全国の「深尾さん」いらっしゃい!――深尾書簡(1)

 昨年の年末、全国の高校で地理歴史科の必修科目・世界史が未履修のままの生徒がいることが発覚した。今回の発覚は学習指導要領への単なる違反事件と見る時、大した事ではない。むしろ問題は、高校教育を大学受験の予備校としか見ない世間の風潮にある。16歳から18歳にかけての時期を逃したら、半生の後悔のたねになり、損失は取り返しがつかないと言う教科が、高校にはあるはずだ。それが日本史である。ところが、高校の地理歴史科の必修科目が世界史であって、日本史ではないことはオドロキだ。興味は「近くから遠くへ」という順序を逆にするのは誤りだろう。敗戦以後、日本は歴史の解釈権を奪われた。旧敵国から犯罪国家(日本)史観の教育を強制されたままである。歴史解釈権奪還闘争は、中高での歴史教育に基礎を置くべきである。

 以上は、小堀桂一郎先生の主張でした。さて、私は「日本史は先祖調べからやると良い」と考えています。明治維新大東亜戦争の「日本史の激動期に、先祖はどこにいて何をしていたのか?」を知れば、「自分に無関係な年号や事件を、テストのためにひたすら暗記させられる退屈な課目」という「日本史教科観」も変わるでしょう。

 1931年生まれの小松重男氏は新潟県の新潟湊(新潟港)出身です。小松氏の少年時代の老人達は、まだ天領江戸幕府の直轄領)の百姓のほうが、各藩の百姓よりも格段に恵まれていた事実を知っていました。新潟湊が天領であったのは、天保14年から幕府崩壊までの、わずか25年に過ぎないけれども、古老達は当時を顧みて、「みんな穏やかに暮らしていた」と断言して公方様(徳川将軍家)の有り難みを口にしていた。
「天朝(天皇)なんて、あんなもん、お札配り(神社の神主)の親方だったんだ!」
等と口走っては、憲兵隊や特高警察を恐れる壮年層をあわてさせた。
「そんなことを、子供に教えないでくれ」
と老人に頼んでいる母のおびえた表情を、小松氏は覚えているそうだ。
 小松氏は「旗本の経済学」(1991年、新潮社刊)の中で、さらに続ける。江戸の武士に教養が備わった結果、幕臣が城中で刀を抜いたり、市中で町人を斬ったら、理由の如何に関わらず厳罰に処される。こうして武士の凶暴性が無くなりかけたのに、またぞろ薩長の乱暴者共が、せっかく洗練されつつあった江戸文化を、また元の木阿弥にしてしまったのである。しかし、明治以後の国定教科書を筆頭に、新政府におもねる小説・講談・芝居・活動写真で教育された人々は、このことを知らない。かく言う著者(小松氏)も「幼年倶楽部」、「少年倶楽部」のおかげで、「勤王の志士」以外の武士は、特に徳川の家来なんて、みんな罪もない百姓・町人を斬り捨て御免にする悪人ばかり、と思い込んでいた。無教養で、手紙もろくに書けず、きれいな女を見つけるとすぐ手込めにするのが、はるばる江戸から派遣されて来る「御代官様」だ、と現在テレビで時代劇を楽しんでいる人たちも信じているらしい。

 折りしもテレビで「白虎隊」が始まった。西郷が益満休之助・伊牟田尚平に金を渡して江戸に送った。相楽総三も加わった。江戸の薩摩藩邸にゴロツキを飼うこと五百人。江戸市中や北関東で強盗を働かせ、庶民の生活を蹂躙して治安を乱すことで江戸幕府を挑発したことは少し出てきた。大政奉還で戦争の口実を失った西郷は、なんとか幕府から手を出させて戦争に持ち込みたかったのである。しかし、描き方はまだまだ足りない。会津藩に痛恨の一撃だった「孝明天皇の急死」は、岩倉具視が黒幕の暗殺だったことは言及されない。昭和40年代になって、やっと孝明天皇の典医の子孫が、孝明天皇の死因は「急性毒物中毒」だったとのメモを公開した。明治政府下では、そんなこと言ったら抹殺される。鳥羽伏見の戦いは、相互に承知で戦端を開いたように描かれるが、これは間違いだ。ハナから戦争に持って行く気だった薩摩軍が、一列縦隊で入京しようとする幕府軍と「入京する」「待て」の押し問答の末に一方的に発砲し、その混乱で戦になったのである。発砲した薩軍隊長が桐野利秋・野津鎮雄だった。西郷の謀略が成ったのである。薩長は、戦を仕掛けなければ自滅する運命にあった。
 明治維新、なかんずく戊辰戦争を「勤王か?佐幕か!」の「朝廷対幕府」で捕らえるのは、明治政府の宣伝による。実態は、「薩長対反薩長」である。幼い明治天皇を利用できた薩長が勝ったのである。明治政府の国家体制や官僚機構は、すべて江戸幕府が用意したものである。幕府は西周ニシ・アマネをオランダ留学させて、三権分立やイギリス議会制を報告させ、「議題草案」を作らせている。それは、大坂を首都とする徳川の近代国家政権構想だった。対する薩長には、そうした構想はなく、参議など三役を定めただけの古めかしいものだった。官僚制は江戸幕府に起源がある。例えば、官舎(拝領屋敷)、賞与(御褒美金)、制服(時服拝領)皆勤手当など。

