【動画】ハル・ノートが作られるいきさつ

ハル・ノートが作られる経緯
NHK番組(1995年放送)
解説:須藤眞志すどう・しんじ(京都産業大学教授・日米関係専門 1939~ )

 ハル・ノート〔昭和16(1041)年11月26日(米国時間)〕は、「日米戦争を決定した外交文書」と言われる。

 しかし、それ以前の昭和16(1941)年4月15日に、ルーズベルト大統領は米軍人に対し、自主的にフライング・タイガースに志願するよう行政命令を出した。こうした戦争行為を議会の承認なしにできるのか疑問だが、大統領命令でフライング・タイガースへの志願を促したのは、対日戦を決めたと言っても差しつかえない。馬渕睦夫氏(『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ』)は、この日がアメリカの対日宣戦布告と述べている。
 7月21日に、ルーズベルト大統領は秘密裏にJB-355計画(日本先制爆撃計画)を承認している。
 さらに四日後の7月25日に、「日本資産の金融凍結令」を発表し、イギリス・オランダを同調させた。これで、金融・貿易が断絶した。日本は輸入必需品の80%を「凍結」地域に頼っていたから、米英蘭三国の行動は日本の軍需・民需兵糧攻めするものだった。これは、明らかな対日宣戦布告だった。
 実は1937年の支那事変勃発以来、ルーズベルト政権の金融専門家ら(国務省財務省FRB・陸軍情報部・駐日アメリカ大使館)は、遅くとも1941年までに、日本は膨大な戦費で国際的に破産すると見ていた。この予測はことごとく外れた。横浜正金銀行ニューヨーク支店は、1億ドルを越える戦費を秘匿していたからである。1940年にこれがバレると、日本は安全な場所へ移管した。アメリカは「日本の破産を待つ」よりは、既に手を打っていた「日本を経済的に絞め殺す」方向へ舵を切った。次いで、官僚に「脆弱性の研究」を行わせて日本経済の弱点を調査させ、1941年3月にはアメリカは対日経済戦に着手した(エドワード・ミラー『日本経済を殲滅せよ』)。

  こうして見ると、ルーズベルト政権は、議会の承認を経ずに大統領補佐官などの側近や官僚を使って「対日戦」政策を着々と進めており、ハル・ノートは外交文書でそれをあとづけたに過ぎないことが分かる。
 ルーズベルト社会主義者で、国際金融資本に後押しされて中国を共産化することをねらっていた。そのためには、シナ大陸の日本の影響力をなくす必要があったからである。
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左から、周恩来ジョージ・マーシャル朱徳蒋介石?、毛沢東(延安1946年)。

毛沢東と歩くジョージ・マーシャル将軍(延安1946年)。
参考資料:http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-404.html

 ハル・ノートが日本を開戦に踏み切らせたのは事実だが、「なぜ、日本は日米戦争に踏み切ったのか?」の疑問に、ハル・ノートだけでは十分な回答を得られるはずがない。ハル・ノートに至る日米交渉は、ルーズベルト政権の「時間稼ぎ」にすぎなかったからである。
参考:日米諒解案 (1)~(3)
「対日先制爆撃」は、遅れに遅れていた・・・・。 

4:07~4:48:「日本軍の南部仏印進駐は、アメリカの安全保障の問題で、現ベトナムからフィリピンの米軍基地を日本が爆撃できるようになった」と須藤氏は説明している。しかし、これはおかしな解説だ。フィリピン攻撃のためには、ベトナムより台湾の方が近い。事実、12月8日のフィリピン・クラーク基地爆撃には、日本軍機は台湾から飛び立っている。

4:16~11:27:この時期のソ連の対米工作を語るヴィタリー・パブロフ証言は、貴重だと思う。ソ連崩壊直後だから、得られた証言だろう。

12:06~12:12:須藤「『ソ連は、日米戦争を画策していたのではない』のは、明らかだ」。これは、言い過ぎだろう。パブロフ証言からこう言うことはできるが、「ソ連はソ万国境から関東軍を引きはがしたかった。そのために、アメリカは日本にアメをしゃぶらせてもよい」と言うものだ。ソ連のために、「パブロフはアメリカに100点回答を望んだら、日米戦争という200点回答をよこした」というものであろう。それで、ソ連は南樺太と全千島列島をせしめた。
モーゲンソウ案に「ソ連への配慮」が色濃くにじみ出ている。アメリカの対日政策に対するソ連の工作は、パブロフ‐ホワイトのラインだけではなかったと思わないのだろうか。ヴェノナ文書によれば、ルーズベルト政権には300人のソ連スパイがいたことが分かっている。

0:12~3:20 アメリカの暫定協定案に蒋介石が強硬に反対した。
日本は、何度も蒋介石の国民党軍と停戦しようとしている。蒋介石は日本軍に海岸の重要拠点を奪われて、継戦に弱気になっていた。昭和15(1940)年11月24日に、日本政府は蒋介石の交渉条件を受諾する旨、蒋介石の特使に伝えようとしたが不在だった。後に、蒋介石は停戦交渉を最後の段階で中止したことが分かった。ルーズベルト政権が、蒋介石に1億ドルの経済・軍事援助を決定したからである。俄然、やる気になった蒋介石は、アメリカに「対日先制爆撃」を提案するまでになり、JB-355計画がまとまる。
 今さらルーズベルトに日本に対して妥協されては、蒋介石の立つ瀬がない。アメリカの暫定協定案に反対するのは当然である。

