とニュルンベルク裁判(1)

 
 最近,「KSブログ」なるものを知りました,東京裁判ニュルンベルグ裁判を該博な知識で論じています。私はその部分を読もうとしましたが,文字が細かくて視力を痛めました。そこで,自分のブログに転載して,文字を大きく変換してから内容をじっくり読もうと思い立ちました。そんな訳で,まだ全文に目を通していません。

引用先はここです:「現代史についての雑文その18 ドイツと日本4」
   http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-517.html

 内容への質問や反論は「原典ブログ」へどうぞ。私に意見を問われれば申し上げることはできますが,目下,視力不調なので,すぐにご返事するのはできそうにもありません。
 なお,読めた時点で重要な表現は強調文字などで編集するかも知れません。

 引用開始

 さて、最後に戦勝国が敗戦国だけの戦争犯罪を裁く特別軍事裁判を実施する」というドイツ・フォーマットを日本に適用したことによる影響ですが、このフォーマットのドイツにおける適用例がニュルンベルク裁判で、日本における適用例が東京裁判であるのは、誰でも分かると思います。ニュルンベルク裁判と東京裁判には共通点も多く、それらはほぼ全て裁判としての致命的欠陥にあたる部分でした。と言うより、この2つの裁判は共に全体が致命的欠陥というもので出来上がっているような代物だったので、共通点が多いのは当たり前であったのですが。
 まぁ東京裁判については語るべきことがあまりに多く、それはまた別の機会にも詳しく触れることになると思いますが、ここではドイツと日本の対比ということで、ニュルンベルク裁判と東京裁判とで違った点、すなわち、ニュルンベルク裁判のフォーマットを適用しようとして東京裁判で生じた影響や相違点を切り口にして考えるのが適当であろうと思います。まぁそういう点も細かい点も含めれば多くあるのでしょうけれど、ここでは特に致命的な4つの点に絞ります。

(1)~(5)までの摘要

東京裁判ニュルンベルク裁判との違い」(入力者)


 ニュルンベルク裁判に対して東京裁判では 

1.共同謀議は立証されず,「平和に対する罪」は訴因として成立しない。
2.「人道に対する罪」は,訴因に含まれなかった。
3.裁かれる国(日本)の法曹関係者の協力を,占領軍当局は拒んだ。この点で,形式的にも公平性を失い,裁判と名乗る資格を喪失した。
4.国際法に基づいておらず,占領軍司令官の布告する条例を根拠とした。すなわち,「特別軍事法廷」であり,占領軍政下でのみ有効な裁判となってしまった。

(6)~(7)の内容
東京裁判史観を,戦後の日本人はなぜ受け入れたのか?」(入力者)

 東京裁判終結した時、日本国民は東京裁判を支持していたのではない。日本国民の7割が独立回復後に署名を連ねて「戦犯」の釈放を求めた。 
つまり、
●1951年9月、サンフランシスコ平和条約調印
   11月、大橋武夫法務総裁 「戦犯は国内法においてはあくまで犯罪者ではない」
●1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効
外務省の西村熊雄条約局長 「平和条約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向かって効力を失うのが国際法の原則だから、第11条はそういう当然の結果にならないために置かれたもの」(第11条は、刑の執行の即座停止の阻止が目的)
政府は拘禁中の全ての戦犯の全面赦免を関係各国に要請

5月1日、木村篤太郎法務総裁が戦犯の国内法上の解釈についての変更を通達。戦犯拘禁中の死者は全て「公務死」として、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」に。(平和条約で戦争犯罪の撤回を認め、戦犯は国内法上の犯罪者とみなさず)
6月7日、戦犯の釈放を求める全国的な署名運動は、4千万人達成

日本が1952年(昭和27年)に独立を回復すると、国会は早速、靖国神社合祀の関係法となる「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」とその関連法を制定した。
また、
1953年(昭和28年)8月3日には「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が、衆議院本会議に上程され、与野党全会一致で可決された。
更に、
1953年(昭和28年)8月から国会で、「遺族援護法」および「恩給法」の改正が重ねられた。
当時の国会は、「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を
改正し、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにし、「戦犯」とされ
た人々の死を「戦争による公務死」とした。
決定は全会一致だった。
「日本に戦争責任者は居ない」というのが、大東亜戦争の真実を良く知っていた
当時の日本国民の総意による結論だった。

