広島原爆投下は避けられなかったのか


 古今、幾多の国家指導層が、よく知らない外国政府の魂胆や能力を、掛け値なしに偵知しようとする努力をサボり、自国民の十全な保護に失敗してきた。

 20世紀のウェストポイントを記録破りの高成績で1903年に卒業した工兵将校ダグラス・マッカーサーは、米陸軍の参謀総長を経たあと、フィリピン防衛に関する絶大な権限を現地で6年間も行使し得たにもかかわらず、1941年末に兵力が限られた日本軍が襲来するや、ルソン島内での退却籠城以外の作戦を組み立てられなかった。得意なはずの陣地線の工事すら、主戦場のバターン半島に施すことができなかった。

 数学の秀才である試験エリートたちが日本の国策を領導しているのならば、鉄鋼生産力で8倍以上の懸隔がある合衆国に対して日本の側から先制攻撃を仕掛ける愚は犯さないだろう――というのが戦前の米国指導層の見立てだった。

 だが、20世紀の「パリ警視総監」たちは、エドガー・アラン・ポーに一矢報いる。マッカーサーも知らないうちに、科学者のチームが原子爆弾を完成していたのだ。そしてマッカーサーには理由を知らさずに、沖縄での地上戦のペースを緩めるようにマーシャル陸軍参謀総長マッカーサーと同年生まれの元帥で、ヴァジニア州の名門軍事学校卒で、少尉任官がマッカーサーより1年早い。そのため第二次大戦と朝鮮戦争の二度にわたり、マッカーサーを上から統御する役職に政治任命された)からの指導がなされた。陸戦の進捗を無理にも急ぐ必要など、もはやなくなったのだ。

 原爆、殊に量産に向いたプルトニウムを素材に使う爆縮式(長崎型)の設計には、ハンガリー育ちの天才数学者、フォン・ノイマンの創案と貢献が無視できない。しかし欧州から多数の数学者や物理学者等を招き寄せた吸引力は、米国内でそれまでに達成していた数学、物理、化学、工学等の先端的な研究環境であった。高名なアインシュタインの署名を添えて、合衆国が「核分裂連鎖反応兵器」の開発を急ぐべきことを訴えた世界の第一線物理学者たちの書簡がホワイトハウスに届いたときに、その意味をすぐに理解できる者が、米国指導層内には多々存在したのである。セイヤー校長の「息子」たちが、米国を安全にしたと言えるだろう。

 1945年8月6日の広島市心への原爆投弾を回避する方法は、日本にあっただろうか?

 おそらくあった。1945年3月10日に300機のB-29が東京下町を狙い撃ちした夜間焼夷弾爆撃は、軍事施設と関係のない住民をことさらにターゲットに選んで10万人(数学的理性のある人は、この数字は広島の原爆の死者より多いことに納得するはずである)も焼き殺した点で、明瞭な戦時国際法違反(対地艦砲射撃のルールを決めたハーグ条規の無視)であった。

 F・D・ローズヴェルトの挙国政権内に在って、合衆国の対独および対日の大戦略を采配し、原爆の開発、攻撃都市選定、そしてニュルンベルク裁判と東京裁判にいたるまでも巨細に仕切っていた最長老閣僚のヘンリー・L・スティムソンは、現代の国際法精神に対する敬意が無いと非難されることに、いちばん敏感な法律家だった。彼は一部日本人から「反日人士」とも言われるが、そもそも1931年の満州事変とその後の事態が日本政府によるあからさまな「条約無視」(公人が公的な約束を破って恥じない反近代的な態度)であったことが、1920年代のパリ不戦条約の推進主務者だったスティムソンとしては許せなかったまでで、日本民族を十把一絡げに憎悪するような浅薄な知識人ではない。まさにポーの「盗まれた手紙」に出てくる、凡百に理解のできない「モラリティ」の持ち主だった。その理想追求肌の法曹学徒・スティムソンの日記には、東京大空襲の直後に、日本政府から「これは非道な国際法精神蹂躙である」という世界宣伝が打たれなかったことに、拍子抜けしている心情が綴られている。

 日本政府がもしもこの点を国際ラジオ放送でガンガン弾劾し続けたならば、スティムソンの道義心はかならず揺らぎ、焼夷弾による中小都市空襲も自制され、原爆初弾の「グラウンド・ゼロ」は、「純然軍事施設だ」と言い張れるようなどこか別の箇所に、変更されたであろう。

