インパール作戦とインド・パキスタンの独立、そしてそれから・・・・。



日本ではほとんど知られていないが、インド独立のきっかけは大東亜戦争にあった。
 日本の敵となったイギリスの本音を、日本の近代史家はろくに検討もせずに
「日本悪玉論」に安住してきたらしい。
 英国の歴史家・ロンドン大学教授のエリック・ホプスバウは、二十世紀を回顧した近著『過激な世紀』の中で、「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派による非暴力の独立運動によってではなく、日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が協同してビルマ(現ミャンマー)経由インドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。」と述べている。
インパール作戦インド国民軍の指導者のチャンドラ・ボースのインド独立戦争の情熱にほだされて
東條が実行を決定したものであった。作戦で倒れた多くの兵士には哀悼の意を捧げるしかないが、
その作戦目的はインド独立と言う壮大なものであった。インパール作戦に日本の勝機があったことは
英軍の幹部が証言している。最大の問題は作戦発動の時期が遅かったことであった。

 しかしインド独立の始まりは、日本の敗退後、降伏したインド国民軍・幹部を処刑しようとした英国に対して、インド全国で暴動が起きた事である。インパール作戦は実際にインド独立の契機となったのである。
1857年のセポイの反乱の時、イギリスは反乱軍を見せしめとして処刑し、インド人の士気をくじいた。
「インド人はイギリス人の奴隷なのだ。イギリス人は永遠にお前らのマスターで、
そもそも人としての格が違うのだ」と。イギリスは今回もそれをもくろんだ。
だが、日本の大東亜戦争を見て民族意識をたかめたインド民衆は、
セポイの反乱の時とは変わった。この日本人が吹き込んだ民族意識の高まりと、日本軍が見せた敢闘精神が、「植民地の独立への希望」を燃え上がらせ、アジアに波及するのである。
 大戦終結後、勝ったイギリスは敗北を予感していた。
 1945年10月、インドのネールは「自由の旗手を標榜するアメリカにいかに幻滅したか」を記者団に
とうとうとぶちまけた。11月、インド国民軍将校らの裁判に抗議する群集が暴動を起こした際、
彼らは英軍だけでなく米軍施設にも向かって行った。12月、米・戦略情報部門(SSU)が
数人のインド人政治指導者らと話し合った際、指導者らは英国と米国の政策になんら差はない
と見ていることが分かった。
「両方ともきれい事を言うが、やってる事は帝国主義だ」
日本によって「民族意識を高められた」アジアでは、「先進民主主義国の“道義的な原則”などというものには幻滅し、その結果として白人の支配する世界全体に憎しみを抱き、白人そのものに立ち向かって来るかも知れない」と米・戦略情報局(OSS)は警告した(会田訳・リチャード・オルドリッチ.2003.「日米英『諜報機関』の太平洋戦争」)。

インド独立の経過を繰り返す。
日本が戦争に敗れると、イギリスはインパール作戦に参加したインド国民軍(INA)を反乱軍として、
ヒンズー教シーク教イスラム教徒の三人の将校を、イギリス国王に対する反逆罪によって
デリーで裁判にかけた。ヒンズー教シーク教イスラム教はインドの三大宗教であり、
三人の将校をインドの象徴として選んだのだった。
ところが裁判が始まると、インド全土の民衆が憤って、「INAは愛国者であって、反逆者ではない」と、一斉に立ち上がった。
数百万人がインドの街頭を埋めた。イギリスは戦闘機・スピットファイアを飛ばして、上空から群衆に機銃掃射を加えるまでして、鎮圧を試みたが、混乱はいっそう広がった。ついに、インド将兵が部隊ぐるみで抗議に加わったために、イギリスはインドの独立を認めざるをなかった(加瀬英明. 2015.「大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか」祥伝社新書)。

