「坊っちゃん」と「清(きよ)」の墓 掃苔記
正確には、「坊ちゃん」のモデルと「清」のモデルになった人の墓である。
夏目漱石 坊っちゃん - 青空文庫 の最終部分
その後ある人の 周旋 ( しゅうせん ) で 街鉄 ( がいてつ ) の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は 玄関 ( げんかん ) 付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月 肺炎 ( はいえん ) に 罹 ( かか ) って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ 埋 ( う ) めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は 小日向 ( こびなた ) の養源寺にある。
(明治三十九年四月)
さて、世の中には奇特な方がいて、源臣氏の探求心と語り口にはつい釣り込まれてしまった。源臣氏の記事を次にご紹介したい。
日頃土岐一族探しの旅を文献上で楽しんでおります。
病膏肓に入るといいますが、ついに小説の主人公まで引っ張り込んでしまったようです。
あるとき漱石の「坊っちゃん」を読み返していますと、
多田満仲だ、清和源氏だという文字が飛び込んできました。
そのときひょっとすると「坊っちゃん」は土岐一族ではないかと、
いつものいたずら心が頭を持ち上げました。
早速小説「坊っちゃん」の中より土岐一族に関する部分を抜き出して見ました。
先ず、坊っちゃんが松山の中学校に赴任して初めて宿直する場面です。
正確を期すために本文よりそのまま以下に引用いたします。
(河出書房・日本文学全集10巻夏目漱石集29頁上段より抜粋)
「江戸っ子は意気地がないといわれるのは残念だ。
宿直をして洟垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、
仕方がないから泣き寝入りしたと思われちゃ一生の名折れだ。
これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。」
次に、師範学校生と中学生の喧嘩仲裁に入ったのを、
生徒をけしかけて師範学校の生徒に暴行を働いた無頼漢と誤解されて、
翌日の新聞に載ってしまう場面(75頁上段)で、
「新聞ほどの法螺吹きはあるまい。
おれのいってしかるべきことをみんな向うで並べていやがる。
それに近ごろ東京から赴任した生意気な某とはなんだ。
天下に某という名前の人があるか。考えてみろ。
これでも歴然とした姓もあり名もあるんだ。
系図が見たけりゃ、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやら。」
この上記2箇所で漱石は、坊っちゃんに自分の出自が、
清和源氏で満仲の後裔であることを独白させています。
さらに美濃源氏・土岐一族だと証明するための決定的なポイントに気付きました。
それは坊っちゃんの最終場面(83頁下段)にあります。
ばあやの清が、坊っちゃんにお願いした最後の言葉です。
「・・・死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんのくるのを楽しみに待っておりますと言った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。」
説明するまでもありませんが、この文章には清の墓が養源寺にあること、
何故養源寺にあるかというと坊っちゃん家の墓がもともと養源寺にあって、
清が死んだら坊ちゃんのお寺に埋めてくださいと頼んだ、それを坊っちゃんが聞き入れて上げた。
だから清の墓は養源寺にある。
ということが書かれているのですが、漱石はここで坊っちゃんの墓が、
何処の寺にあるとも具体的には書いておりません。
清が坊っちゃんの墓に、埋めて欲しいと頼んだ事が書いてあるのみです。
坊っちゃんが承諾したかどうかについて何も触れていません。
しかし清と坊っちゃんの主従の信頼関係から判断しますと、
清の願いを坊っちゃんは聞き入れたであろうと推測できます。
現在では親族でもないお手伝いさんを同じ墓地に埋葬することはまず無いでしょうが、
この時代まではそれほど珍しいことではありませんでした。
何よりもこの文章の「だから清の墓は・・・・」のだからという接続詞に、
それを強く読み取ることができるでしょう。
この小説の中では養源寺は小日向にあることになりますが、小日向には養源寺というお寺はありません。
それは千駄木に現存します。
小説の中で漱石が養源寺を小日向としたのは、
江戸時代以来、夏目家の菩提寺「本法寺」が小日向にあるという事実からでしょう。
では肝心の「寺名」をなぜ養源寺としたのでしょうか、
その理由は漱石が「坊っちゃん」を執筆した時期と場所に関係がありそうです。
漱石の研究書によりますと「坊っちゃん」は、明治39年3月17日頃から書き始め、
3月27日には109枚の原稿が出来上がっていたようです。
漱石の研究者は3月末には脱稿したと記録しています。
そして「坊っちゃん」は4月10日発売の「ホトトギス」4月号に掲載されました。
明治39年3月漱石は鴎外も一時住んでいたといわれる千駄木の家に、
明治36年3月3日から明治39年12月26日まで居住したと記録にあります。
当時の住所は東京市本郷区千駄木57番地、今は文京区向丘2―20―7番地になっており、
「漱石旧住居跡」の案内板と大きな石碑が建っています。
