東京裁判史観を打破してなにを目指すのか? 1

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24(2012)年2月24日の「論壇」から、次をご紹介したい。
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  大東亜戦争を考える
                           多田 彰矢

 昨年は大東亜戦争開戦70周年に当り、論壇には多くの大東亜戦争論が登場した。それは現在も尚続いており、とくに保守・民族派の論者の発言がはなざかりである。それらの議論や発言の要旨を集約すると以下のようになろう。

 1)大東亜戦争は欧米帝国主義に対する自存自衛の正義の戦争であった。
 2)戦争には敗れたがアジアを白人による植民地支配から解放した聖戦であり、  大東亜共栄圏の目的は達成された。
 3)東京裁判は勝者による報復裁判であり、日本国憲法は日本弱体化政策の中心  であった。
 4)ABCD包囲陣が日本を追い詰め、アメリカのハル・ノートこそ対日宣戦布告であ  った。
入力者異論あり・1941年7月25日の「在米日本資産の凍結」が対日宣戦布告。日本の戦費調達用の在外ドル資産は使えなくなり、日本は世界から経済的に孤立した(E.ミラー『日本経済を殲滅せよ』)。ブロック経済下の世界では、ドル決済のみになり、日本国内にドルや金があっても戦略物資の輸入ができなくなった。次にくる「石油の禁輸」より実は深刻で、わざわざ発表しなくても、この時点で既に石油も輸入できない。ルーズベルトは日本を破産に追い込み、はっきりと「兵糧攻め」を仕掛けてきたのである。
 5)日本はコミンテルンの謀略に乗せられた。
 6)東京大空襲、広島、長崎の原爆は国際法違反の戦争犯罪的行為であった。
 7)ソ連の対日参戦は日ソ中立条約侵犯であり許されざる行動である。
 8)南京大虐殺はなかった。でっち上げである。
 9)いわゆる従軍慰安婦問題もでっちあげである。等など。
10)東京裁判で死刑宣告されたA級戦犯は、いわゆる公務死として戦死者に殉じて  扱われるべきであり、それゆえA級戦犯靖国神社合祀は全く正当である。
11)日本軍は勇戦敢闘したが連合軍の物量に敗れた。勇敢に戦った将兵、特攻隊  の英霊には感謝と追悼の誠を捧げるべきである。
清水 馨八郎「大東亜戦争の正体―それはアメリカの侵略戦争だった」は、次の点も挙げている。

 テレビ・新聞で報道されない論点

 1 大東亜戦争(植民地解放)と太平洋戦争(日本悪)の区別 
 2 戦争放棄条項はアメリカ殖民地時代のフィリピン憲法と同じ 
 3 戦勝国も、日本独立後の国会でのABC戦犯赦免決議を承認 
 4 アメリカの侵略戦争の戦端は常に相手国が先に攻撃したように仕向
   ける。そして、リメンバー....という合言葉で国民を鼓舞して戦争
   に駆り立てる 
 5 万里の長城より北の満州はシナでなく、満州国建国は溥儀の希望 
 6 周恩来発言で、中共が日本軍と国民党軍の両方に鉄砲を打ち込み相
   戦わせた。毛沢東発言で、日本軍のおかげで中共を作ることが
   できた。 
 7 列強各国は白人の世界完全制覇の邪魔者日本に危機感(黄禍論)を
   持っていた。 
 8 アメリカはフィリピン征服後、満州を狙っていた。 
 9 ルーズベルトの謀略で、日本軍と日本政府は戦争を回避できなかっ
   た。 
10 独立後もGHQの検閲に協力した文化人約5000人が教育言論界
   を支配し、自虐史観を定着させた←敗戦利得者の群れ(入力者注記) 
11 戦争対戦国間では、歴史の記述が異なるの当たり前 
12 アムステルダム市長の大東亜戦争の賞賛
 いずれもそれぞれ正しい主張であり、筆者も全く異論はない。だがしかしいつもかかる議論ばかりに終始しているのが保守民族派の現状ではないか、もっと別の視点があってもいいのではないかというのが筆者の思いである。
とくに反日左翼の自虐史観や中国・韓国からの執拗な「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の
デマゴギ-攻勢に対する反論に汲々とするあまり、何か大きな視点が欠けているのではないか、
という気がしてならない。すなわち自虐史観に反論することにのみ力点がおかれ、ある意味で裏返しの自虐史観や謀略史観に陥って自己満足しているのでないか、という思いである。
そこで同陣営の方々からのご批判を覚悟の上で私の考えを述べさせて頂く。

