米兵の「首刈り族」

 クリント・イーストウッド監督の、映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」が話題になっている。私はまだ見ていない。

 戦時中は「鬼畜米英」なんて言われたが、戦後やって来た米兵は陽気で親切で、チョコレートをくれた、と言う話がある。これは、子供の視点だろう。
 戦時中、駅員をやっていた父は、「艦載機(空母から発進した米軍戦闘機)がよく駅をねらって機銃掃射をかけて来た。弾がレールに命中すると、スポスポと穴が空いた」と子供の私に話した後、母を振り向いて言った。
「艦載機がよく通行人を追い回していたなあ・・。あれは…、面白がってやっているんだ・・・・。」
そんなことは、東京市民の大人にとって、嫌でも見せつけられる生活上の常識だった。迎撃する日本軍機もなくなった焼け野原の東京上空で、暇つぶしに射的感覚で通行人を射撃すると、なかなか面白かったのだろう。
 それは、殺らなければ、殺られるという戦場の感覚とは別のものだ。

 さて、上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」の話である。和智恒蔵(わち つねぞう)海軍大佐は硫黄島守備隊の幹部だったが、上官とそりが合わなかったために内地へ戻された。結果として、残った上官や部下はほとんどが戦死した。和智大佐は戦後僧侶となり、はた目には異様と見えるほどの執念をもって占領下のGHQ言いなりの日本政府と米国政府に、遺骨収集についてかけあった。「軍靴をはいたままの骨や、ボロボロの軍服をつけた遺骸や、穴の空いた錆びた鉄兜で伏せた屍が、南海の孤島に海風吹きつける中で日に灼かれ、淋しく雨ざらしになったままでいる」と考えたら、居ても立ってもいられなかったのである。様々な困難を経て悲願成り、和智師は玉砕兵士の遺骨収集のために硫黄島に渡った。

 その時の事だ。壕の中に散乱した遺骨を集めて、大腿骨2本を一体として勘定したが、その計算でやると頭蓋骨の数がどうしても合わない。かねがね米兵の中に、戦勝記念として頭蓋骨を持ち帰る習慣があると聞いていたのを思い出した。やがて、金歯をつめた頭蓋骨(インテリは歯の手入れがよい。おそらく士官だろう)が多かった地下壕が、米兵の間では密かにゴールド・ラッシュの現場と名づけられたと知って愕然とした。
 和智師は、硫黄島駐屯のヤングス空軍少佐と、グアム島から出迎えに派遣されてきたコリンズ海軍大佐に頭蓋骨の数が足りないことを告げ、米軍当局の釈明を求めて抗議を試みた。和智師は、海軍大佐として硫黄島に赴任する前は、駐メキシコ情報将校だったので英語・スペイン語に堪能だった。

「収集した遺骨の内、千体分に頭蓋骨が見あたらない。どういう訳なのか?」
「アイ・ノウ(知っている)。しかし、現段階では声高に糾弾せずに、当方に任せて欲しい」



 大西洋横断飛行で知られたチャールス・リンドバーグは、「リンドバーグ第二次大戦日記」(新潮社)の中で、日本兵の遺体から金歯を抜き取る海兵隊員の話を書いている。また、ハワイの税関を通った時に、手荷物の中からまだ生々しい日本兵の頭蓋骨を2個忍ばせていた男を発見したと、税関職員から聞いた事も伝えている。
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米国ライフ誌の1944年5月22日号に掲載された写真

 米国ライフ誌の昭和19(1944)年5月22日号に「米国兵が記念品として本国に送った日本兵の頭蓋骨を前に、少女が礼状を書いている写真」が載った。朝日新聞は、これを昭和19年8月11日と13日に記事にしている。

(この写真についての説明は、下部に引用した関係資料のうち、「眼とろん星人」さんの「鬼畜米英って、本当に『うそ』だったの?(上)」と、本文最下の「れおん」さんのTB記事「沖縄戦で日本人が戦った真の『恐怖』とは」に詳しく載っている)

