日本

 日   本
                            
           日本、うつくしい国だ
           葦の葉っぱの
           朝露がぽたりと
           おちこぼれてひとしづく
           それが
           此の国になったとでも言ひたいやうな日本
           大海のうへに浮いている
           かいらしい日本
           うつくしい日本
           小さな国だ
           小さいけれど
           その強さは
           鋼鉄のような精神である

                   おう日本
                   ぴちぴちしている魚のような国
                   勇敢な日本
                   古い日本
                   その霧深い中にとじこもって
                   山鳥の尾のながながしいゆめをみていたのも
                   いまはむかしのことだ
                   めをあげて
                   そこにどんな世界をお前はみたか
                   日本、日本
                   お前のことをおもふと
                   此の胸が一ぱいになる
                   お前は希望にかがやいている
                   お前は力にみちている
                   そして真剣だ

           だが日本よ
           お前の道はこれまでのように
           もうあんな平坦なものではあるまい
           お前はよるひる絶えず
           お前のまはりに打寄せている
           その波の音をなんときいているか
           寂しくないか
           おう孤独な
           遠い一つの星のような日本
           からりとはれた黎明の天空(そら)のような国
           ときどきは通り雲の
           さっとかかるぐらいのことはあっても
           おまえはまだただのいちどでも
           その顔面に泥をぬられたことはないんだ
           そんな美しい国なんだ
  
                  日本
                  幸福な日本
                  強い日本
                  わたしらは此処で生れたんだ
                  また此処で最後の息をひきとって
                  遠祖らと一しょになるんだ
                  墳墓の地だ
                  静かな国、日本
                  小さな国、日本
                  つよくあれ
                  すこやかであれ
                  奢(おご)るな
                  日本よ、真実であれ
                  馬鹿にされるな






 作者・山村暮鳥は、大正13(1924)年12月8日、40歳の若さで病死した。
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「日本」は,没後1940年刊の『万物節』(厚生閣)に収められている。














 暮鳥の晩年の大正末期といえば、第一次世界大戦終結直後にあたる。
日本は大正9(1920)年に南洋諸島委任統治権を得て、発足した国際連盟常任理事国となり、新渡戸稲造が事務局次長に就任している。大正11(1922)年、ワシントン会議での海軍軍縮条約が決まり、翌年には関東大震災で死者・行方不明は14万人を数えた。
 いわば、坂の上の雲」の次の時代だ。

 欧米列強に伍して「世界の一等国」になった訳だが、この緊張感と孤独感と謙虚さはどうだろう南樺太・朝鮮・台湾・南洋諸島を領して、なお「小さな国」なのだ。
 言葉で他人をあやつる(要するに「嘘つき」の「ハッタリ屋」の)支那人朝鮮人には、とてもマネのできないことだ。
 
 大正9年(1920)、三宅雪嶺が主催した雑誌『日本及び日本人』が特集した「百年後の日本」に、山村暮鳥は一文を寄せている。
当時の代表的教養人350余人と共に、である。

暮鳥のタイトルは、「よくなる前に悪くなる」であった。

「――なによりもまず、このままでの帝国ではなくなるでせう。
日本人の性格から考えてみて、現在のロシアや支那のそれのようになることはあるまいが、とにかく一度外国と大戦争があって、それによって粉みじんに蹂躙されるでせう。
そして、はじめて真に目ざめるでせう。―――」

 黒船と清国・北洋艦隊(長崎事件)の恫喝におののき、臥薪嘗胆を経て、日露戦争でロシアを撃退した。その後白船事件(グレート・ホワイト・フリート)にたまげるが、第一次世界大戦を経て今や世界の一等国。だが、いよいよ分かってきたのは、欧州大戦の惨状と「一等国」の存続もなまなかではないということだ。
気づけば、日本は白人勢力に取り囲まれている。

日本は「世界の一等国」になったとたんに、さらに厳しい国際環境にさらされることになった。
     
   昭和天皇のご見解 ―大東亜戦争の遠因について


     当時の年表
大正 3年 8月 日本、第1次世界大戦に参戦する。
    6年 11月 日本の満州権益を米国が承認する。石井=ランシング協定が結ばれる。
    8年 6月 第1次世界大戦についての講和条約ベルサイユ条約)がパリ講和会議で調印される。この条約          で日本は旧ドイツ権益の青島を継承することとなった。また日本の提出した人種平等案が否決           された。
    9年 1月 国際連盟が組織され、日本も加入する。
   10年 11月 中国・太平洋問題について関係各国によるワシントン会議が開催される。この会議の結果、日本           は青島の返還を余儀なくされた。
    12月 4ヶ国条約が締結され、日英同盟が廃棄になる。
   11年 2月 海軍軍縮条約および9ヶ国条約(中国問題を米国を始めとする関係9ヶ国で解決するとの確認)が          締結される。
   13年 7月 アメリカにて排日移民法が成立。
      12月 山村暮鳥、死す。

この排日移民法によって「日本は大きな移民先を失ったため、その代替として満州を重視せざるを得なくなり、満州事変につながった」とする見方が、古くから存在する。アメリカは第一次世界大戦の直前に、一人あたりのGDPがそれまでのイギリスを抜いて世界第一位になった。http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/48301381.html(上から2番目のグラフ)。
 アメリカは,ハワイ→フィリピンと植民地で太平洋を押し渡ったが,そんなものでは足りなかった。南北戦争で,欧米列強の植民地争奪戦に出遅れたのが原因である。
 アメリカは、イギリスに
「今回の大戦で助けてやったのだから、日本と手を切って支那の市場を俺にもよこせ
とせまったのである。落ち目のイギリスは、初めは渋ったが、「落ちぶれを遅らせるにはそれしかない」と、乗った。支那市場をめぐっていずれ邪魔者になる西太平洋の地域覇権国・大日本帝国は、大英帝国と分断しておかねばならない。
その結果が「日英同盟破棄」だ。

 アメリカ資本主義が支那の市場を求めて策動を開始したのが、第一次世界大戦後のことであった。日本の歴史教科書は、このことを明確に指摘することはしない。東京裁判史観(日本悪玉論)が成立しなくなるからだ。東京裁判史観にケチをつければ、戦後の学会では出世できないしくみになっていた。日本の近代史家はなんという連中なのだろう。

 開国以来の日本の近代化の行く手に暗雲が垂れ込めていたのを、大正時代の暮鳥がこうして予見していた。司馬遼太郎が活写した「坂の上の雲」の時代よりは、自立自尊であるからこそ、その時代を生きる困難さを身にしみて感じ取っていたにちがいない。
 
今年は、それから90年になる。