 ▼戦争とは勝つことでなければならない

 まず戦争とは何か、クラウゼヴィッツのテーゼを引くなら「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である。」ということである。すなわち換言すれば戦争とは勝たねばならない。勝利こそ正義であり、敗北とはすなわち悪である。不幸にして敗北したのであれば何故敗北したのかを冷静に見つめなければならない。
 ドイツはフリードリッヒ大王の昔から戦争では勝ったり負けたりしてきた。それゆえドイツ人は敗戦に対してはその敗因を客観的に総括し、きたるべき戦争では負けないようにしようと懸命に努力する。この場合戦争とは軍事だけでなく政治、経済、文化あらゆるものを包含する。そこからドイツではフィヒテシャルンホルストグナイゼナウクラウゼヴィッツビスマルク、モツトケなどが生まれ、第一次世界大戦の敗戦後はゼ-クトなどがきたるべき再軍備に備えた。
 それゆえ度重なる戦争でドイツ民族は鍛えられ、第二次大戦では日本以上に国土が破壊しつくされたのに、いつのまにか不死鳥のように立ち上がり、東西ドイツ統一に伴う膨大な重荷もすでに克服してしまっている。気がつけば今やEUの支柱はドイツである。
 世界がメルケル首相の一挙手一投足に注目する。ドイツはすでに憲法基本法)も改正して連邦軍保有しており、東ドイツも回収して残る戦後処理問題はオーデル・ナイセ線以東の旧領土や旧東プロイセンズデーテン地方など旧領土問題があるが、当面これは凍結されたままであろう。

 一方で日本は憲法も領土も何も手付かずの状態である。すでにヤルタ・ポツダム体制は消滅しているはずなのに、日本の政治家、国民の意識には「内なるポツダム体制」が根強く残っている。

 見方をかえてみよう。
 支那事変を含む大東亜戦争におけるわが戦没者は軍人軍属230万、一般市民80万の合計310万であるとされる。ではこの310万もの死者の責任は誰が負うのか。東京裁判という勝者による裁判で敗者である日本は裁かれた。
だがそれはあくまで勝者による報復裁判に過ぎず、
日本人自身による戦争の総括は果たしてなされたのか?いや何も総括がなされぬまま戦後67年が過ぎてきたのではないか
というのが筆者の考えである。
 たしかに戦没者は直接には敵の手によって殺されたといえよう。だがしかしわが軍人軍属の死者230万の内6割強の140万は戦闘における戦死ではなく悲惨な餓死であった。ガダルカナルに始まってニューギニアインパール、レイテ、ルソン等々補給を絶たれ、まさに撃つに弾なく、糧食もなくただただ鬼哭啾啾屍を大東亜の山野に晒したのである。

大本営が湖塗したこと

 一体、これだけの将兵を餓死させた戦争、軍隊は歴史に存在しない。またそれだけでない。「ダンピール海の悲劇」の如く制空権を奪われた中で実に多くの輸送船が撃沈され、余りに多くの将兵が一発の弾丸も撃つことなく海の藻屑と消えたのである。大本営はこれらの死者を「勇戦敢闘、壮烈な戦死を遂ぐ」と吹聴糊塗していった。
 大東亜戦争の期間その大半を大本営作戦課長の職にあって作戦を指揮した服部卓四郎大佐は戦後になって「あれだけ船が沈められるとは思わなかった」と述回している。

 攻勢終末点を超えて、次々と前線を進め、占領した多くの島嶼に万遍なく部隊を配置して結果的に広大な太平洋の戦域に戦力を分散配置することとなった。ガダルカナルの奪回作戦に戦力の逐次投入という失策を重ねて、悲惨な結果を招いたのは大本営であり、作戦課長の服部卓四郎大佐であった。その服部卓四郎大佐は昭和14年関東軍の作戦主任参謀として辻政信参謀とともにノモンハン事件を敗北に導いた張本人でもあった。ところで近年、ソ蒙軍の損害が関東軍よりも多かったことが分かって、ノモンハンは日本が勝った戦いであるとする論者がいるが、これは常に敵に倍する損害を想定してかかるトハチェフスキー以来、ジューコフなどに継承された赤軍の軍事ドクトリンを知らない空論である。
 ノモンハンが敗北であったのは誰よりも当事者たる服部や辻が身にしみて分っていたのである。

 日本軍が何とか互角に戦えたのは海では昭和17年秋の南太平洋海戦くらいまで、陸では昭和19年の大陸打通作戦までであった。この戦争は昭和19年6月のあ号作戦(マリアナ沖海戦)の大敗とサイパン失陥以降は全く一方的な連合軍による殲滅戦、掃討戦、殺戮戦のようなものであった。
 それ以後はまともな作戦は取りえず、ひたすら特攻隊が繰り出され、玉砕戦が繰り広げられていった。特攻隊を例にあげると、一体誰がこの戦法を考えたのか、実はこれがいまだにあいまいのままになっている。
(続)