 日本人戦死者の頭蓋骨を記念に本国へ送る悪習は、戦争末期、日本の都市への無差別爆撃が開始されてから、いっそう盛んになった。この蛮行を発見し非難したのは、フィリピンへ派遣されたローマ教皇使節だった。ただ、戦勝国の特権で、アメリカの蛮行は忘れられている。敗戦国の残虐だけが、誇大に伝えられすぎている。以上は、西尾幹二氏の文章である。

 屍(かばね)に血を零(あや)す、と言うことばがあるそうだ。「死者の名誉を汚す」という意味だ。戦後まもなく進駐してきた米兵は、日本兵の勇敢さを目の当たりにして敬意を抱いている者もいたと言われる。これらは、戦闘を通じて「日本人も同じ人間である」と気づいていた米兵のようだ。

 硫黄島戦の日米地上戦兵力と戦死者・戦傷者は、以下と言われている。

                 日本軍    アメリカ軍
 硫黄島地上戦兵力    20,933名    61,000名
 戦傷者                     21,865名
 戦死者            20,129名     6,821名

 この数字は、Wikipedia硫黄島の戦い」によった。実は、米軍戦傷者・戦死者数は「地上戦兵力内のみ」とは限定されていない。硫黄島海域の米艦船が日本軍の砲撃や神風攻撃で戦傷者・戦死者を出していて、これも含まれているかも知れない。
 が、栄光あるアメリカ軍第五水陸両用軍団(第三海兵師団・第四海兵師団・第五海兵師団)に生息した髑髏(どくろ)ハンター:(首刈り族)のおおよその割合を推定しておきたい。

  頭蓋骨のない日本兵遺体(1000)/米軍地上戦兵力(61,000)-〔米戦傷者(21,865)+米戦死者(6,821)〕 × 100 = 3.095 %

以上が、米軍第三~五海兵師団に居た海兵隊「首刈り族」の割合である。

 「戦闘で硫黄島に上陸した海兵隊員の内、戦死・戦傷しない者の中から、一人一個の頭蓋骨を持ち去る者が出た」との想定で、割合を出してみた。
 地下深い所で崩壊した壕の遺体には手が出ないだろうし、米戦傷者も持ち帰ったかも知れない。また、一人で、二個以上も持ち帰った米兵もいるだろう。実際に上陸した米兵数は、また別なのかも知れない。アメリカの詳しい戦史を調べれば、もっと精度が上がるだろう。とにかく、硫黄島の戦闘で上陸した米兵が1000個の日本兵頭蓋骨を持ち去ったのである。
 上官も知るほどだから、実際は5%~10%あたりではなかろうか?

 米軍人が戦利記念品として戦場から持ち帰った物(つまり、「勇者である証拠?」)に、日本軍人の軍刀・手紙や軍人手帳・千人針・寄せ書きされた日章旗・家族の写真などがある。年を経るに従って、おのが若気のいたりの功名心や、戦場の興奮や、軽率な好奇心のなせる業と気づいてくると心が傷み、日本の遺族の許へなんとか返したいとの想いが、老境に至ると募ってくるものらしい。


元・米兵が「戦場で偶然拾った」というニュアンスで語る「日本兵の遺品」を、
持ち主の家族に返すために遺族を探していると言う記事が、戦後の新聞にしばしば載っていた。

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しかし、さすがに「髑髏(どくろ)を返したい」との記事は見たことがない。





                  関係資料
『残忍な人たち ~ なぜ原爆を落としたか』
(週刊新潮●変見自在) 2005年8月11・18日号高山正之帝京大教授)

