内蒙古の居留民4万を生還させた根本中将の撤退作戦

「世界のジョーク」的な本の中に必ず登場する小話に「世界最強と世界最弱の軍隊」てなのがあります。
A: 「世界最強の軍隊をつくるにはどうすればいい?」
B: 「それならば、アメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官兵を集めればいい」
A: 「じゃあ世界最弱の軍隊ってのはどんなだろう?」
B: 「それは簡単だ。中国人の将軍、日本人の将校、イタリア人の下士官兵を集めれば良い」
みたいなやつです。
軍隊には将軍・将校・下士官兵と大きく分けて3つの役割があります。若干の差異はありますが、それらは会社組織に当てはめる事ができます。
・将軍:軍隊の最高決定権者 会社で言えば社長・役員
・将校:参謀や現場指揮官 会社で言えば部長~課長
下士官兵:現場叩き上げ 会社で言えば係長~ヒラ的な感じです。

 ことほどさように日本の高級軍人の評判は芳しくないのですが、戦後のWGIP政策で戦前に反して「軍人を賞揚する」意見が圧殺された社会的側面もあります。昔から、敵の追撃を受けながら撤退する「しんがり」は「地味で困難、かつ決定的に重要な役回り」と決まっていました。ここでは、居留民を護送しながらこの「しんがり」を見事に果たした日本軍の話を紹介いたします。「終戦詔勅」の後の事です。

イメージ 1   門田隆将(2010)『この命、義に捧ぐ』(集英社)で、
国共内戦金門島(きんもんとう)の防衛戦に参加した根本博中将が知られるようになりました。
根本博 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A 
山中英雄氏のアマゾンの書評では、次のように紹介されています。
 本書によれば、満洲に隣接する内蒙古の日本軍司令官・根本博陸軍中将は、終戦直後、在留邦人4万、配下の軍人35万を従えて、本国からの武装解除の命にあえて反してソ連軍と戦いながら、北京・天津を経由して日本への帰還を無事果たす。道中、助力してくれたのは蒋介石の国民党軍だった。
   1949年、国共内戦に敗れた国民党軍は台湾に渡り、押し寄せる共産党軍と廈門(あもい)・金門島(きんもんとう)を挟んで対峙するに至る。まさに破滅の淵に、根本博は少数の仲間とともに粗末な舟で危険を冒して渡海して参戦する。受けた恩義にただ報いんとするためである。戦神と呼ばれた根本博の活躍により、10月24日からの古寧頭(こねいとう)の戦いで共産党軍およそ3万は壊滅し、共産党の台湾侵攻は挫折した。しかし、この激戦に旧日本軍将校が参与していたことはタブーとなり、いまや忘れ去られようとしている
 根本中将の話は、金門島中共軍を撃退した話が中心となって語られる場合が多い。
ここでは、その前の内蒙古(ないもうこ・「内モンゴル」の東部)からの撤退作戦に着目して紹介してみます。

  終戦当時、梅棹忠夫南京政府とは別の蒙古連合自治政府(蒙古自治邦)の首都・張家口(ちょうかこう)市(北京の北西、約160Km)にある「西北研究所」に勤務していた。原爆投下・ソ連参戦のニュースはきちんと入っていた。ポツダム宣言受諾は、8月14日に蒙古政府筋から入った。8月21日、梅棹忠夫は、張家口発の最後から二本目の引きあげ列車に乗った。梅棹忠夫は、こう書いている。

イメージ 2 列車は時々何時間もとまった。先行列車の機関車が脱線しているのである。八路軍人民解放軍の前身)の妨害工作らしい。それを取り除いて、後続の列車はまた走った。

 八達嶺を越えて、南口あたりであったかと思う。鉄道に平行している街道を、日本軍のトラック隊がたくさん走っていた。モンゴル高原の南縁でソ連外モンゴル軍の戦車隊を阻止していた(日本の)駐蒙軍のようであった。彼らが支えているあいだに、われわれは無事張家口を脱出できたのであった。後で聞くところによると、彼らも霧にまぎれて実に巧妙に脱出したのだという。

 トラック隊はおおきな日章旗をひるがえしていた。トラック隊と無蓋貨車とが平行して走っていると、どちらからともなく、万歳の声がわきあがった。われわれは万歳をくりかえしながら、並んで山を下って、華北の平原に達した。

 (張家口出発から)四日目の朝、我々の列車は天津に着いた。内蒙古の数万人の日本人は、
見事に脱出に成功したのである。後に聞くところでは、満洲国の日本人の脱出行は悲惨をきわめたという。それに比べて、蒙疆(モウキョウ・内蒙古)の場合は、まさに奇跡の脱出というべきであろう。
このみごとな撤退作戦をだれが決断し、指導したのかは、私は知らない。
この脱出行については、戦後の日本ではほとんど知られていないが、1981年になってから、ようやく、これに関する一書が刊行された(注)。
(注)稲垣武(著)『昭和20年8月20日内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出』1981年8月PHP研究所
梅棹忠夫(1991)『回想のモンゴル』中公文庫〕。

 今西錦司梅棹忠夫中尾佐助など、「京都学派」と呼ばれて戦後に活躍した人々は、これで助かったのである。
 トラック隊の兵隊は任務を成功裏に果たしつつあるという高揚感から、引きあげ貨物列車で避難する居留民は安堵の感激から‥‥、梅棹忠夫も「日の丸のトラック隊」に向かって「万歳!」を何度も叫んだにちがいないのだ。
それなのに、「このみごとな撤退作戦をだれが決断し、指導したのかは、私は知らない」で済ませて
きたのは、「日本軍は悪」とする戦後の風潮に影響されたものであろう。

 梅棹は稲垣武(1981)を読んだにちがいないのだ。「みごとな撤退作戦」と、実は断定している。この本で、「駐蒙軍の奮戦と根本司令官の勇断」で自分と家族・同僚が生かされていることを知って、おのずと感謝の念がおこらない訳はない。
 しかし、これをそのまま書けば、「戦前の日本軍を擁護する軍国主義者」と攻撃されるのは分かり切ったことだった。なにしろ、戦後の大学は左翼の全盛時代だったのだから。
 そこで、文献名を明示した上で「私は知らない」とトボけて見せたのである。

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張家口:張北:「丸一陣地の戦跡を訪ねる」
2012/12/05 に公開
対戦車壕(たいせんしゃごう))
主に戦車などの突破を防ぐために構築される堀。落とし穴
適度な
広さ深さ登坂不可能な傾斜角を持ち、壕に落ち戦車擱座(かくざ)させる構造物。

張家口・丸一陣地の戦跡を訪ねる:旅立ち前

 兵団は 塞北(さいほく)の野に潰(つい)ゆとも  敵には渡さじ四万の同胞
                           丸一(マルヒト)陣地を守備した響兵団参謀 辻田新太郎
 
「根本中将の内蒙古撤退作戦」の推移と満洲国との比較は、次の動画の4:10~から、全体的な時系列の視点で概説されています。
根本中将の使命感【CGS 家村和幸 闘戦経 第32回】           
                                                                                                                                              門田隆将氏が根本中将について取材した当時の状況と、関係者へのインタビューが次のニコニコ動画にまとめられています。全体は45分と長いのですが、楽しめて当時について広い理解が得られるので、視聴されることをお勧めします。