戦後日本の「拘束具」としての日本国憲法(4)

   (7)「人類普遍の原理」への盲信は卑屈な日本国民をつくる
 ここまでは、第九条や前文第二段を中心に、「日本国憲法」の害毒について
記してきた。だが、一番問題なのは、「人類普遍の原理」という視点からのみ、
「日本国憲法」の諸原理が位置づけられていることである。そもそも、
「人類普遍の原理」という言い方が異例である。確かに、諸外国の憲法前文に
は、自由や人権、民主主義といった言葉は並んでいる。だが、「人類普遍の原
理」という言葉は登場しない。同じような言葉は、筆者の知る限り、ブルガリ
ア共和国憲法(1991年)で、「全人類的な価値である自由、平和、人道主
義、平等…」という形で登場しているだけである。
 今回、中山太郎編『世界は「憲法前文」をどう作っているか』(TBSブリタニ
カ、2001年)によって、多数の国の憲法前文を詠んでみた。すると、いかに「日
本国憲法」前文が異例なものか、改めて知ることができた。多数の国の憲法前
文は、「日本国憲法」のように「人類普遍の原理」という視点からではなく、
国民的宗教の神仏から、あるいは自国の歴史から、憲法の諸原理を基礎づけて
いる。
 例えば、スイス連邦憲法(1999年)は、「全能の神の名において!スイ
ス国民と邦は、秘造物に対する責任において、自由および平和とを強化するた
めに…以下の憲法を制定する」としている。
 いろいろな憲法前文を詠んでみると、「神」があまりにも多くの国家の憲法
前文で登場していることに、びっくりした。スイス以外にも、ヨーロッパで
は、ドイツとポーランドアイルランドなどが、アフリカではチュニジアやリ
ベリア、南北アメリカではカナダ、アルゼンチン、ブラジル、ホンジュラスな
どが、アジアではフィリピン、インドネシアクウェートなどが「神」を憲法
前文に登場させてる。これらの前文は、ほとんどの場合、神の権威によって、
もろもろの憲法原理を根拠づけているのである。
 米国憲法前文には「神」は登場しないが、前文的な位置にある独立宣言には
「造物主」すなわち神が登場し、人民の諸権利も主権も、神の存在によって基
礎づけられている。
 憲法前文で神を登場させない国の多数は、自国または自民族の歴史から、も
ろもろの原理を基礎づけている。例えば、大韓民国憲法(1987年)は、前
文を「悠久なる歴史と伝統に輝くわが大韓民国は、3・1運動に基づいて建立
された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承
し」という形で始めている。
 中華人民共和国憲法(1982年、1999年改正)も、「中国は、世界で
最も古い歴史を持つ国家の一つである。中国の各民族人民は、輝かしい文化を
共同で作り上げており、栄えある革命的伝統を持っている」という風に前文を
始めている。歴史的観点から前文を叙述する国家はアジアに多く、他には、ト
ルコ、ベトナムカンボジアなどがある。ヨーロッパでも、リトアニアとクロ
アチアは、民族の歴史から憲法を基礎づけている。
 つまり、世界各国は、「人類普遍の原理」よりも、宗教や歴史に基づく自国
固有の原理を上位に位置づけているのである。また、世界各国の例と照らし合
わせてみれば、「日本国憲法」によって、日本国が歴史を奪われ、神仏を奪わ
れたことは一目瞭然である。
 ちなみに、1954年の中華人民共和国憲法は、共産主義国憲法らしく、
中国の歴史から前文を説きおこすことはしないし、神仏も登場させない。共産
主義から抜け出していく中で、1982年以降の憲法前文は、中国の歴史を誇
るようになっていることに注目されたい。逆に言うと、歴史も神仏も否定した
「日本国憲法」は、その究極の精神において、共産主義憲法と非常に似てい
ることに留意すべきだろう。
 「人類普遍の原理」という視点しかなければ、他国と対立したときに、なか
なか論理的に勝利できないことになる。日本国の方は「人類普遍の原理」とい
う規範に絶対的に拘束されるのに対して、他国の方は自国固有の規範を上位に
位置づけており、それほど「人類普遍の原理」に拘束されないからである。
 特に、「人類普遍の原理」をかざした覇権国との間で摩擦が生じ、日本の特
殊性が攻撃されたときに反撃するだけの理論が生み出されない。今日、米国が
振りかざすグローバリズムなるものに日本の政治も社会もまったく抵抗できな
いのは、「人類普遍の原理」という視点しか存在しない「日本国憲法」を信奉
している限り、当然すぎることなのである。諸外国に対する日本国民、日本国
家の卑屈さとは、第九条以上に「人類普遍の原理」に対する盲信に由来するも
のなのである。
 「人類普遍の原理」は、一神教・この場合キリスト教の発想であろう。つま
り、欧米(白人)中心の「世界史」観の産物である。非キリスト教徒の多い日
本人を、卑屈にしない訳がない。
    (8)神仏と歴史に根拠を置かない国民主権全体主義に道を開く
 「人類普遍の原理」とともに、思想的に大きな害毒を流しているのは、国民
主権の思想である。日本の憲法学者は、簡単に、国民主権は「人類普遍の原
理」であると言い、何の疑問も感じないようである。だが、国民主権は「人類
普遍の原理」ではない。
 今回、世界各国の憲法前文をみて驚いたことに、憲法前文で「国民主権」や
「人民主権」の言葉を用いているのは、国民主権または人民主権の祖国である
フランスなど一部の国家だけである。
 フランス第五共和国憲法(1958年)は、「フランス人民は、1789年
の権利宣言により定められ、1946年憲法の前文により確認され補完された
人の権利と国民主権の原理への愛着を厳粛に宣言する」というふうに前文を始
めている。ここでは、「人類普遍の原理」という発想よりは、むしろフランス
の歴史に基づき憲法を基礎づけようという歴史的観点の方が強く見て取れる。
それゆえ、「人類普遍の原理」という言葉と「国民主権」という言葉を用いて
いる「日本国憲法」前文は、世界で唯一の、きわめて特異なものであることに
注意されたい。
 国民主権または人民主権の思想は、暴民を生み出して国家を混乱に陥れる
か、極めて専制的・抑圧的な体制を生み出す傾向が強いことは歴史的事実であ
る。国民主権または人民主権の祖国であるフランスは、フランス革命後百年間
も政治的に不安定な状態を続けた。また、国民主権または人民主権の思想こそ
が、ソ連型政治体制やナチスなどの全体主義的民主主義を生み出した。さら
に、ラテンアメリカ諸国は、国民主権または人民主権を標榜し、近代国家を目
指し始めて二百年間に及ぶが、混乱と独裁体制を繰り返してきた。この傾向
は、いまだに続いている。
 このような国民主権の思想の危うさに歯止めをかけるものは何だろうか。そ
れは、欧米では神であり、アジアでは民族の歴史である。前述のように、ほと
んどの国家は、憲法前文で神を登場させるか、民族または国家の歴史にふれて
いるけれども、国民主権または人民主権などという言葉は用いていない。つま
り、諸外国では、神または歴史が、国民より上位の存在として位置づけられて
いる。
 民主主義が進んでいるとされる欧米の例で言えば、伊藤哲夫憲法かく論ず
べし』(日本政策研究センター・高木書房、2000年)らも言うように、国民の諸
権利も、そして国民の主権も、神に与えられたものである。それゆえ、日本語
の「権利」に対応する、ドイツ語のRechitや英語のRightとは、「理」に制限さ
れた自己主張し得る範囲のことを指す。国民主権なるものも、同様に、「理」
に制限されたものとならざるを得ない。
 ところが、「日本国憲法」は、かつての共産主義国と同じく、神仏も歴史も
否定した。そして、神仏に裏打ちされないまま、権利尊重と国民主権をうたっ
ている。日本語の「権利」とは、「利」という漢字のせいもあろうが、神と切
り離されているため、きわめて功利主義的な意味合いが強い。その結果、戦後
日本では、どのような欲望であれ、個々人のあらゆる欲望を満たすことが権利
であるとみなされる傾向があり、「権利」は無制限の自己主張に結びついてい
く。したがって、「日本国憲法」の思想が広がるにつれ、国民個々人の道徳意
識は著しく低下していったのである。
 このように「日本国憲法」の下では、国民のモラルが、低下していくことを
余儀なくされていることに留意されたい。したがって、国民主権の品質ともい
うべきものが、論理必然的に低下していかざるを得ず、国民主権が暴走して暴
民を生み出す可能性が高くなるのである。しかも、神仏も歴史も否定されてい
るから、「日本国憲法」の下では、品質の低い国民主権の上位に立って、その
暴走に歯止めをかけるものが理論的に存在しない。これは、共産主義国では人
民主権の上位に立って、その暴走に歯止めをかけるものが存在せず、全体主義
を生み出してしまうのと同じである。
 つまり、「日本国憲法」の唱える国民主権と人権尊重主義は、全体主義的な
民主主義を生み出す傾向のあるものなのである。