イギリスの当時のアトリー首相は後に、
「なぜ連合軍として勝利した英国がインドから撤退したのか?」
と聞かれて、こう答えている。
「英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したということですよ。」
藤原岩一の「F機関」がインド国民軍の創設を後押しした。インド人はインド国民軍ナショナリズムに目覚め、英印軍のインド兵はイギリス人将校の言うことを聞かなくなった。
1947年のインド独立は誰のおかげで達成されたのか?「チャンドラ・ボースとインド国民軍および日本陸軍の成果だ」とする著述が増加している。無論、ガンジーら国民会議派の功績もある。戦史家G.D.バクシ「Bose:An Indian Samurai」は、興味深い会話を引用している。インド独立時の英国首相アトリーは、西ベンガル知事代理でカルカッタ高等裁判所主任判事だったP.B.チャクラボーティーの客人として、1956年カルカッタの知事官邸に滞在していた。チャクラボーティーは、英国がインドを放棄した本当の理由を尋ねた。「イギリスは、なぜインドを去らねばならなかったのか?」「一番重要なのは、チャンドラ・ボースの軍事活動の結果、イギリスーインド軍の将兵に、英国王室への忠誠心が失われてしまったことだった」「イギリスがインドを去るにあたって、ガンジーらの影響はどの程度あったのか?」アトリーは唇をゆがめて皮肉な笑みを見せた。そして、ゆっくりかみしめるように言った。「ほとんど、全く無かったね」〔セナカ・ウィーララトゥナ(2017)「スリランカの独立」〕。
他の参考資料』:
「日本の参戦によりヨーロッパ植民地主義体制が崩壊し、その恩恵を受けた『スリランカの独立』」
  http://blog.goo.ne.jp/thegolftimes/e/e3bd3a80b179973fe83538e4272cc828
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平成9(1997)年8月にインド独立50周年の式典が行われました。戦時中、インパール作戦を戦ったインド国民軍の戦友会(I N A 委員会)も日本に感謝を示すために、同じ年に靖国神社に感謝状を奉納しました。
 インドが日本のお陰を蒙っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。偉大な貴国は インドを解放するにあたって、可能な限りの軍事援助を提供しました。何 10 万人にものぼる日本軍将兵が、インド国民軍の戦友として共に血と汗と涙を流してくれました。インド国民軍は、日本帝国陸軍がインドの大義のために払った崇高な犠牲を、永久に忘れません。インドの独立は日本陸軍によってもたらされました。ここに日印両国のきずながいっそう強められることを祈念します(ヤダフ ・ インド国民軍全国委員会事務局長、インド国民軍大尉)。

インパール作戦(インドの独立戦争)は色々批判もあるが、日本の本意を世界に示した戦いであった。この作戦が無ければインドの独立もなかったし、アジアの独立も無かった。先人が流した赤心の血がインドの独立、アジアの独立をうながしたのだ。それはアフリカに波及した。さらにこの流した赤心の血は現代の世界の史家や、かっての敵将の覚醒をもうながしたのだ。皆この作戦より、日本の本意にたどり着いている。
敵将の言葉

━━━スリム中将(イギリス第十四軍司令官)
かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。
たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。

━━━ルイス・マウントバッテン大将(英国軍東南アジア総司令部司令官)
かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。

それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。
すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』。
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日本軍の英領インドへの進攻

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インパール周辺の地図

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1947年英領植民地インドは独立し、独立運動の同志は
ヒンドゥー教徒のインドと、イスラム教徒のパキスタンに分かれて独立した。
 その後、インドとパキスタンカシミール問題など国境紛争を繰り返した。


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第三次印パ戦争(1971年)

 この話は、その頃のことのようだ。真偽は確かめようもないが、
「大人の童話」としてイメージをふくらませてみた。


72. 名前:ゴンベイさん 投稿日: 2010年04月06日 00:18 ID: 6gnzeGsh0 [編集]
 インドで傭兵としてパキスタン軍と対峙してた時、
遠くから歌が聞こえてきた。
知らない言葉の歌だったが味方じゃないことは確かなので
銃をそちらに向けたとき、上官に殴り飛ばされた。
何がなんだかわからなかったが不思議なことに、
パキスタン側でも銃声がやんでいた。