4:16~6:44 22日案 CHINA(満洲を除く)
        25日案 CHINA(「満洲を除く」を削除)
CHINA(満洲を除く)」は、蒋介石か毛沢東の強硬な反対に会ったのではないか。満洲国には、日本が育成した近代産業のインフラがあった。戦後の国共内戦は「満洲国の遺産」をめぐる争いで、実際戦後の満洲は中共の重工業生産の9割を占めた。
【CHINA(「満洲を除く」を削除)】は、アメリカ政府がシナ人に妥協した産物であろう。

6:36~ 「ハル・ノートは満洲を含む全シナ大陸から日本は撤退せよと要求している」との解釈が、日本側で一人歩きしてしまった。これは日米間の「認識の違いだ」(須藤)。「認識の違いだ」と言い切るには、アメリカの真意を須藤氏は確かめていないではないか。オウェン・ラティモアがソ連スパイで「蒋介石メッセージ」に関与して暫定協定案をつぶしたことは、1950年代に公開された米国議会議事録・公聴会や調査報告書で明らかになっている。須藤氏だけでなく、日本の研究者はこれらの公開文書の調査を怠ってきた。日本の研究者は、この程度のレベルなのだ。
 須藤氏は、ルーズヴェルト政権に対して好意的すぎるし、分析が表層的である。ヴェノナやJB355が明らかになった今日では、掘り下げが浅く、バランスを欠いて居る。
 ルーズベルトは対日戦政策を続けて来たのだから、ハル・ノートに焦点を当てるだけでは日米開戦への流れを理解する事はできない。
その証拠に、

1)日本を苦しめた日本資産の凍結とABCD包囲網
2)ルーズベルトの日本人に対する人種差別発言(ルーズベルト政権首脳が、ハナからシナ人に肩入れしていたのは、人種差別の帳消しにならない。ルーズベルトの母の実家・デラノ家は、支那のアヘン貿易で財をなした。ルーズベルトの母は、支那に罪悪感を持っていたという。満州国建国後、日本は支那のアヘン市場から米英を駆逐して独占した。「これが、米英の恨みを買った」という話もある。https://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/78f6d54c31c16059ecde6ddbd2086cbf)

については何の言及も無いではないか。

 ルーズベルトは、1933年に大統領に就任した直後から、「アリューシャン列島から日本爆撃はできないか?」と言っている(『ルーズベルト秘録』)。
 ルーズベルト政権は議会を通さず、大統領補佐官や一部の軍人・官僚を使った側近政治で多くは秘密裏に「対日戦政策」を進めてきた(『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ』、『日本経済を殲滅せよ』)。それは当時の国際通念だった「白人の人種差別意識」も大きい。
 ハル・ノートで日本政府は「ルーズベルト政権の対日戦意志」を確認した。
昭和16(1941)年11月のモウゲンソウ案からハル・ノートに移行する課程が、「ハル・ノートが作られる経緯」とこの動画では考えられている。そこに、ソ連スパイ・ホワイトがどのような方向付けをしたかは興味深い。
 しかし、昭和15(1940)年11月末の蒋介石に対するルーズベルトの1億ドル援助の決定など、ハル・ノートに至る1年以上前からのルーズベルトの「対日戦政策」の決定経過を見なければ、日米戦争が起きた原因を見つけることはできない。

 日米戦争に至る経過を分析したものに、金融・経済からの側面から描いたものは極端に少ない。エドワード・ミラーはアメリカ国立公文書館が1996年になってようやく機密を解いた資料を使って『日本経済を殲滅せよ』を書いた。発行は2007年*、日本語翻訳は2010年である。機密解除が長引いたのは、それだけ外国人には知られたくないルーズベルト政権の「対日戦政策」の手の内が書かれているということである。

*:Edward S. Miller (2007) Bankrupting The Enemy: The U.S. Financial Siege of Japan Befor Pearl Harber.  Superstock/PPS 
 
 日米戦争の原因を突き止めるためには、もっと巨視的な国際政治の動向を見なければならない。そのヒントを紹介して本稿を終えたい。

 アメリカは、ドイツがフランスを占領した1940年の6月以降、日本とドイツを敵とする戦争準備を一挙に本格化させた。飛行機の年間生産数を十倍の5万機、艦船建造を70%増、陸軍兵力を毎年百万人増強し三年後には四百万人とする、などである。 また、ドイツと日本に対する二面作戦を回避する必要から、当面は日本を日中戦争の泥沼に陥らせておこうとし、中国への軍事援助を一挙に拡大する。
 その結果、1940年の秋に訪米した宋子文の要請を受け入れ、同年の12月には国民政府に1億ドルの借款を供与した。
 米英両国は共同して日本の南進政策を阻止しようとし、日本軍を中国大陸に引き止めておこうとした。その結果、アメリカは1941年の3月には、中国への全面的軍事援助を行う「武器貸与法」を成立させ、4月にはシンガポールでアメリカ・イギリス・オランダの軍事参謀会議が開かれ対日戦略が策定された。
 こうして日本に敵対する米・英・中・蘭という、1941年12月に勃発する太平洋戦争(大東亜戦争)の構図ができあがる。いわゆるABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲陣である。あとは戦争の勃発を待つだけであった(北村・林 2008)。

引用文献
北村稔・林思雲(2008)「日中戦争 戦争を望んだ中国、望まなかった日本」(PHP研
              究所)
エドワード・ミラー(金子宣子 訳)(2010)「日本経済を殲滅せよ」(新潮社)
馬渕睦夫(2015)「アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 『日米近現代史』から戦争と革命の20世紀を総括する」(KKベストセラーズ)