 賊軍とされた旧・二本松藩士に佐倉強哉という人がいた。嘉永3(1850)年生まれで、昭和14(1939)年に死んだ。30年武士として生き、次の30年司法官、残りの30年は弁護士・公証人として生活した。
 この人に言わせると、明治の改革は新政府の意志で成就したものではない。外からと下からの力が盛り上がって、そうならざるを得なかったのである。ただし薩長の討幕運動は、徳川の基礎が揺らぎ始めた機会をとらえたので、徳川に代わって天下をとる野心は凄まじかったが、自分たちの手で新しい日本を築き上げようとする大方針はなかった。
 政治の機構はいろいろ変わったが、つまるところ天皇が将軍に代わっただけだった。天皇の下には、天皇を絶対の権力者として祭り上げることによって、薩長の成り上がりどもが時を得顔に権力をふるっている。こんな新政なら、なにも天皇を表面に押し立てる必要はなかった。勝安房と対立した主戦論者・小栗上野介に任せても、これ以上の新政を手際よく開いて行ったはずだと、この人は考えた。
 明治政府の食をはんで、苦労のない晩年を送ったこの人が、頑としてこういう見解を捨てなかったのは、この人の生きてきた道筋が、どんなに険しかったかを物語るものだろう。「俺が賊藩の徒でなかったら、大臣ぐらいにはなっていたろう」と、一杯飲むとこの人は言った。
 この人が大戦後まで生きていたら、「薩長ついに倒る」と、ほくそ笑んだかも知れない。私(榊山潤「田舎武士の目」昭和43年)はそんな空想に動かされる(実は、田宮虎彦の小説「霧の中」に、こういうの心情を語るところがある)。
 戊辰戦争でこの人は二本松奪回をねらって同盟軍の会津兵と共に戦った。戦死した味方の者が腹を裂かれている。薩摩兵が味方の死体から生きギモ(肝臓)を取って食うということが、間もなく分かった。憤慨したのは会津の兵である。いまにかたきをとってやると意気込んでいた。この人が山中の小競り合いの後に炭焼き小屋に出ると、張り紙がしてある。「この中に官賊の生きギモあり。後から来たるの士、遠慮なく味わわれよ」。腹ぺこと疲労で目が回りそうだったこの人は、焼いてある肉片を食った。「人間の肝臓とは、変な味のものだ。あの味は、今でも忘れられない。一つはかたき討ちのつもり、一つは精がつくと思って飲み込んだが、気持ち悪くなって、間もなく吐いた」。
 凄いですねえ、べっとり血のりのついた歴史の現場の迫力がありますねえ。

 明治以後の歴史学は御用史学だった。江戸幕府を悪者に仕立てあげないと、明治維新の正当性が出てこない。ちょうど、光沢民の中国共産党が日本を悪者に仕立て上げてそれを追い払ったことにしないと、共産主義を捨てた中共政権に正当性がなくなる構造と同じだ。

 そこで、「深尾書簡」である。三重県の北端に中里ダムという人造湖があります。その湖畔に深尾村(集落)があったのですが、昭和46年にダム建設のために立ち退いて集落は廃村となり、昭和55年にダムは完成しました。住所は、員弁(いなべ)郡藤原町・鼎(かなえ)・深尾ですが、去年の平成の大合併で、員弁郡は員弁市になりました。この旧・深尾村が「全国の深尾さんの発祥の地」なのです。で、私の母方の祖母の実家が「深尾さん」なのです。私にとって、「深尾さん」は先祖の一つです。さて、この旧・深尾村の南東方向約1Kmに鼎(かなえ)という集落が中里ダムの堰堤下に現存し、そこに安顕寺(あんけんじ)という寺があります。この寺に江戸時代中頃の深尾村の庄屋に宛てた、差出人を深尾治右衛門とする手紙が残っており、これを「深尾書簡」と地元の郷土史家は呼んでいます。