「支那」と「中国」について・池田一貴氏の論評

 最近,アメリカ人に「南京大虐殺の時,中国軍はどうしていたのか(なぜ,救援に向かわないのか)?」と中国人ブロガーが聞かれて,返答に困った
という話が各ブログで話題になった。
 http://miko.iza.ne.jp/blog/entry/1049126/
 南京戦当時,「中国軍」などというものは無かった。国民国家の国軍たる「中国軍」は今もないのだが,
「中国軍」といい,「中国」といい,中共宣伝にうまく乗せられているような気がする。私は面倒なので「中華民国中華人民共和国」を「中国」と言うが,地域名を支那満州・蒙古・ウィグル・チベットとし,中華民国を「民国」,中華人民共和国を「人国」とした方がわかりやすいと思う。
 グチャグチャな近世大陸史を,「中国」などとうかつに呼ぶと,どうも中共史観にもって行かれそうな気がする。そう考えていたところ,池田氏の論評があったので,参考としたい。
読者の声2)貴誌2605号(読者の声1)横浜市のNN生さんの反論にお答えします。
引用元:http://www.melma.com/backnumber_45206_4490462/
愚生が子供のころ,「支那」,「朝鮮」と言ふ呼称には明確な侮蔑の響きがありました。(「支那」が差別語であるというのは)意見ではなく,事実認識である
とのこと。
 おそらくそうであろうと考えていました。そのために、昭和30年代に「支那」という言葉に親しみを込めて使う中年女性の例を紹介しました。これもまた事実です。侮蔑とは無縁の「支那」使用もあったという「事実認識」を示したのです。もちろん、それが全てではありませんが。
 人間はとかく自分の経験を絶対化しがちなものです。「支那」に関していえば、日本人の中には侮蔑的に使う人もいれば、特別な価値観を込めずごく自然に(中立的に)使う人もいた、というのが事実です。その使用実態(どちらが多いか少ないか)は、時代によっても異なるでしょう。おそらくNN生さんは「支那」という言葉が日常生活で普通に使われていた時代をご存じないのでしょう。
 戦前から昭和20年代ぐらいまでは、隣の大陸国を指すとき「支那」と呼ぶ大人が多く、「中国」といえば山陽・山陰を合わせた地方の呼び名と感じるのが普通だったのです。戦前の雑誌で各地方の特徴を特集した記事の中には「東北人」「関西人」などと並んで「中国人」という分類もありました。日本の中の「中国人」です。
 そんな日常生活の中では、隣国を「中国」や「中国人」と呼ぶ人より、「支那」や「支那人」と呼ぶ人が多かったのは当然です。それは蔑称でも何でもありませんでした。(もちろん、憎々しげに「支那人め!」と使う人もいたに違いありませんが、それは「アメリカ人め!」と同レベルの表現であって、「チャンコロ」や「アメ公」という蔑称とはレベルが違います)。
 しかし昭和30年代半ば以降(特にテレビが普及して以降)に物心ついた子供たちは、学校やテレビなどで隣国を「中国」という名称で教えられて育ちましたから、「支那」というのは古い大人たちの言葉、または隣国を侮蔑的に呼ぶ時だけ使う言葉、という印象を持って育ったのでしょう。
 ネット時代になると、隣国に反感をもつ青少年が「支那」をもっぱら蔑称として使う事例が増えました。しかしネット上にもこれを蔑称ではないと自覚して使う人々もいたことは間違いありません。
つまり、NN生さんの「事実認識」は成長した時代を反映していると思われます。

 しかし戦前・戦中・戦後と一貫して変わらなかったのは、「支那」を侮蔑的に使う人もいれ中立的に使う人もいたということ。
それが事実です。拙論はそういう事実(支那を侮蔑的な意味で使っていない多くの事実)を指摘したのです。
支那は差別語か」http://ikedaikki.blog103.fc2.com/blog-entry-6.html
それをお読みになった上での反論でしょうか?
ご自分の周囲の経験だけが「事実」だとお考えですか?

