戦後日本の「拘束具」としての日本国憲法(3)

   (4)「犯罪国家・日本」を再生産する「日本国憲法」
 内容面に目を転ずると、最初に問題にすべきは、前文第二段と第九条であ
る。「日本国憲法」は、前文第二段で「日本国民は、…平和を愛する諸国民の
公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述
べ、「平和を愛する諸国民」とされる連合国に安全保障を委任する政策を採用
している。すなわち、平和主義である。そして、第九条②では、この政策を具
体化して自衛戦力と交戦権を放棄している。
 しかし、果たして連合国は「平和を愛する諸国民」であっただろうか。そう
だとしても、果たして彼らの「公正と信義に信頼して」日本の安全保障を考え
ることは可能であろうか。
 答えは、明らかに否である。もしも、日本が国際社会に安全をゆだねる策を
とることが可能であれば、「日本国憲法」前文とほとんど変わらないGHQ案
前文をつくった米国などの連合国は、なぜ、同じ策をとらないのか。そもそ
も、歴史的に、自らの力で自分の国を守らない国家は、強国の保護国になるか
滅亡するか、いずれかの憂き目に遭ってきた。彼らは、その点を明確に認識し
ていたからこそ、同じ策を取らないのである。
 と考えてくれば、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの
安全と生存を保持しようと決意した」とは、何を意味するのか。そもそも、国
の安全と外交を他国任せにする国家のことを保護国という。上のように国の安
全を他国に依頼すれば、他国に外交権も掣肘されるであろう。それゆえ、「日
本国憲法」は、独立国であることをやめ、連合国の保護国になりますと宣言し
ているのである。
 それでは、なぜ、武装を放棄して連合国の保護国にならねばならないのか。
これは、「日本国憲法」の世界では、人類性善説と日本人性悪説によって根拠
づけられている。
 国際社会に自国の安全を任せるとは、「日本国憲法」は度はずれた人類性善
説に立っているものである。ただし、人類の中に日本人は入っていない。「日
本国憲法」の世界では、日本人以外の人類は、とりわけ連合国の人々は性善な
る人々であるから、軍隊を持ち自前で防衛することが許されるし、また日本を
侵略したりしない。これに対して、日本人は、過去に侵略戦争を引き起こした
性悪なる存在であるから、武装が許されない存在なのである。

    (5)公民教育が植え付けた侵略戦争という原罪意識
 実際、昭和20年代の公民教育は、日本人に侵略戦争をしたという原罪意識
を植え付け、その原罪意識によって戦争放棄を合理化するという論理を使って
いる。例えば、中教出版の昭和27~31年度版の中学校公民は、「世界に対する
罪」という小見出しの下、戦争放棄を次のように説明していた。
「われわれが永久に武器を捨てる決心をしたのは、何よりもまず第一に、軍国
主義と戦争の禍を身にしみて体験したからである。日本軍は、アジアの国々の
兵士ばかりか、多くの民衆の生命をうばい、国土を荒し、文化財をこわした。
そのために、東亜の各国はいまでも侵略の災害を回復するために、苦しんでい
る。軍国日本は、世界の民衆に対して大きな罪を犯した。この罪をつぐなうた
めには、過去の侵略主義を捨て、平和のためにできるだけの手伝いをしなくて
はならない。将来ぜったいに再び侵略によって諸国の民衆に災いを及ぼさない
ためには、さっぱりと永久にわれわれの手から武器を捨てるのがよい。これが
日本の戦争放棄の一つの理由である」(下巻)
 上の説明を見ると、「日本国憲法」の世界では、日本国は、通常の国家より
も道徳的に下位である「下層国」または「侵略国」として位置づけられている
ことが、よく分かる。また、なぜ、細川護煕首相が1993(平成5)年8月
の記者会見で侵略戦争発言をしてしまったのか、よく分かる。さらに、宮沢内
閣の河野洋平官房長官が、「従軍慰安婦」問題において、日本の官憲による
「強制連行」が存在しないらしいとわかっても、同年8月4日の談話で「強制
連行」を事実上認めてしまったのも、少しは理解できる気がする。
 細川は昭和13年1月生まれ、河野は12年1月生まれで昭和20年代に戦
後教育を受けている。強烈に原罪意識を植え付けられた世代である。河野が韓
国政府に押し負けて「強制連行」を認めてしまったのは、青少年期に原罪意識
を植え付けられ、特に中国韓国との関係で日本国を「下層国」と意識して、日
本の立場を主張できないからではないだろうか。
 しかし、それにしても、戦後50年間以上も、日本国を「侵略国」または
「下層国」として位置づけ続けるためには、相当に極端な物語が必要になる。
それが、日本国は、ユダヤ人を虐殺したドイツと同様の「犯罪国家」でありな
がら、十分に謝罪と反省をおこなったドイツと異なり、謝罪と反省が足りない
という物語である。この物語を説得力あるものにするのは、どうしても、20
万人または30万人以上の南京市民を次々と虐殺したとする「南京大虐殺」の
物語が必要となる。もちろん、「南京大虐殺」だけではユダヤ人虐殺に及ばな
いから、第九条②を信奉する勢力は、「従軍慰安婦」問題などの日本軍の「悪
行」をさまざまに掘り起こしたり、デッチ上げたりすることになる。
 それゆえ、東中野修道や北村稔の研究などにより、いかに「南京大虐殺」が
デッチアゲだということが証明されようとも、「日本国憲法」の世界では、
「南京大虐殺」は存在しなければならない。「日本国憲法」の世界では、「南
京小虐殺」や「南京中虐殺」であってはならず、「南京大虐殺」が必要なので
ある。また、秦郁彦らの研究により、いかに「従軍慰安婦」の強制連行が否定
されようと、強制連行は存在し続けなければならない。そして、いかにアジア
解放戦争の面が指摘されようとも、その側面は無視されなければならないこと
になるのである。
 つまり、第九条②や前文を信奉している限り、これらを正当化するために、
日本国は永遠に、謝罪の足りない「侵略国家」または「犯罪国家」の役どころ
を演じ続けなければならない。別の言葉で言えば、いわゆる自虐史観を生み出
す根源として、第九条②や前文が存在するのである。こうして、第九条②や前
文が自虐史観を生み出し、自虐史観が第九条②や前文への信仰を生み出すとい
う悪循環が存在することに注目されたい。
 だが、「日本国憲法」が規定する安全保障策の害毒は、上のことに尽きるも
のではない。「日本国憲法」を成立させた第90帝国議会において、美濃部達
吉と並ぶ憲法学者であった佐々木惣一は、第九条全体に反対しているが、日本
国民に与える第九条の思想的精神的影響について次のように危惧を述べてい
る。
「国民は何だか自分は、国を為す人間として、自主的でない、何か独立性を失
ったような、従って朗らかでない、…日本の国民は果たして、少しも卑屈のよ
うな気持ちを持つことがないという風に安心出来るものでありましょうか」
(清水伸『日本国憲法審議録』第二巻、原書房、1976年)。

