深尾書簡・本文(4)

深尾村の位置(1)

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現在の三重県北端にある。

深尾村の位置(2)

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深尾村の位置(3)

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昭和47(1973)年、中里ダムが着工され、昭和59(1984)年、暫定通水が開始された。深尾村は中里ダム(鈴養湖)に沈んだ。

この地図は、「【九里】を探して三千里」さんからお借りしました。
一 『深尾村の義、せんだって[今春の第一回照会状で]御尋ね申し上げ候[事の]子細(詳しい事情)』を御尋ね、ごもっともに存じ奉り候。なおまた『江戸表ならびに信州松代(まつしろ)の義』お尋ね、
右両方の侭(まま)(件を)合(あわせ)(併せ答えると)、
深尾氏の根本は佐々木より分かれ、浅小井に居て浅小井を氏(うじ・血縁による同族集団)とし、またそれぞれの地に居て深尾と号し、或は頼朝公に随順し、また足利家に属し、数代の事に候へば色々と成って、足利の時代本生国・浅小井に帰り、私どもの中興の祖と申す者は深尾加賀守元秀(浅小井深尾氏第十二代・浅小井城二代目城主・天文八(1539)年没)と申し候て本家佐々木家に属し、それより三代目に佐々木観音寺城没落(信長に攻められ1568年落城)。これによって四代目の与喜内勝隆(寛永十一(1634)年没・八十一歳)と言う人、二君に仕える所存無くして当初浅小井の土民に交じり、それより以来、元禄年中(1688-1704年)迄は追々分家もいたし、相応に一類中(同族中)繁昌仕(つかまつ)り候由。しかるに近代追々困窮に及びなかなか筋目(由緒正しい家柄)の所にては御座無く候所、この方出の深尾氏江戸表に四、五軒にも分かれ候御旗本衆の内、その御本家・深尾八太夫(旗本深尾氏七代目当主・元方。1811年没。七十一歳)と申す方より系図の様子近年追々(順序を追って)御尋ね。なおまた、信州松代・真田伊豆守御家中(ごかちゅう)深尾立朴(りゅうぼく)と申す方よりも、段々御尋ね。もっとも、先祖より累代の家譜(系図相伝わりこれ有り候へども、三国ケ嶽
鈴鹿山脈の三国岳・標高911m。その北東山稜の烏帽子岳・標高865mは、別名・熊坂嶽。治右衛門の家の古文書では、「三国岳と烏帽子岳(熊坂山とも言う)を混同」していた。山賊退治の場所は烏帽子岳である。)
がどこやら深尾村がどこやら系図にのせこれ有り候ばかりにて、この方の一類中に聞き伝えし人もこれ無き候につき、それに限らず何角(なにかと・方角)分かりかね候事どもこれ有り候故、歴々様に粗末なる事申し出候ては済まし難く、よって困窮の中よりよんどころ無く吟味を遂げ、その御地へもまかり越すにつき(調査の一環として、御地・深尾村へも参上することについて)、かれこれ御両所方迄にも御世話かけ申す事に御座候。
一 『了弁入道往生時日の事』は庶流故かこの方古記にこれ無く、相知れ申さず候。なおまたいつに寄らず、相知れ候事も御座候はば早速申し上ぐべき候。
一 『深尾家紋の事』「丸ニ桔梗」と
右私方には「桔梗」「角四ツ目結」
を用い、そのほか一類十軒ばかりの面々は、「影の桔梗」も付け「丸に四ツ目」も有り「瓜クワの内に四ツ目」も付け申し候へども、本家は右の通り「ききゃう(桔梗)」と「四ツ目」にて御座候。
右の趣、御報(おしらせ)のみかくの如く御座候。何卒今一度その御地へまかり越し申し(「もう一度」ではなく、「なんとかして、ただ一度だけでも御地へ参上し」)、承りたき存念に候らへども、愚老も当年六十九才に及び、難所の山中道の歩行心もとなく、心外ながら大方(たぶん)参向(参上)も出来申しまじく候。御両所様初め安顕寺御住寺様には、いわば同家の事に候間アイダ(なので)、御上京の節にても何卒お立ち寄り、寛々(ゆっくり)御面談に預かりたく、待ち奉り候。                早々以上

      八月三日認   深尾五兵衛愚父
             深尾治衛門
 本間儀三郎様
 藤田常八様