支那事変(日中戦争)を「アユの友釣り」で読み解く(東海子氏)
支那事変を理解する方法を工夫してみました。以下に記します。
題して、「支那事変 鮎の友釣り論」
中共が天皇陛下への謝罪を要求し中共の対日敵対が明確になった。そこで、日本人の対応としては、支那事変の因果関係を正確に分析し、
である。
しかし支那事変は欧亜にまたがる世界規模の大戦略、国際的な多くの重大事件、そしてスターリンの情報隠蔽や偽情報の数々がありわかりにくい。このため、日本の愛国者でも支那事変の因果関係を正しく理解できる人は少ない。
そこで日本人は南京事件のように力を合わせて研究し、成果を同胞に広く周知し若い世代に継承する
ことが望まれる。
支那事変は途中で満洲狙いの米国が迷い込んできたが、
鮎の友釣りは、空針2本の仕掛けを作り、1つの針には囮(オトリ)の鮎を背掛けし、もう1本は空針のまま川の流れに入れる。この囮鮎に対して縄張りを守ろうとする野鮎が体当たりすると、2本目の針に引っかかるという仕組みだ。素人には2匹が釣れたように見えるが1匹は囮、1匹は犠牲者の鮎である。
そこで支那事変を見ると、囮の鮎は蒋介石だ。
彼の上海日本人居留民攻撃に対して
また中共の使う「抗日」表現は対日表現に改める。
これは本来は排日だったが、ソ連KGBの専門家が蒋介石を指導し、抗日に変えさせた。
それは抵抗には正当性という意味があるからである。
共産主義の宣伝はここまで細かく用語を分析して選んで使っている。
スターリンは秘密の工作を誤魔化すために偽情報を出した。
その一つが「西安事件では毛沢東が捕らえた蒋介石を殺そうとしたがスターリンが止めたので地団駄を踏み、真っ赤になって怒った」という説である。
一見まことしやかだが、蒋介石を生かして使う戦略ははじめから決まっていた。
そして狡猾な毛沢東が左翼の神と恐れられたスターリンに反抗する姿勢を示すなどやるわけがない。
そして米人エドガー・スノーによるとこの話は宋慶齢からの伝聞という。何の根拠もないのだ。
この情報の目的は、スターリンが西安事件の首謀者であったことを隠すためである。
ちなみに当時のソ連タス通信は、
世界の人々を欺し混乱させる謀略工作だ。
なお支那事変における宋慶齢(孫文の未亡人で共産主義者)の役割としては、
西安事件の前兆として、
という意見を聞いている。
そこでメモすると周恩来は、蒋介石を警戒させるので、オフレコを依頼した。
このためスノーはこの史実を20年後の1957年に「中共雑記」で公表している。
ソ連の支那工作では、ボロディンらが有名だが、
彼等は独ソ戦争の動向がはっきりするとモスクワに召喚され皆処刑されてしまった。
スターリン一流の口封じである。
こうしてみると支那事変は明らかにソ連の蒋介石を使った対日戦争であった。
所詮、スターリンの囮鮎だったのである。
このように支那事変は複雑でわかりにくい。鮎の友釣り論が理解の参考になれば幸いである。 (東海子)
※ 張国燾の西安事件の回想。(中共は、張学良を騙して事件を起こさせたと述べた部分)
※ ▷張國燾還說﹕“周恩來於14日與張密談,徑行表示蘇聯大致不會援助西安,張學良最初的反應甚為憤慨,他似覺得為共方所賣,以往共方老是吹噓蘇聯可以援助,現在他已成騎虎,中共竟臨陣抽腿,不兌現了。”◁
(張国燾著:《我的回憶》,《明報月刊》出版社,香港,1974年。)
▽ 西安事件の主役の一人である楊虎城は、事件の解決過程で身を引き、主役の座から降りていた。ソ連と中共が、平和的解決の意図を彼に知らせていなかったからである。
衝動的な張学良は、本来政治家の素質が無かった。意見が違うという理由で、最高指揮官を勾留することは、どんな国でも重大な違法行為である。しかし、この違法行為を実行した後、それをそそのかした中共は、平和解決を突然提案してきた。彼は裏切られ、直ちに犯罪者となってしまった。
