明治維新を見直す


 明治日本の成功は、国民国家をつくって近代化を行ったことにあると私は考えている。国民国家とは何か?」と言えば、このように言える。
または、 3:19~8:17→ https://www.youtube.com/watch?v=OjgvWs7VscA

 日露戦争の時、日本の民間人は総力を挙げてバルチック艦隊の情報を日本政府に知らせようとした。

日本人は、すでに「日本国民」になっていたのである。

 では、いつ頃から日本人は「日本国民」になったのであろうか?
明治日本の国民国家形成に大きく影響した事柄を年表風に取り上げると、
次のような事柄に注目される。

      明治  5(1872)年 学制発布
    明治23(1890)年 国会開設
               教育勅語、各学校に配布
    明治24(1891)年 初等教育の就学率50%を越す
    明治27(1894)年 日清戦争開戦
    明治28(1895)年 日清戦争勝利
               三国干渉で、国民に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」が広まる
    明治33(1900)年 初等教育の就学率80%を越す
               北清事変
    明治35(1902)年 日英同盟
    明治37(1904)年 日露戦争開戦
    明治38(1905)年 日露戦争勝利
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     露仏独による三国干渉

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」は、日本史上では,日清戦争後ジャーナリズムを中心に流布したスローガンとして知られている。戦後,国民は戦勝気分にひたっていたが、1895年5月10日,遼東半島還付の詔勅がだされ、三国干渉に日本が屈したことが明らかになると、「勝って驕らざるのみならず、前後の事情を忖度(そんたく)するときは、所謂(いわゆる)胆(きも)を嘗(な)め薪(まき)に坐(ざ)して大いに実力を培養するの必要あることは、この際国民一般の感ずる処」(《東京朝日新聞》同年5月15日,社説)などと主張され,「臥薪嘗胆」の声が国民の間にも広がった。
 日清戦争講和条約下関条約では、いったん清国から日本への遼東半島の割譲が決まったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国は、日本は清国に遼東半島を返還するようにと要求した。これを三国干渉(さんごくかんしょう)という。この三国干渉に日本政府はしたがい、日本は清国に遼東半島を返還した。多くの日本国民は三国干渉に反発し、国民たちの間に「臥薪嘗胆」の言葉が流行して、とくにロシアへの反発心が強まっていった(ウィキ「臥薪嘗胆」)。

 おおざっぱに考えてみて、初等教育の就学率が50%を越え、三国干渉の屈辱に「臥薪嘗胆」の合い言葉が広がった明治30年あたりが、日本が「国民国家」になった頃だろうと思われる。この辺については、当時の新聞を追跡すればもっと具体的な事情が分かってくるだろう。
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  ロシアが描いた日露戦争