映画「パール・ハーバー」の中で、日本の艦載機が病院を銃爆撃し、患者や看護婦がばたばた殺されていく場面があった。日本軍の残虐さを訴えたかったらしいが、これに石原慎太郎知事は「嘘が過ぎる」と怒った。
   真珠湾やヒッカム飛行場攻撃ではこの種の言い掛かりが昔からあったと、羽田記者クラブ時代に付き合いのあった日航機長の藤田怡与蔵氏が言っていた。氏は民間航空パイロットとしては異例の旧海軍出身で、真珠湾攻撃にも参加したが、「米軍のパイロットならいざ知らず、日本軍はそんなことは思いつきもしない」と。
   確かに、米軍パイロットはそういうことを平気でやったと慎太郎知事が体験談を書いている。「麦畑を走っていると、米軍のP51がきて機銃掃射された。胴体に原色で漫画が描かれていた」。
   二子玉川の床屋で聞いた話だが、戦時中、あの橋を東京側に逃げる若い女性を、米軍機が低空で追って撃ち殺した。パイロットの顔が地上から見えたそうだ。
   教育出版の教科書に「夏の葬列」というのがある。疎開した男の子が地元の女の子に庇われて米軍機の機銃掃射から逃れる。でもちょっとした諍(いさか)いがあって女の子が外に飛び出して米軍機に撃ち殺される。作者の意図とは別に「米軍のパイロットは子供まで狙い撃ちしていた」ことを図らずも告発している。
米軍戦闘機のガンカメラによる機銃掃射映像
https://www.youtube.com/watch?v=nqXmG7vHlJE
真珠湾の日本軍パイロット
 午前7時52分、真珠湾上空に到着した空襲部隊の淵田美津雄総指揮官から空母「赤城」に向けて「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)が打電された。55分、フォード島の米海軍の6番格納庫への爆撃を皮切りに真珠湾攻撃が始まった。
  第1波、第2波合わせて、約350機が縦横無尽に真珠湾上空を飛び回り、艦船や航空機数百機、格納庫、滑走路などを破壊、2時間に及ぶ「真珠湾攻撃」が終了、対米戦争に突入した。

  フォード島の米海軍54番格納庫で飛行艇カタリナの乗組員として勤務していた20歳だったディック・ジラコさん(93)は、真珠湾攻撃の当日のことを鮮明に記憶している。
「あの日は澄み切った青空の中、無数の飛行機が空を覆うように飛んできた。急旋回した翼の下に日の丸が見えたときに、パニックになった。飛行帽やゴーグルがはっきりと見えるほど近くを飛んでいった。パイロットと目があったが人は狙わなかった。日本軍は卓越した飛行技術と完璧な作戦で、滑走路や艦船、航空機を徹底して攻撃して去った」。
この攻撃による死者は、米兵ら2000人超とされる。
  ジラコさんは当時のまま残る格納庫などを利用した太平洋航空博物館の親善大使として、戦争体験を語り継ぐボランティアに励む。「90歳を過ぎた今も、当時の体験を正しく伝え、さまざまな人と交流できることが生きがいだ」と笑顔で話した。愛車は日本車で、自ら運転し格納庫に通っている。ナンバーは「パールハーバー・サバイバー(真珠湾の生存者)」だ。

 当時8歳だった日系2世のエレーン・フナコシさん(81)は、自宅の庭で日本軍機を目撃した。
「若い美男子のパイロットが手を振ったのを覚えています。開戦後、日系人は随分差別を受けました」
と心境は複雑だ。

 ヘリをチャーターし、真珠湾攻撃と同時刻に上空を飛んだ。まぶしい日差しと澄んだ水面が印象的だった。あの日、日本軍のパイロットたちが見た風景はこれだったのか。身震いを覚えた。
(文 報道局 鈴木健児 「産経新聞」)
当時のハワイは、アメリカの植民地だった。革命と称してアメリカ人がハワイ王国を乗っ取ってしまったからだ。昭和7(1931)年、アメリカ海軍軍令部長は、大西洋艦隊の根拠地を太平洋岸に置く事を命じ、事実上大西洋艦隊を廃して太平洋艦隊に合併して、ハワイに集結させた。実は、アメリカは対日戦をやる気マンマンだったのである。昭和7(1931)年「一目でわかる漫画世界現状地図」(新潮社)クリントン大統領が1993年になって、初めてハワイ王国簒奪を謝罪したが、実質的な保障はウヤムヤになったままだ。生粋のハワイ人に「あんたらは、アメリカ人に国を乗っ取られてしまったじゃないか」 と言うと、今でも涙を流して悔しがるのだそうだ。
 明治14(1881)年、ハワイ王国のカラカウア1世が外国元首として初めて明治天皇を訪問し、日本とハワイの合邦を打診した。明治維新後間もない日本がアメリカと対立するのをおそれた明治天皇は、丁重にお断りしたらしい。明治23(1890)年のハワイ王国の人口の40%が、日本移民だった。幻の「日本ーハワイ連邦」
ハワイ国王を援けられなかった明治の日本
盗まれた楽園・ハワイ王国
ハワイ独立自治国の誕生

