深尾書簡(5)追伸

副啓(追伸)
一 せんだって[のご返事で]仰せ下され候には、『深尾殿屋敷と申し候所、今にこれ在り候』由

(村民は浅小井小源太清長の屋敷跡を「深尾殿屋敷」と呼び、屋敷跡ははっきり残っていたが、安永年間(1772-1781年)の地震で裏山が幅百間(約180m)崩れて跡形もなくなった。その後、この場所は「百間崩れ」と呼ばれるようになった)。
それについて愚老思い付きには、右の屋敷へ深尾氏の元祖の墓を建て、石碑の銘にその譜を彫りつけ、永代古跡と印し置きたく候らへども、本書に申し上げ候通り近代我等一族ことごとく払底。別に愚老七十の老年に及び、その上残る末家(ばっか・分家)ども若輩者や養子様にて、誰か相談いたすべき方もこれ無く候。しかる所、この度貴君の方よりかれこれ掛け合い下され候につき、安顕寺も近江源氏この方の深尾氏の庶流と存ぜられ候間(なので)、御世話ながら安顕寺の御住僧様へお咄(はなし)下され、安顕寺本願人と御成りなされ、奉賀なりともなされ候て、右御企て下され、永代安顕寺の支配として守護なされ下され候へば、寺の系図にも由緒にも相成り、先祖の弔いにも相成り、それについては諸国の諸士・郷士の深尾党より帰依いたし候様に相成り候はば、末々寺の御為(おんため)にも相成るべき事と存ぜられ候。その御企て出来候はば、この方の一類、江戸・信州様へも申しだし、少々宛てにても助力を加えさせ申し、工面も仕るべく候。もっとも、右のやう(様)なる事、手前共より企て候ては、やま師かもくさんかの様に聞こえ申し候ては、かえって成就なり難く候。
右、御両所御考えの上、しかるべくお執りなし願い上げ奉り候。
一 右屋敷地は、山林(やまばやし)か田畑かに相成りこれ在り候や。御領主様持ちか村方持ちか、また、持ち主格別にこれ有りや。地面の畝歩およそ何ほどばかり、買い求め申すには、およそ代物(代金)何ほども掛かり申すべき物や。
一 右の企て出来申すについては、御領主様へもお届け申すべき義に候はば、御代官所迄にても、御両人様御働きにて御うかがひなし下され候様なる事、御面倒ながら御世話願い上げ奉りたく候。
右の趣、安顕住寺様へ御立ち合いの上、またまた御返事下されたく頼み上げ奉り候。 以上   深尾治右衛門
 深尾村 御庄屋御両所様

再副(再追伸)
一 深尾元祖清長公の戒名、龍雲寺殿と[当方の記録にも]これあり候。左候へば、『清司原(せいじはら・現・鼎の集落)にも龍雲寺と申す御寺これ有り候』由。これも清長の何か由緒も有りさう成る事に候へども、この方にては何も相分かり申さず候。右の御寺はいつの時代の開基に候や。縁起由来書等も御座候や。
一 二十四[万]石の四国の松平土佐守様
土佐藩主・山内家は、松平姓を名のる事が許されていた)
御家老ならびに御家中にも、深尾を名乗り候武士方幾人もこれ有る由。これも浅小井深尾かまたは外の姓か、定めて(きっと)近江深尾であろふかと存じ候には(と思う訳は)、土佐守様御家[土佐藩主・山内家は]佐々木の山ノ内判官の末孫(遠い子孫)にて御座候由。右の外、諸方に数多(あまた)深尾氏も名乗り候郷士など、これ有り候へども、何(いず)れもその先祖の出所を記し置く家もこれ無き由にて、江戸表よりこの方へ段々(色々と)御尋ね故、よんどころ無く隙(ひま)を探り、近日吟味仕り候。
  本間御氏                深五(深尾五兵衛)
  藤田御氏

 以上が、「深尾書簡」の全文です。本間儀三郎と藤田常八が深尾村の庄屋をしていたのは、寛政元年から文化八年(1789-1827年)であることが分かっています。これは、この23年間のどこかで書かれた書簡です。

 幕府はこれまでに旗本に家譜提出のお触れを出してきましたが、寛政11(1799)年4月、『年内に提出せよ』との強い命令を出しました。この時に提出させた家譜(呈譜)を編集したものが文化9(1828)年に完成した『寛政重修諸家譜かんせいちょうしゅうしょかふ(「寛政譜」)』です。

 旗本深尾氏では以前から先祖調べはしていたようですが、幕府から年限を切られてあわてたのでしょう。治右衛門に「矢の催促」をしたようです。郷士の治右衛門も、直参に言われては知らん顔もできず、不承不承、サワリしか読まなかった家伝の古文書をていねいに読み始めたんじゃないでしょうか。そこへ、真田家家中・深尾立朴からも問い合わせが入る。たぶん、大名家でも家譜を同じ年限内に幕府に提出するハメになったと思います。家臣が主家の家譜を調査しているうちに、「先祖調べ」が各藩の武士にも、ブームとして広がったんじゃないでしょうかね。深尾立朴も、そうしたブームで刺激を受けて先祖調べを思い立ったんじゃないでしょうか。
一方、治右衛門はやっと深尾村を探し当て、手紙を出すと「脈あり!」です。近頃、治右衛門家は落ちぶれぎみで、こんなことやってられなかったんでしょうけど、老い先短いと自覚した治右衛門は先祖調べにのめり込んで行きます。ついには、「深尾村に碑を建てて、先祖を顯彰したい」と思うようになるのです。

この状況証拠から、私は「深尾書簡」は、寛政11(1799)年夏に書かれた可能性が高いと考えています。この推定が正しければ、深尾治右衛門が書簡を書いた(太陰暦8月3日)のは、太陽暦に換算すると1799年9月3日になります(くろひつじさんの換算による)。

 深尾村に「深尾党の碑」は建てられませんでした。この「深尾書簡」が安顕寺に残され、戦後の昭和になって地元の郷土史家(近藤実・藤田市男)が発掘するのです。
 「深尾書簡」は、安顕寺の縁起の出典書類として、保存されたもののようです。

 深尾という名の人をご存知でしたら、この記事を教えてあげて下さい。