日本 1925: 富士ヶ嶺のもと稲生うる美し国。



 富士山の左斜面に見えるのは、大沢崩れらしい。すると、現・富士宮市の白糸の滝辺りから撮ったものだろうか。

昭和26(1951)年のマッカーサーの有名な米国議会証言にこういうのがある。

太平洋では、米国は日本を迂回しました。そして閉じ込めたのです。
日本が抱える八千万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。
潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。
いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。
つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。
このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。
日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。
彼らには、綿が無く、羊毛が無く、石油製品が無く、スズが無く、ゴムが無く、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。
これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。
したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。

マッカーサーの言った「労働の尊厳」とは、何を指していたのだろうか?

稲作(労働)は神事だった。神に対して心を込めて行うべきものだった。
だから、天皇陛下は御所で稲作を、皇后陛下は養蚕を行われるのだ。
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ところが、外国では労働は苦役に過ぎなかった。力さえあれば、労働は家来や奴隷にやらせて富だけ巻き上げれば良かった。今のグローバリズムは、この系譜に当たっている。
日本に奴隷制度が根付かなかった理由は、「稲作(労働)は神事」という神道に源があると思われる。
「稲作(労働)は神事」という日本人の労働観が、製品に魂を吹き込む「ものつくり日本」の淵源だったにちがいない。
これを、思想家ならぬマッカーサーは「労働の尊厳」と言ってみたのだろう。

 アダムとイヴは禁断の知恵の樹の実を食べてエデンの園から追われた。神は罰としてアダムには労働を、イヴには産みの苦しみを与えた。旧約聖書圏では、労働は神の罰なのである。そう考えると、労働者は早くカネを貯めて退職し、「楽園」例えば海岸に怠惰に寝そべって暮らす生活を夢見る。
 日本の最高神である天照大神は、高天原に田んぼを持っており、農業に携わっていた。天孫降臨では、「天照大神が天上で作っていた稲穂を授けて、地上に降ろさせた」と言うから、稲作は天照大神から授けられたことになっている。
 労働は神の罰で苦役に過ぎず、奴隷に肩代わりさせられればそれに越したことはないという労働観は、旧約聖書圏ではぬぐい切れない。 日本人の労働観は、稲作とそれに付随する労働は神事で、神からの祝福と神への奉仕ということになるだろう。

一昔以上も前に、「日本人は働き過ぎだ」と、盛んに欧米諸国から攻撃されたことがあった。
「罰当たりのグータラ山師どもが!」と一喝する二宮尊徳が一人も居なかったのは、敗戦の劣等感だったのだろうか?