東京裁判史観を打破してなにを目指すのか? 2

▼特攻隊の本当の生みの親は誰?

 一般にはレイテ戦に際して、当時第一航空艦隊司令長官であった大西瀧冶郎中将が発案し、関行男大尉を指揮官とする敷島隊が編成され、あとは陸続として特攻作戦が続いたということになっている。
 実際には当時軍令部の作戦部長であった中沢佑少将と作戦参謀の源田實大佐の考案であったというのが事実らしいが、終戦時軍令部次長であった大西中将が自決したこともあり、特攻作戦の責任者は大西瀧治郎中将であったのが「定説」となった。
 死人に口なし、戦後は航空幕僚長から参議院議員までのぼりつめた源田實大佐は、自分は一貫として特攻には反対であったと虚偽の発言をし通した。中沢佑少将も特攻については沈黙を貫いた。

 戦後、旧軍人が書いた戦記・戦史はあまり信用できないというのが私の考えである。
 服部卓四郎大佐にしても戦後『大東亜戦争全史』という大部の著書を残している。全編実に巧みな美文であり、さすがに帝国陸軍のエリートらしい作文であると感ずるが、自己弁護と責任転嫁が随所に見られ、あの戦争で何故かくも多くの犠牲者が出たのか、その責任があいまいなままである。
エリート参謀といえば瀬島龍三中佐にしても、戦後の著作や発言を見ると、結局終戦ソ連軍が満洲に侵攻して関東軍との間でどのような降伏交渉があったのか、核心の部分は何も語っていない。

 関東軍といえば終戦時の作戦主任参謀であった草地貞悟大佐には生前その話をよく聞いたが、ソ連軍の侵攻時に何故関東軍満洲奥地にいた開拓団や居留民を見捨てて撤退したのか、という質問に対して「軍の絶対的かつ唯一の任務は作戦であり、それ以外にはない。それが軍隊だ。」と言い放たれたのを聞いて愕然とした記憶がある。
 満洲関東軍に取り残され、ソ連軍や暴民の暴行、略奪の犠牲となった十何万もの開拓団、居留民について一体誰が責任を負うのだろうか。日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍が悪い、暴民が悪いというだけで済ますのは簡単である。
しかしそれだけでは日本として、日本民族としての歴史総括にはならない。
 東條大将以下A級戦犯として処刑された7名については、講和条約発効後国会決議により公務死として扱われ、爾後日本には戦争犯罪人は存在せず、とみなされるようになった。よって後年A級戦犯靖国神社に合祀されることとなった。私はこれについては異論を述べない。

 ▼ポツダムの奴隷

 東條大将が東京裁判における天皇訴追の動きを身を挺して防いだ忠義心も認めよう。しかし日本国と日本国民にとって、戦争指導者であった東條大将以下をどう評価するのかはまた別問題である。
 あの戦争の結果、310万もの人命が失われ、多くの領土が奪われ、占領基本法たる日本国憲法がいまだ日本を律しており、また多くの米軍基地が置かれたままである。首都圏だけでも横田、厚木、横須賀とこれだけの外国軍基地が置かれている。まさに半植民地的状況である。これを大半の日本国民は何ら屈辱とも思っていない。
 「アメリカ軍に守ってもらうのだから基地があるのは当然だ」と。まさにポツダムの奴隷である。あえて暴言をもってすれば、今の日本国と日本国民は去勢された畜群のようなものではないか。
 結論を述べると、枝葉末節な論議から
大東亜戦争を日本国民が主体的に総括すべきときに来ているのではないか、
というのが筆者の考えである。

(入力者注記 日本人の未曾有の戦い・大東亜戦争を主体的に考えさせなくしている元凶が、「東京裁判史観」なのである。それはそうだろう。もとはと言えば、敵の正当化と日本人の分断をねらった謀略で、「連合国は良く、軍部が悪い、資本家が悪い、天皇が悪い。国民は被害者だ」と国民を免責したうえで、国民から主体性を奪ったのである。これに便乗した敗戦利得者の群れが、「戦後知識人」である。)