 ところが、主権回復後、20年ぐらい経った1970年頃には、日本国民は東京裁判史観を心から受け入れて、アジア諸国に謝罪しまくるようになっていた。これは戦後の日本の指導層がアメリカの傀儡で、長年にわたって国民を洗脳してきたからである。
「KSブログ」の筆者はこの指導層の役割を「アメリカの代官」と呼び、彼らを「敗戦貴族」と呼んでいる。また、渡部昇一は「敗戦利得者」と言っている。
「戦後日本の指導層」とは、与野党問わず、政官問わず、マスコミ・知識人・文化人もひっくるめて、「保守 対 革新」で敵対するように見せながらみんな同じ穴のムジナで、そこから生まれる利権をむさぼりつつ国民をコントロールすることで共闘してきたのだ。
 (6)~(7)では、これらのいきさつについて説明している。
入力者・付記
WGIP(War Guilt Information Program:日本人に太平洋戦争に対する罪悪感を植え付ける宣伝計画)は、確かにアメリカが仕掛けたものだが、戦後の長年に渡ってその実務を実行してきたのは日本人の指導層なのである。
朝日新聞をはじめとする「南京大虐殺報道」や「従軍慰安婦問題」が、それである。「南京大虐殺」は、日本の歴史教科書にも載ったことがある。
入力者・付記 おわり


1)ニュルンベルク裁判
 この東京裁判ニュルンベルク裁判と同じく、戦勝国が一方的に敗戦国を裁くという著しく不公平な形式、罪刑法定主義の否定、法の不遡及の原則の無視、弁護活動の不当な制限、戦勝国寄りの証拠の恣意的な採用却下の判断、偽証罪が問われなかったこと、控訴が認められなかったことなど、およそ近代法治主義のもとの裁判とは呼べない酷いもので、集団リンチの政治ショーでありました。
 それは東京裁判でもニュルンベルク裁判でも共通の特徴でした。ただ、それでもニュルンベルク裁判は酷い大嘘の内容ではありながらも、役者が良かったのか脚本が良かったのか、政治ショーとしてはなかなか見応えがあるもので、それなりにドラマとして完結していました。それは、ニュルンベルク裁判の主題がナチスによる「人道に対する罪」という虚構を裁く「人類の法廷」という茶番劇であったからでした。茶番劇なりに壮大で見応えはあったのです。

 ニュルンベルク裁判で裁かれたのは「通常の戦争犯罪」「平和に対する罪」「人道に対する罪」でした。しかし「通常の戦争犯罪」も「平和に対する罪(侵略戦争の罪)」も、ドイツだけでなく連合国側もかなり犯しており、お互い様でした。裁判となれば連合国側の罪が裁かれないのは不自然と見なされるのは必然でした。
 そこでナチスドイツのみが犯した人類史上類例の無い全く特殊な比類なき極悪な犯罪である「ユダヤ人絶滅政策」がこの裁判において主に裁かれる「人道に対する罪」としてクローズアップされ、この前代未聞の特別な罪を裁くための裁判は前代未聞の異常なルールで運営されることが許容されたのです。その大騒ぎの中で戦勝国側の犯した戦争犯罪や侵略行為などは誤魔化され、ひたすらナチスを絶対悪として断罪する声が高らかに叫ばれるうちに、裁判は終了したのでした。
 しかし、こんなものはインチキでした。そもそもユダヤ人絶滅計画など存在しませんでしたので、出鱈目のプロパガンダの嵐の中で真の戦争犯罪が隠蔽されてナチスに全ての罪がなすりつけられたインチキ政治ショーがニュルンベルク裁判の本質でありました。それは十分承知の上で、それでもこの出鱈目やインチキの筋立てが非常に出来の良いフィクションであったため、この「人道に対する罪を裁く人類の法廷」という世紀のドラマは、それはそれなりに堪能することが出来たのでした。だから、裁判としては失格ですが、裁判ドラマ、政治ショーとしては非常に出来が良く、十分に合格点でした。

