東京裁判史観の源流:世界史(白人中心史観)

 東京裁判史観の総括は、日本史・世界史の大問題だと思います。ここでは、
東京裁判史観と『世界史』との関係の見取り図」を手抜きで書き留めておき
ます。

 東京裁判史観とは、手短に言えば次の主張です。

日本は悪い国だ!日本人は、それを認めて生きて行け!

この東京裁判史観で実際に日本社会を動かして行くおおもとは、日本国憲法
あります。

 今回、渡部昇一・(弁護士)南出喜久治・著による『日本国憲法無効宣言』
の新聞広告があり、東京裁判史観批判として二人の意見がなかなか面白いので
次に紹介します。
 憲法というのはその国の発動によって作られるはずである。現憲法は占領下にある日本が、占領軍の指示・意向でできた英文憲法を邦訳したものである。
そういう憲法は、憲法という名にふさわしくないし、仮にそれを憲法と呼んだところで、日本の独立回復と共に無効宣言されるはずのものである。
ということは中学生にもわかる理屈であろう。
                           渡部昇一
 ところが、そうはならなかった事情が次に述べられる。
 憲法を生業とする学者や裁判官などの憲法業者は、占領憲法を有効としなければ、その解釈学が成り立たず、自らの職を失することになるので、どうしても有効であると強弁せねばならない「保身」という裏の事情があったのです。
そのために、…(略)「占領憲法真理教」の信者としての法曹を養成することが憲法学者に与えられた使命となってしまいました。つまり、占領憲法有効説派(占領憲法真理教)が我が国の国家教学(司法試験制度、裁判制度)となってしまったということです。                               南出喜久治
 手抜きですから、東京裁判史観はこのくらいにして、「そういうものを押し
つけてきた背景には、何があったのか?」という問題に入ります。それが、ヨ
ーロッパ中心の「世界史」観です。これについて、

   岸田秀 (2007) 『嘘だらけのヨーロッパ製 世界史』 (新書館

の「あとがき」に、わかりやすい表現があったので、以下に紹介します。
 世界史を学ぶと、その結果、ヨーロッパ文明が人類最高の文明で、アメリカの世界支配が当然だという気がしてくるというような、そのような世界史とは何なのか。宣伝効果というか洗脳効果というか、とにかく効果満点のこの世界史とは何なのか。この世界史をつくったのは誰なのか。話がうまくできすぎているではないか。
 そのように考えてゆくと、我々は、

         世界史というと何となく世界人類の歩みの客観的記述

のように思い込んでいるが、ひょっとしてそうではなくて、一種のプロパガンダ、コマーシャルなのではないか、ヨーロッパ(とアメリカ)の歴史家は真実の探求者ではなくて、自覚していたかしていなかったかわからないが、むしろ情報戦略家ではなかったか。近代ヨーロッパ(とアメリカ)の犯罪を隠蔽し、正当化することを任務とする宣伝マンではなかったかと気づいた。
 まさに目から鱗が落ちたわけであるが、そのような目で見ると、言い換えれば、我々がヨーロッパ人から教わったヨーロッパ製世界史をヨーロッパ人(とアメリカ人)のコマーシャルだと見ると、何だか腑に落ちなかった世界史がはっきりとよくわかるようになった。コマーシャルなのだから、ヨーロッパ文明の悪事や欠陥は隠蔽され、この文明が最高の文明で、イスラム文明やアジア文明などの他の文明が劣っていることになっているのは当然であった。わが社の食品は食中毒事件をひきおこしたことがたびたびあり、他社の食品より高くてまずいと宣伝するコマーシャルなどは聞いたことも見たこともない。

 しかし、会社が自社のイメージアップに努め、自社の製品をよく売ろうとして宣伝するのが当然であるように、ヨーロッパ人(とアメリカ人)がヨーロッパ(とアメリカ)文明を宣伝するのも当然であると言えば、当然であろう。それをコマーシャルだと知って聞いているぶんには、大して害はない。本書は、コマーシャルはコマーシャルに過ぎないという単純な事実を言っているだけである。

 ただ、日本の高校の世界史教科書の編纂者に、ヨーロッパ(とアメリカ)文明を宣伝するヨーロッパ人(とアメリカ人)のコマーシャルを頼まれもしないのに無料で広報してあげることはないではないかということは言っておきたい。
 
 最後の一文は重要だと思います。昨年末の高校単位未履修問題で、「高校で
は日本史ではなくて、世界史が必修である」と知って驚きました。高校時代に
欧米中心の「世界史」で洗脳されては、以後の思考にワクをはめられることに
なるでしょう。東京裁判史観の蔓延を妨げられない原因は、ひょっとするとこ
の辺にあるのかも知れない。
 日本は日本のやり方で「世界」をとらえた方がよいのは当然のことです。

 東京裁判史観や日本国憲法は、
(1)白人中心の「世界史」観からの派生物である。
(2)第二次世界大戦終結直後の政治産物である。

 政治産物に「人類の永遠の理想」を投影したがるのは、倒錯した宗教的情熱
に見える。むしろ、明確に既存の宗教に入信する方が問題の整理に役立つので
はないか?政治と宗教は、そう簡単に分けられるものではないが、両者の関係
は穏やかであるに越したことはない。
 金切り声あげて「平和憲法死守」を叫ぶのは、どうかと思うのだが…。