真珠湾攻撃の一週間前に、ハワイ・米紙が報道「週末に日本が戦争を仕掛けて来るかも・・?」
  米国はまた日本の文化財に敬意を表して京都を爆撃しなかったと主張する。これも米軍の公式資料を調べれば大嘘とわかる。

即ち原爆の投下候補地は
①直径3マイルを超える都市で
②かつ有効な損害を与えられる地形をもち
③通常爆弾による爆撃をしていないこと
が条件だった。
  これに適うのが京都、小倉、新潟、広島、長崎などで、中でも盆地状の京都市街は申し分なかったため、本土爆撃が始まってからも一切の通常爆弾による爆撃は行なわれなかった。確かに最終段階で第一候補の京都に“執行猶予”がついたのは事実だが、
それをもって「京都を守った」とはよくも言えたものだ。
   広島もまた同じ。原爆を落とし、それがどれほどの人的、物的被害を及ぼすかを測るために、ここも通常爆弾を落とさなかった。それを元長崎市長本島等は
「広島は殺人軍団・第五師団の本拠地。原爆を落とされて当然」
と言う。そんなに危険な軍都なら、原爆ができる前にとっくに通常兵器で爆撃しているはずだ。
こういう馬鹿を言う人につける薬が欲しい。
  米国はもう一つ、この原爆を落とすに当たって
「日本には継戦能力があり、米兵百万が失われるおそれがあった」
とも主張する。昭和20年の日本は、原爆用の都市以外の都市はすべて焼かれ、飛行機も船もなかったが、米国は「戦争を継続する能力あり」と判断したのか。

 鳥居民氏は「原爆が完成するまで日本に降伏させなかった」と著書で説く。
 8月6日に考えてみることは多い。


[大義のために戦った日本」http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-512.html
「鬼畜米英って、本当に『うそ』だったの?(上)」http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44070110.html
「鬼畜米英って、本当に『うそ』だったの?(下)」http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/44070231.html
(以上は、2008年8月に追加)

「祖父の硫黄島戦闘体験記」http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
「みりけんの読書日記:硫黄島いまだ玉砕せず」http://blog.livedoor.jp/miliken/archives/50180604.html
硫黄島協会」硫黄島、今なお眠る本土防衛の将兵1万3千のむくろ。http://www.iwo-jima.org/
硫黄島探訪」http://www.iwojima.jp/index.html
硫黄島戦記の部屋」http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/iojima.htm
「じゃぱ・じゃぱ~愚僧の独り言~」http://pub.ne.jp/koyaji21/


追加「連合軍の捕虜虐殺」http://www.tamanegiya.com/amerikagyakusatu19.1.16.html

159:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/08/13(土) 21:35:26.52 ID:5NVhuX+p0

サイパン戦で生き残った田中徳裕・元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の証言

・「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、数台のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。

・次には滑走路に集まった老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火が付けられた。たちまち阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。我慢ならず我が兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続ける。

・火から逃れようとする老人や子供を、米軍はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れる。
2人の米兵は草むらの中で泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持って真っ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。

「ギャッ!」という悲鳴を残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う鬼畜の米兵ども。・こんなに優勢な戦闘状況にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。

・マッピ岬にたどり着いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串刺しにされた婦人を見た。さらに自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。