 そして、罪状は出鱈目ばかりであり、文明的な裁判としては全く成立はしていませんでしたが、このニュルンベルク裁判をもっと野蛮な場、戦争行為の延長、復讐のリンチの場として見たならば、これは十分に成功例であったといえます。
裁判も人間の営為でありますが、同時に戦争も復讐も人間の営為です。裁判だけが人間にとって目的達成の手段ではないでしょう。戦争でも復讐でも、その行為が純粋なものであれば、その善悪は関係なく、多くの人の共感を得ることもあります。裁判で犯人を裁くことだけが正しいのではなく、どうしても許せない犯人を被害者やその近親者が自らの手で殺すことも決して悪ではなく、人々の共感を得る場合もあります。人間の純粋な憎悪や暴力の持つ意味を完全に法の権威で否定することなど出来ないのです。そんなことが出来るのなら、戦争はとっくに無くなっていることでしょう。戦争というのは本質的に法というものを超える行為なのです。ニュルンベルクや東京で行われたイベントはその戦争の後始末をつける場なのですから、それが裁判の名に値しない、法治主義から逸脱したものになったのも、やむを得ないともいえるでしょう。

 そういうわけで私はニュルンベルク裁判は裁判としては全く評価はしませんが、人間の純粋かつ醜悪なる憎悪と復讐の場としては、このイベントは、その酸鼻極まる罪状、囚人たちの憎々しさ、復讐人や観衆の憎悪のボルテージなど、あらゆる面で素晴らしい完成度であったと思います。
 ユダヤ人絶滅計画などは全く出鱈目ではありましたが、ナチスユダヤ人を迫害し奴隷化していたことは事実ですから、ナチスユダヤ人から復讐されるのは当たり前のことでした。また、ナチス高官が共謀してヨーロッパに大戦争を引き起こしたことも事実であり、そのために多くの戦友をナチスに殺された連合国の人達もナチスに復讐したいと思うのは当然でした。復讐はそれが本当に純粋なる復讐であれば、法や善悪など超えるものです。だから、ガス室や焼却炉などの虚構を創り出してまでもナチスに濡れ衣を被せて残酷に罰してやりたいというユダヤ人や連合国人の心情というのは復讐や憎悪の感情としては純粋であるといえます。

 そうした純粋なる憎悪を剥き出しにした裁き人たちの前には、まさに復讐されるべき者達が憎々しげに並んでいました。残念ながらその最大の憎悪の対象であるヒトラーゲッベルスは既に自殺していたので、そこには並んでいませんでしたが、それは多少順序が入れ替わっただけのことで、一足早く復讐が完了しただけのことでした。また、この憎悪の復讐ショーを見守る観衆たちも、ドイツ人も含めてほとんど誰もナチスの高官たちが助かることを望んでいる者などおらず、みんなナチスを憎んでおり、多くのドイツ人法律家もナチスへの復讐に協力しました。
 このようにこのイベントにおいては憎悪が充満し、復讐の刃は向かうべきところに自在に向かっていました。まさに野蛮と狂気、憎悪と復讐のイベントとしては完璧な出来栄えでした。こうして、あらゆる復讐感情、応報感情を満足させて被告人の処刑をもってニュルンベルク裁判は見事に完結し、それがあまりに完璧に完結したため、ある意味、その後のドイツに何も影響を及ぼさなかったといえます。ユダヤ人絶滅計画のような全くリアリティの無い犯罪が二度と(いや一度も)起きるはずはなく、こんな裁判は何の教訓も残すことはなく、単に復讐のカタルシスを残しただけであったのです。

2)東京裁判
 こうしたニュルンベルク裁判に比べて東京裁判はどうであったでしょうか。まず、東京裁判では「通常の戦争犯罪」が訴因とされましたが、これはハッキリ言って日本を裁く側である戦勝国、すなわち判事席や検事席に座っている側の人達のほうがよほど多く罪を犯していました。
 アメリカ軍は南洋の島々で投降した日本兵を虐殺したり捕虜虐待を日常的に行っていましたし、民間船を潜水艦で面白がって沈めていました。日本本土の多くの都市に対しての無差別絨毯爆撃は明白な戦時国際法違反です。ソ連軍は満州北方領土で投降した日本軍の捕虜や民間人を大量にシベリアに連行して奴隷のように働かせましたが、これは戦時国際法違反です。シナ軍は戦時国際法違反便衣兵を公然と組織化し、日本人シナ人を問わず民間人を襲撃していました。これらの戦勝国側の戦争犯罪が裁かれることなく、日本の戦争犯罪のみが裁かれるのは不公平でした。
日本側が連合国側の上記のような戦争犯罪の証拠を提出しても全て却下され、逆に日本側の戦争犯罪の証拠は連合国側の出す証拠はどんないい加減なものでも大抵は採用され、それに対する日本側の反証は悉く却下されました。全く暗黒裁判と言ってよいでしょう。こういう不公平はニュルンベルク裁判と同じでした。