 歌声の主は数人の年寄りで、
われわれに気づかないのか
旗を持って一列で歩いてきていた。
われわれ側もパキスタン側も
その数人のお年寄りが通り過ぎて見えなくなるまで
一発の銃弾も発射しなかった。

 結局その日から2日間は戦闘は再開されなかった。
停戦命令も出ていないのにどうして戦闘がやんだのかわからずに、
上官に聞きに言った。 
 
 
その年寄りたちが歌っていたのは日本の軍歌で
持っていた旗は日の丸だということを聞いた。
 どうも、日本人の初期の「インパール作戦・戦没者の遺骨収集団」のことらしい。
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インドMonssang村の村長の話:
「第二次大戦中日本人が来た。規律正しく立派な人達だった。何も私達に悪いことしなかった。自分は英軍の密偵として日本軍の動きを見ていた。何人くらいいつどこへ行くかを見て報告していた。しかしチャンドラボーズのインド独立の思想に共鳴して、日本軍に密かに会っていた。」







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日本機がインドでまいたビラ。鞭を振り上げるのは英・首相チャーチル。作者は、たぶんインド国民軍のインド人だろう。

 インド国民軍は、「デリーへ進撃せよ」を合い言葉に、インパール作戦に参加した。

インドの独立は、日本のお陰で三十年早まった。他の東南アジア諸民族も同様と信ずる(フラバイ・デサイ)。

その話を聞いてその夜は泣いた。
ものすごく泣いた。

  その年寄りたちは第二次世界大戦で死んだ戦友を弔いに来ていたのだと知った。
こんな危険地帯なのに、第二次世界大戦から何年もたっているのに、
戦友を弔うためにこんなところまで来てくれる人たちがいることに涙が出た。

あとから知ったが、パキスタン側もそれが日本人で
かつてインド(パキスタン)独立のために
イギリス軍と戦った人たちだと知って
敬意を表して戦闘を中断したそうだ。




この半年後、傭兵を辞めて日本に留学した。
たくさん勉強して日本語の読み書きも覚えた。
何年もたって、日本のお酒が飲めるようになって、
サクラを見ながら飲んでいたとき、
サクラの花びらがコップに入った。
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それを見て急に涙が出てきた。
あの年寄りたちのことを思いだした。
日本人が本当にうらやましい。
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「若い少尉が一人、突っ込んでいくのを見た・・・・・」


以上をまとめる動画です↓。クリックしてご覧下さい。

インパール作戦は終わらない【果たされたインドとの約束】」
https://www.youtube.com/watch?v=4FKyQRmcFqg#t=895


「【大東亜戦争】韓国・中国の「日本悪玉論」は大ウソ!日本は植民地解放のヒーローだ!」
https://www.youtube.com/watch?v=KIeJfgYeMMY



2016年12月15日 追加
関岡英之 インパール訪問報告
日下公人「日本出動」第17回
ゲスト:関岡英之<アジア〜グローバリゼーションの行き着く彼方>
https://www.youtube.com/watch?v=0TcCiihzW2o


2016年7月 追加
読売新聞 戦後70年に学ぶ ミャンマー白骨街道のいま
「街道の動画はこちらから」を押すと]優れた動画が見られる。
画面の右「次>」を押すと、動画の一部が写真で見られる。


余談ですが、せっかく集めた資料ですので貼っておきます。

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日本軍とともにインパールへ進撃するインド国民軍

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インド国民軍INA(Indian National Army)兵士の兵装(ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House引用。)

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現地長老が語るインパール作戦の真実 - 歴史ニンシキガー速報
http://hakkou-ichiu.com/archives/8539