漱石は「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」などの作品をこの千駄木の家で書きました。
猫の家とも呼ばれ、漱石文学発祥の地であり旧居は明治村に移築されたと記されています。
この家の玄関を出て左へ5~6分も歩けば養源寺(文京区千駄木5―38―3)です。
散歩好きの漱石が近隣の養源寺の前を歩かないはずはありません。
清の墓を書く最終場面では漱石の頭の中に「養源寺」の静かな佇まいがよぎった事でしょう。
漱石は江戸牛込馬場下横町で生まれました。
(現在は新宿区喜久井町一番地・東西線の早稲田駅前)
小日向、小石川、千駄木、などこのあたりの土地に詳しく、
他の漱石の作品、「吾輩は猫である」や「それから」、「三四郎」、「道草」などにも
文京区の土地の名前が頻繁に登場します。
漱石に聞いた訳ではありませんから本当のところは判りませんが
「坊っちゃん」のお墓を養源寺とした背景にはこのような状況があったのです。
『漱石の東京』の著者武田勝彦氏はこう書いています。
「本法寺の名をさけ駒込千駄木林町の養源寺の名を借りたのは
フィクションに仕立てるための操作に他ならない」と。
あえて養源寺を取り上げてくれているのです。
何と心強い味方を得たことでしょう。
さてここで「坊っちゃん」の先祖関係の情報を整理してみましょう。
l 清和源氏で多田満仲の後裔である。
l 系図をみれば満仲以来すべての先祖の名前がわかる。
l 旗本である。(江戸幕府の)
l 菩提寺が養源寺である。
それでは先を急ぎましょう。以上の条件に見合う家系を探す作業に入ります。
「旗本人名辞典」から養源寺を菩提寺とする家を探しました。
1. 秋山家が2家(清和源氏・義光流)
2. 井戸家(藤原氏流)
3. 稲葉家(越智氏・河野支流)
4. 富田家(宇田源氏)
5. 土岐家が3家(清和源氏・頼光流)
6. 遠山家・小右衛門景吉(藤原利仁流・始加藤を称す)
7. 仙石家が2家(清和源氏・頼光流・土岐支流)
8. 佐野家(藤原秀郷流)
9. 斎藤家(藤原利仁流)
10. 林家(清和源氏・義光流)
11. 堀家が3家(藤原利仁流)
12. 船越家が2家(藤原為憲流)
以上12家19流あります。そのうち清和源氏の家柄は、秋山家、林家、仙石家、土岐家の4家です。
秋山家と林家は何れも清和源氏のなかでも、義光流の小笠原支流に属します。
皆さんのよくご存知の武田信玄の系統になります。
いずれも信玄系の始祖「信義」の弟「遠光」の長男「光朝」が秋山家の祖といわれ、
「遠光」の次男「長清」が小笠原の祖で、その子孫の「小笠原清宗」の次男「光政」が林家の祖と言われています。
ここで坊っちゃんの言う、系図を見たけりゃ満仲以来一人残らず先祖を拝ませてやれるかどうかを確認してみます。
まず秋山家です。寛政重修諸家譜の筆頭は「光家」から始まりますが、
秋山家の始祖「光朝」からおよそ10代ぐらい抜けていることが、信玄系の系図と比較するとわかります。
林家の方も、寛政重修諸家譜の筆頭が某・某で2代続き実名が判りません。
以上両家とも、一人残らず先祖を拝ませることができません。
仙石家については、頼光流・土岐支流が通説であり、土岐一族です。
美濃偉人伝に、「秀久が天文20年に可児郡中村に生まれる。
仙石左門の宅跡と伝う、源氏土岐の庶流にて父を久盛という」とあります。
久盛が土岐の何処の系統につながるのかが、今のところ不明であります。
以上のことから、漱石は土岐家を想像して「坊っちゃん」を書いたとは言いませんが、
結果として書かれた文章から推測すると、坊っちゃんの先祖は土岐一族となります。
清和源氏で満仲以来の先祖の名前をすべて言えて、
江戸幕府の旗本家でなおかつ菩提寺が養源寺にあるのは土岐家を除いてはありません。
土岐のどの系統かと申しますと「土岐頼芸」の次男であります
「頼次」の四男に「頼泰」という者が居ります。
この「頼泰」の子孫の墓が養源寺にあります。
坊っちゃんの先祖は土岐一族の「頼泰」系の子孫であるということが判ります。
つまり美濃源氏の本流「頼芸」の末裔だったのです。
臨済宗の禅寺だった。
本堂裏の墓地へ行くと、案内板があった。
「小説『坊っちゃん』に登場するきよの墓(米山家)」とあるが、
「坊っちゃん」本人の案内はなかった。
結局どちらも見つからず、
を参考にして、翌日もう一度さがすことになった。
旗本土岐氏・代々の墓は、何らかの事情で撤去された。土岐頼泰 - Wikipediaの写真に「2005年(平成17年)4月まで養源寺にあった代々の墓」とわざわざ断り書きがあるのは、この事態を予期したものらしい。
墓地では、別の場所に比較的新しい「代々の墓」より小さい「土岐家之墓」を二基見かけた。
次は、きよの墓である。
米山家の墓 米山保三郎の墓碑
『坊っちゃん』の清は、一高時代の漱石の畏友・米山保三郎の祖母・米山清がモデルと言われている。昨日は見つけられなかったが、墓地でも目立つ「安井息軒 - Wikipediaの墓」の正面にあった。墓はていねいに手入れされていて、きよの子孫は安泰である。 米山保三郎:漱石の悼む大怪物: かわうそ亭
空に消ゆる鐸のひびきや春の塔 漱石
「坊っちゃん」と「きよ」の論考に面白いものがあった。
清はもはや詩人の夢の中にしか存在しない〈美しい日本の面影〉なのである。 清のような女に憧れる坊っちゃんはたぶん独身を通すしかなかっただろう。
ところで、
「掃苔趣味(そうたいしゅみ)」とはあまり聞き慣れない言葉だが、古くは江戸の医科学者、平賀源内などが行っていた先人達の墓碑や顕彰碑を経巡(へめぐ)ることである。そして先人達の業績について問答を重ね、その遺徳を偲ぶことを趣味としていたことに始まる。
なのだそうだ。