深尾書簡・本文(3)

 手紙冒頭の「御意」とは、「手紙の差出人である近江在住の深尾治右衛門の『自宅に来訪して欲しい』との要請に対する、受取人・深尾村庄屋達の承諾」を表します。治右衛門はこの春に庄屋達に対して「来訪を要請する第一回目の照会状」を出し、庄屋達は7月8日付けの返事を送りました。返事は17日後の7月25日に治右衛門に届きました。ここに紹介する治右衛門の手紙は、庄屋達の返事に対する「第二回目の照会状」で、日付は8月3日です。深尾村へは、8月20日頃届いたものでしょう。今の太陽暦では、秋の彼岸頃と思われます。

二白(再啓)いまだ御意を得ず候へども、安顕寺様へもしかるべくお心得下さるべく候。何卒なにとぞ、伏し御来臨下さるべく待ち奉り候。

当七月八日[付け]の貴礼(ご返事)、同二十五日相達し(到着し)、かたじけなく拝見いたし候。仰せのごとく、『秋暑(残暑)今だにしのぎ難く』候。深くご両家(深尾村庄屋の本間家・藤田家)お揃いでご壮健の旨、珍喜(お喜び)奉り候。

しかれば、当春書中をもって申達(差し出し)候深尾氏の一件につき、ご不審お尋ねの条々、荒々(ざっと)返答左にしたためつかわし申し候。御覧候の上、別にまた分かりかね候義(事)もこれあり候はば、またまた仰せ聞かさるべく候。
一 『深尾氏の義、治承年中(1177-1181年)残党退治(「近江・美濃・伊勢国境の三国ケ嶽に熊坂長範の残党が立てこもり、山賊行為を繰り返していたが、それを退治した」との言い伝え)』と仰せつかわされ候は、もし当春この方より書き違えつかわし申し候なり。これは承安三(1173)年にて御座候につき、左様御心得を。
一 『右、退治の後、浅小井(あさごい・近江八幡市浅小井町)へも住まず、かつまたその後、いかなる謂われにて深尾谷(深尾村の在所)も退き、いづ方へ参られ候や』とご不審候義、右の訳は、
その頃は平家盛んの時節、すべての源家(源氏)の武士は有るも無きが如く、小源太(浅小井氏第二代・浅小井小源太清家、後改めて清長。その後、深尾監物太郎清長。以後、子孫は深尾氏を名乗る)の浅小井に蟄居しばらく、寿永三(1184)年の頃、佐々木源三秀義と同意して、親子とも伊賀国平田城を責め、戦には利を得候へども、大将秀義老死(七十二歳没)、その後父(浅小井氏初代・四郎長家)も病死(文治三(1187)年)。その後
(父死後の年代と、以下で内容が合わない)
かれこれ駆け回り、嶽(たけ)の凶徒退治と相まみえ申し候。よって承安三(1173)年、初めて[清長は]深尾谷に居住す。その後治承四(1180)年に関東へ下向し、頼朝公に加わり、所々の戦に月日を送り、国治まりて鎌倉に居住と相まみえ申し候。
右に候へば、承安三(1173)年より治承四(1180)年年迄[清長は]深尾に在城
(深尾村の起源は、清長が一族郎党を引き連れて平治の乱(1159年)後の平家の天下から避難して作った砦だったらしい。自給のために開墾したのである。「尾」とは,「山の小高い所。みね。おか。また、尾根。」の意味です。例:「あしひきの尾の上の桜/万葉 4151」。つまり,「深尾」とは、「奥行き深い谷をかかえた尾根」,つまり,「深い尾根」の意であろう。現地の地形から「深い谷のある尾根」ではありません。そのため谷の入り口[現在の三重県いなべ市藤原町の鼎(かなえ)集落]から見通しがきかず、人家があるように見えない。戦前までの落人の村は,「にわとりを飼わない」「鯉のぼりを立てない」など,外部の人間に自分たちの存在を知られない生活をしていた所もあると聞きます。ようするに,「政治犯」であり,「お尋ね者」だった訳です)。
その跡に浅小井冠者
(清長の次男・安顕ヤスアキ。別名・安頼。承久の乱(1221年)にて戦死)
残り居り替え申し候なり。[安顕の]子息・家連(深尾小文太)・入道了弁の末と存ぜられて、『安顕寺と申し、今にこれ在り候』由ヨシ。右の趣に候へば、安顕寺もこの方の庶流(分流)と存ぜられ候。ただし、『了弁を清連と仰せ聞かされ候』義は、これもし当春この方より書き違えつかわし申し候なり。これは家連にて御座候。
(つまり,主人筋は頼朝挙兵(1180年)に参加するために村を出て,「深尾(出身)」と名乗ったのです。深尾砦の周りは開拓されて,主人筋の根拠地としての「深尾村」を傍系が守っていたのですが,戦乱の世で主人筋は村に戻らず,世代が代わって主人筋と村の交流も薄れ,やがて言い伝える者も絶えて,深尾を名乗る主人筋にも深尾村を守る村人にも,忘れられて行ったのです。主人筋には系図に「近江の深尾村」は記録されていたのですが,それが何処にあるのか誰にも分からなくなって行った訳です。実際は、「伊勢の深尾村」でしたから、分からないのも無理はありません。村人にしたら、紙は貴重品でしょうし、「村の起源の記録を残す」なんて、生活上の必要はない訳です。「読み書き」は庄屋クラスは当然できましたが、村人の何割ぐらいができたのでしょうね?
 恐らく,承久の変(1221年)が決定的だったのでしょう。源平合戦で活躍した佐々木一族の多くは西日本に本拠を持っており,(後鳥羽院の官軍)京方につきました。承久の変は「佐々木氏の乱」といっても良いほど,佐々木氏が京方の主力だったのです。京方の佐々木氏は没落し,承久の乱で戦死した深尾安顕はおそらく京方だったのでしょう。これに対して浅小井深尾氏や伊庭深尾氏は鎌倉方だったのでしょう。)

  深尾書簡(4)に続く