 小生が問題にしたいのは、人権派左翼がいくつかの侮蔑的用法の事例を取り上げて「だから支那は差別語だ」として「言葉狩り」をしている現実です。
このような形の言葉狩りを許せば、日本語という伝統的な言語がズタズタに切り裂かれてしまいます。現に新聞・テレビ・単行本では使えない「禁止語」なるものが1冊の分厚い本になるほどリストアップされ解説されています。
これらは日本語の伝統を否定し、過去を抹殺しようとするものです。「支那」もまたそのような言葉の一つです。
 現在、新聞では「支那」「部落」のほか、「人夫」「女中」「瘋癲」「群盲象をなでる」「片手落ち」その他、多数の言葉が掲載拒否、または言い換えを求められます。テレビの場合、新聞の数倍の言葉が放送禁止語として規制されています。「支那が差別語になったのは自業自得。差別語であっても我々は自由に使えばいい」などという甘っちょろい状況ではないのです。
 だからこそ小生や勉強会仲間(主に物書きを職業とする人々ですが)は、人権派左翼と論争をして、彼らの恣意的な「差別語」認定を是正する場合があるのです。「支那」に関していえば、NN生さんのように、それを自分の狭い経験から「確かに支那は差別語だ。それは事実認識だ」と主張することは、こうした言葉狩りに加担することを意味します。「差別語として使われていない事実がこれだけある」という事実提示に耳を傾けないことも同様です。

 実際、人権派左翼の中には「差別語として使われていない事実」を多数突き付けられると、今度は必ず論点をずらして、次のように主張します。「使う側が差別語として使っていなくても、相手が嫌がっているのだから使うべきではない」と。
 この論理は、部落解放同盟などの部落差別反対運動団体から、フェミニズム運動団体、その他多くの身障者・病人・職能組合などに至る反差別運動団体がよりどころにする便利な論理となっています。
 もちろん「支那という言葉を使うな」という人権派左翼(中共擁護派)も、この論理を最後の砦としています。「靴を踏んだ人間は何も感じなくても、踏まれた人間は痛いのだ」という屁理屈です(この喩えは間違っていますが)。
この論理を無条件に認めてしまうと、これはいくらでも悪用できます。セクハラ、パワハラ、その他もろもろのハラスメントを主張する人々は、「言われる側が嫌がっている」と主張するだけで、相手の言論を封じることができるからです。また、被害者を装えば、相手の表現を規制し、自分の望む表現に変更させることもできます。「支那」→「中国」の場合がまさにそれです。

 さて蒋介石はご指摘のように日本に留学したことがあります。
蒋介石は心底日本を憎んでゐたかもしれませんが,日本人を太古の支那人のやうに「倭奴」と思ってゐたでせうか.さうだとしたらなぜ日本に留学などするのですか.彼が「支那」と言ふ呼称を捨てたがったのは,それに付き纏ふ古く遅れた国と言ふイメージを嫌ったことと,やはり日本人が使ふ「支那」の呼称に侮蔑の響きを聴きとったから,と考へるのが自然であると思ひます.(NN生さん)
蒋介石が日本留学を望んだのは、日本を憎んでいたか好きだったかに関係はありません。彼は日清戦争後に多くの支那人が日本の近代化に学ぼうと留学したのと同じ動機で留学したのです。日本の進んだ軍事技術を学ぼうとしたのでしょう。魯迅より少し遅れて、しかし魯迅がまだ日本にいる時期に、蒋介石も日本留学しました。ご存じのように、魯迅は「支那」「支那人」という言葉を著書で何度も使っています。その時期に<日本人が使ふ「支那」の呼称に侮蔑の響きを聴きとった>のなら魯迅がわざわざ「支那」を使うでしょうか?
NN生さんの推測は、ご自分の経験を過去に投影しただけのように思われます。蒋介石も、日記に日本人と親しくした事実は書いていますが、「支那」の呼称で侮辱されたなどということは書いていません。