 すなわち、昭和10年代政府・軍部は景気よく「高度国防国家」をうたい「国家総動員体制」を宣伝したが、肝心のエネルギ-(石油)はその殆どをアメリカからの輸入に頼っており、昭和16年南部仏印進駐までよもやアメリカから石油の禁輸をくらうとは想像もしていなかったが、これは現在の原発事故以降の日本も似たような状況ではないか。
 また、何故日本は戦争に追い込まれたか、何故敗北したか、何故あれだけの戦死者、餓死者を出したのか等々、そしてその責任はどこにあったのかも冷静かつ全体的視野に立って総括を行うことが大事ではないだろうか。
 当時の国家指導者の政戦両略にわたる指導のあり方も精査されなければならない。或る意味では大東亜戦争の悲劇の歴史は日本民族の将来にとってかけがえのない無限の教訓を含んでいる。
 それはまさに父祖の世代の血涙の教えでもある。そして二度と敗戦の悲哀を味わうことのない国家をつくらなければならない。(二度と戦争をしない国つくり→絶対平和主義は誤りであり、空論でしかない)それが戦争で斃れた多くの英霊、同胞に対する後世の人間の義務であると私は信ずるのである。

 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。」(ビスマルク)というが、歴史の教訓から何も学ばない民族は亡びるしかないということを何千年の人類の歴史が示している。
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この多田彰矢氏の「大東亜戦争を考える」に対して、2月27日号の(読者の声6)に次のような感想が寄せられた。
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 多田氏の主張の論点は先の日本の戦争(大東亜戦争/太平洋戦争)を日本人自身が枝葉末節の議論ではなく、もっと大きな視点から主体的に総括すべきであるという点にあり、小生もこの論点には全く同感である。

 日本史を世界史的な時間的・空間的パースペクティブの中で再評価すべきという西尾幹二氏の主張にも通ずる論点である。
 西尾氏の最新刊である「天皇と原爆」については宮崎先生の力のこもった書評を拝読し、小生も読了したばかりですがその感想を述べたい。

1.陸軍悪玉、海軍善玉論への疑問:東京裁判において7人の絞首刑関係者の1人の文官を除く6人全員が陸軍関係者であり、海軍からは1人出ていないことへの疑問を先に  投稿し、米軍側の何らかの配慮がなければ考えられないと主張しましたが、客観的証拠を持っている訳ではないので研究者の今後の研究に待ちたい。

2.日本の海軍は無分別に太平洋の島嶼郡へ戦線拡大し、その戦線へ陸軍将兵多数を船で運び、島嶼戦に慣れない上武器弾薬や食料の補給もないまま置き去りにし戦闘死ではなく餓死による犠牲を強いた責任は海軍にある。
奥宮正武という海軍参謀が戦後に書いた本の中で陸軍を馬鹿にしたようなことを言っている。陸軍の三式戦闘機27機がトラックからラバウルに向けて発進したが無事着陸できたのは14機にすぎず他は途中行方不明になったという。陸軍機は陸上戦闘を目的としており洋上はるばる飛ぶ訓練など受けていないであろうから当然ではないか。
 これも海軍が自ら招いた島嶼戦での航空機の消耗を陸軍機で補おうと要請した結果であり海軍の陸軍への無理強いが招いた悲劇であろう。

3.天皇の戦争責任論:誰も正面きって論じないこの問題を西尾氏は『天皇と原爆』のなかで明確に述べており、これだけでも一読の価値がある。
 天皇は平和主義者であり、悪いのは陸軍だ、軍人だ、天皇も国民も悪くない」という言説を西尾氏はおかしいと言い、むしろ昭和天皇を侮辱するものだと言う。確かに開戦の詔勅天皇御璽のもとに発しており責任は免れない。昭和天皇自身もその責任から逃げていないし大東亜戦争そのものを否定されたこともなかった。
 だからこそ敗戦後のマッカーサーとの会見で「すべての責任は私にある」とおっしゃったのだ。


 西尾氏は
天皇の戦争責任を認めると同時に、戦争を含む過去の歴史をトータルとして日本人自身が肯定すべきであり、




過去をことごとく肯定する強靭な精神を

日本人は回復すべきだ
と述べる。





何故なら天皇はあの時代において日本そのものであり、天皇の戦争責任を否定することは国民が自分を否定することと同じことになってしまう。

西尾氏の結論は
「自分たちの歴史を肯定し、決して悪びれない」日本人としての意志である。


小生もそれこそが正に「正気」であろうと思う。
(ちゅん)。
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 私も、これでよいと思う。

 天皇を免責することは、我々日本人のためにならないのではあるまいか?

日本人は、異教徒や異人種を家畜や悪魔の手下と見る収奪的な植民地・帝国主義者の白人どもとは違ったのである。「人権」も「愛」も、彼ら「自称・文明人」内の符牒であって、詐欺師の歌う外向けCMソングであったのが事実だ。

 大日本帝国は自尊自栄をかけて、大東亜共栄圏の建設のために打って出たのである。
 その結果、「人権」も「愛」も、「符牒」では済まされなくなったではないか。

 破れたのちは、二度と破れぬ方策を練るしかあるまい。