 残念ながら当時の日本国の指導層には、そのような対外宣伝力(言語理性)は無かった。ふりかえれば、日露戦争以後の日本の指導者層は、他者(外国人)の心の中がからきしわからないので、そのあいだに何度もあった国民保全のチャンスをことごとくフイにして、1945年に立ち至っているのである。

 1500年前にローマ帝国が消えてから、欧州の有力国家間で70年間も戦争がないという異例に長期の平和は、疑いもなく、米露英仏の核武装がもたらした。

 しかし今日の列強の国家指導層は(おそらくわが国の人士を除き)、プラトン哲学の「無知の知」を弁える。この地球上には、アウトサイダーには漠然と把握することしかできない奇矯なエモーションにつき動かされ、核兵器を隣国の上に行使したくてたまらない集団も、いるであろう。

 また、数学的理性が、核戦争を勃発させることも、可能性としてあり得る。フォン・ノイマンは1957年に50歳で早死にしているが、合衆国がソ連に対して核戦備で断然に優位であった短い時期になぜソ連をさっさと先制核攻撃して始末してしまわなかったのか、その米政府の「共存」方針が、彼の明晰すぎる頭脳ではついに理解ができなかった模様である。

 同じ結論は、戦略空軍のプロ軍人たちも1960年代まで抱いていた。カーティス・ルメイ将軍は一般大学の予備士官教練隊(ROTC)の出身で、ウェストポイントのような士官学校卒ではないけれども、部下(対日戦争中はR・S・マクナマラ中佐が配属されていた。戦前のハーバード経営大学院の統計学助教授にして、戦後のフォード自動車社長、そして国防長官である)を使って数理予測をさせることは得意であり、1962年にキューバ危機が起きたとき、ソ連を全面核戦争によって無力化させ、米本土には1発の核反撃もさせないという自信があった。そしてその命令を米軍に下すことを躊躇したケネディ大統領を軽蔑し憎悪し続けた(墓もわざわざアーリントンとは違うところにしている)。

 1961年に発足した米国ケネディ政権は、当時「天才小僧」とあだ名された若き経営統計学の主唱者、ロバート・ストレンジ・マクナマラを、国防長官として抜擢した。次のジョンソン政権(~1968)まで残留したマクナマラ長官は、その在任中に、増勢しきりであったソ連の大陸間弾道弾(ICBM)に米国が最低予算で効率的に対抗する方法として、米国の大陸間弾道弾を「複数弾頭化」するのがよいと結論した。

 マクナマラは、ソ連もまた米国と同じこと(ICBMの複数弾頭化)を進めたならば一体どうなるのかについては、まるで想像力を及ぼせなかったようである。案の定、ソ連は数年遅れて、米国と同じことをやり始めた。水爆弾頭を軽くする技術の不足は、ロケットを大きくすれば簡単にカバーできた。その結果、米ソ間の核抑止の安定性は、1970年代に入って、すこぶる揺らいでしまった。
34000 水爆「ブラボー」の巨大なきのこ雲。高さは3万4000メートルに達し、大量のさんご礁が吹き飛ばされフォールアウト被ばくをもたらした=1954年3月 (米国立公文書館所蔵、高橋博子氏提供)
 互いに複数弾頭化されたICBMを並べている状態では、数学的な論理帰結として、相手よりも先にICBMを発射した方が、圧倒的に有利になってしまうのだ。ミサイル総数の多寡とも、あまり関係なしに……。

 相手の水爆弾頭が着弾する前に発射してしまえなかったこちらのICBMは、おそらく全部、サイロの中で破壊されてしまって、自国政府は「武装解除」状態に簡単に陥るであろう、と信じられた。その政治的な破滅を回避したくば、互いに、一刻も早く手持ちのICBMを発射してしまわねばならない。

 このような甚だ困った事態を、経営統計学の「天才小僧」氏は、われわれの世界にもたらしてくれたのであった。マクナマラ氏の頭脳は、エドガー・アラン・ポーが描写した「パリ警視総監」氏と、遠からざるものだった。

 厄介な戦略核バランスの不安定化は、80年代の米国の数学秀才たちが、潜水艦から発射する戦略核ミサイルをICBM並の精度で誘導できる、全地球的な電波航法衛星システムを実用化してくれたおかげで、ようやく終了した。それが、今わたしたちが非軍事的にも恩恵をこうむっている「GPS」だ。

 ソ連=ロシアも、「戦略ミサイルを車両機動式にする」という解法を考えて、実行しているところだ。

核攻撃への消極防護策や積極反撃策


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