 その当時、彼は東京振武学校(陸軍士官学校に入る前の予備学校)を卒業後、陸軍士官学校には入らず、新潟県高田町の陸軍第十三師団野砲兵第十九連隊に二等兵として入り、そこで1年間の実地訓練を受けました。その当時の兵営生活について、蒋介石はこう書いています。
日本の明治維新の立国精神を感得し、武士道の精神に触れる生活がそこにあった。のちに『私は、日本の伝統精神を慕い、日本の民族性を愛している。日本は私にとって第二の故郷である』とまで言い切った“日本認識”は、この時期に得たものであった。
と。
蒋介石は、日本留学時に<日本の民族性を愛した>ほど、日本が気に入ったのです。これが<日本人が使ふ「支那」の呼称に侮蔑の響きを聴きとった>とNN生さんが言われる人物の言葉でしょうか? 蒋介石は、日本留学当時、魯迅と同じく「支那」という言葉に何の違和感も感じてはいなかったのです。なぜなら、それは侮蔑語でも差別語でもなかったからです。
 歴史を、推測で勝手に捏造してはいけません。NN生さんの推測は、人権派左翼の歴史捏造の手口と大差ないのです。厳しい言い方をして申し訳ありませんが、自分の狭い経験や最近の風潮を、過去の歴史に投影して、歴史を歪めることが戦後盛んに行われたため、戦後世代の歴史認識は大きく歪められています。「支那」という言葉ひとつを取ってもそうなのです。

 ではなぜ蒋介石は、のちに「支那」という言葉を目の敵にし、日本に「大中華民国」を使えと要求してきたのでしょうか? 第一次大戦後、いわゆる21箇条要求、五・四運動、中国共産党結成、日本軍の山東出兵、排日・侮日運動などの流れの中で、日本との緊張関係が高まり、日本に対する弱腰は支那国内の統治に影響するとみた蒋介石が、対日批判の一環として、「支那」は「死に体」を意味する侮辱的な言葉だと強調し、軍人やインテリを煽ったとみるのが正解でしょう。もちろん「死に体」云々はデマですが、当時、支那は国内外に対するデマ宣伝を得意としていました。
蒋介石の“真意”を文献で辿ることはできませんが、少なくとも蒋介石が軍人たちを相手にそういう演説(「支那」=「死に体」という演説)をした記録は残っています。日本に対する敵愾心を煽ることが目的だったものと思われます。支那事変の頃の記録です。そしてその当時、蒋介石は日記に「倭寇」「倭奴」という言葉を使って日本を見下しています。一留学生の時代と最高権力者の時代とでは物の見方も生き方も戦略戦術も変わるのは致し方ないことかもしれません。NN生さんは<(蒋介石が)日本人を太古の支那人のやうに「倭奴」と思ってゐたでせうか>と疑問を呈しておられますが、拙論をお読み下さい。
事実を確認せずに、推測だけで反論するのは、人権派左翼と同様の誤りを犯すものです。
 最後に、
支那が今やるべきことは,「秦」と言ふ国名に由来すると言ふ由緒ある「支那」と言ふ呼称を大切にし,それに世界が畏敬の念を抱くやうにすべく自らを律することです.
とのお言葉、まことにおっしゃる通りです。大いに賛同いたします。
しかし支那がそういう立派な自覚を持つまでに、あと何百年くらい待てばよいのでしょうか? 
それまでは支那におもねるマスコミや人権派左翼らの言葉狩りに、黙って従うのが正しいのでしょうか?
NN生さんが無責任に「遠慮なく使へ」と言っても、マスメディアでは表現が規制(排除)されているために、使いたくても使えないのです。たった1つの言葉でも、歴史的な歪曲から取り返すことは大変なのですよ。 (池田一貴)

宮崎正弘のコメント)言葉狩り、昭和も遠く なりにけり。