張学良がこの状況では、事件解決の中心人物となるのは無理だった。解決の中心となれる人物は、誰が見ても中共の周恩来のみであった。紅軍の15人の将軍たちは、事件発生三日目に、国民党と政府に対し電報を打っている。その初めの部分は、「西安事件で蒋氏が幽閉された事は、全く意外なことである」と述べている。
(中共中央党史資料会編:《第二次国共合作的形成》,中共党史資料出版社,北京,1989年。)
早速中共は、事件と無関係である事を政府に表明し、張と楊らを裏切っているのだ。またこれは、中共が事件解決の主導権をさらに多く握ろうとするものでもあった。(以下引用の資料は、『第二次国共合作的形成』と『中共中央文件選集 第十一輯』に収録されたもの。)△
1936年12月25日、蒋介石は張学良によって釈放された。周恩来は、29日に中共中央に対して、「西安事変の平和解決は、中国の政治が新たな段階に入ったことを意味する」(周恩来著:《周恩来選集》上卷第70-75頁,人民出版社出版,北京,1980年。)という報告を送った。
こうしてソ連と中共が、この事件での唯一の利得者となった。(続く)
☆ 謝幼田著《中共壯大之謎: 被掩蓋的中國抗日戰爭真相》明鏡出版社 2002
▽ 合法的な地位を手に入れた中共中央の毛沢東、張聞天は、1937年2月9日、周恩来に南京協議の主要原則を指示した。これらの原則は、極めて有利な状況を利用し、さらに全面的な利益を得るためのものである。:
㈠ 「南京側との交渉に関する政治的立場は、三中全会に送る電文を参照されたい。」
㈡ 「軍事面では、最初12個師団、4個軍に再編し、林彪、賀龍、劉少奇、徐向前らを軍長とする。一個の路軍を組織し、朱徳と彭徳懐を正副の総司令とすること。」
㈢ 「給料の項目では、もし相手が即座に額の改変を認める方針ならば、中央軍の待遇に照らして受領するものとする。もし遅らせる方針ならば、毎月少なくとも、八十から百万元を支給するよう要求すること。」
㈣ 「もし国防委員会が組織されれば、紅軍も是非代表を参加させる。もし、この種の組織が当面無ければ、紅軍は駐南京の代表を国防準備に参与させること。」
㈤ 「党の問題では、党員の不逮捕、組織の不破壊が認められれば良しとする。紅軍中の組織の領導は不変とする。」
この電報中で根本的に問題なのは、最後の一条である。つまり、中共は合法化以後も、紅軍に対する絶対領導権は保持すると言っているのである。
協議二日目、毛と張はまた周に指示を打電した。:
「 我々が参加すべきものは以下である。
㈠ 軍事委員会のような軍事機関、総司令部、国防会議など。
㈡ 政治集会。例えば各党各派代表による会議、国民大会など。
㈢ 抗日時には、政府に参加する。」
たった三万人の軍隊しか持たない中共が、抗戦の名義で更に多くの権限を得ようというものであった。
1937年2月10日、中共中央は国民党五届三中全会に電報を送り、次の五点を要求した。:
㈠ 「内戦を一切停止し、国力を集中して外敵に一致対抗する。」
㈡ 「言論、集会、結社の自由を保障し、一切の政治犯を釈放する。」
㈢ 「各党各派、各界各軍の代表会議を招集し、全国の才能を集め、共同で救国に当たる。」
㈣ 「対日抗戦の一切の準備を、迅速に完成させる。」
㈤ 「人民の生活改善。」
中央政府の保証を得た後、中共は次の四点の実行を約束するとした。:
㈠ 「全国で国民政府転覆の武力暴動を停止する。」
㈡ 「労農政府は、中華民国特区政府と改名する。紅軍は国民革命軍と改名し、南京中央政府と軍事委員会の直接指導を受ける。」
㈢ 「特区政府の区域内では、普通選挙を実施するような民主制度を徹底する。」
㈣ 「地主の土地を没収する政策を停止し、抗日民族統一戦線の共同綱領を断固として執行する。」△(続く)
☆ 謝幼田著《中共壯大之謎: 被掩蓋的中國抗日戰爭真相》明鏡出版社 2002