    (6)自己決定できない国家をつくる「日本国憲法」
 現実に、戦後日本人の精神に起きた変化は、「卑屈」の二文字で表されるよ
うなものだった。佐々木の危惧どおり、戦後の日本人はきわめて卑屈な国民と
なってしまった。この国民的基盤の上に、気概のない、国家とは何かについて
知らない指導者が誕生する。1970年代まではいまだ戦前の教育を受けた人
物が国の指導者であったから、何とか事なきを得てきた。
 だが、1980年代以降、国家とは何かということについて教えない戦後教
育で育てられた指導層が増加していき、1990年代には、首相さえも戦後教
育で育った世代となる。それにつれ、教科書問題やシン陽事件、靖国参拝問題
に見られるように、通常の国家では信じられないような事態が発生するのであ
る。
 以上、国際社会に安全を委ねること、戦力放棄、日本人性悪説、「下層国」
または「侵略国」としての日本、卑屈な国民の形成と並べてくると、「日本国
憲法」は大きなこと、重要なことについては日本国に自己決定させまいとして
いるようである。他にも、自己決定できない国家に作り変えるための仕掛けが
いろいろ施されているが、ともかく、重要なことはすべて連合国が済ませるか
ら、日本国は通常の国政だけを行えばよいという考え方なのである。(入力者
独白:う~む…、日本人の国連信仰はこの辺に原因があるのかなあ…?)それ
ゆえ、「日本国憲法」の思想が国民に広がれば広がるほど、日本国は、自分の
意志を持たない、自己決定できない、思考停止してしまう国家になっていかざ
るを得ないだろう。
 実際に、戦後57年間、とりわけ1980年代以降に日本国に生じたこと
は、上の通りのことであった。例えば、米国などの多国籍軍イラクとの間に
戦われた、1991年の湾岸戦争の時には、日本国は、イラクと米国の間に割
って入ることはもちろんのこと、戦争に反対することも、多国籍軍に積極的に
参加することもできなかった。このときの政府と国会の右往左往振りは、記憶
に新しいところである。湾岸戦争に対する自国の意見も政策も、日本国は持て
なかったのである。
 湾岸戦争の件はまだ対外関係の問題であるが、純然たる内政問題に関して
も、日本国は自己の意志を持てず、自己決定できなくなっていく。例えば、1
982年の教科書誤報事件の時には、教科書検定は完全な内政問題であるにも
かかわらず、中国と韓国のご機嫌伺いに終始し、挙げ句の果てには、近隣諸国
条項を教科書検定基準に付け加えてしまうのである。以後、20年間、日本国
は、中国と韓国によって、教科書問題について内政干渉され続けている。
以上を要するに、

日本国憲法の内容が、自虐史観東京裁判史観)の再生産装置の役割を果たしている。