    (9)来るべき新しい憲法を
 そろそろ、日本国民は、「日本国憲法」の三大原則とされる
平和主義、
国民主権主義、
基本的人権尊重主義
のすべてが、極めて問題をはらみ、大きな害毒をもったものだということに気
づくべきである。「日本国憲法」の思想で教育された人々が、1980年代以
降に各界の指導層になった時、この害毒は日本社会の全域に浸透していくこと
となった。「従軍慰安婦」問題も、歴史教科書問題も、シン陽事件や日本人拉
致事件も、ここ十年以上にわたるモラルの衰退も、すべてこの害毒が浸透した
結果発生したものであると考えられよう。
 結局、「日本国憲法」とは、GHQがつくった占領憲法であり、自己決定で
きない国家に日本国を作り替えようとしたものである。つまり、成立過程の面
でも、内容の面でも、保護国基本法ともいうべきものである。それゆえ、独
立国の憲法としては、いわば「人類普遍の原理」にも反する無効憲法なのであ
る。
 このような無効憲法の基本的性格を理解せずに、「日本国憲法の表面的な
不備を部分修正する形で、来るべき新しい憲法を作ってはならない」と強く
主張しておきたい。「日本国憲法」制定の主目的は、占領政策の推進にあった。
独立国としての日本に与える害毒は、「憲法改正」程度ではとうていぬぐい
去ることができないことを理解しておくべきである。

 ※なお、憲法無効論およびその系統の著書は相当数あるが、入手可能なもの
としては、拙著以外に、菅原裕『日本国憲法失効論』(復刻版、国際倫理調査
会、2002年)、小森義峯『正統憲法復原改正への道標』(国書刊行会、2
000年)、相原良一『憲法正統論』(展転社、1996年)、南出喜久治
『日本国家構造論―自立再生への道』(政界出版社、1993年)がある。

 以上を、ここでは「小山論文」と呼びたい。2002年までの事件や世相と
現・憲法の問題点との関係を論じたもので、当時の私には納得できるものだっ
た。しかし、その後は憲法について調べていない。諸賢の異論・反論・同意な
どあれば、ここで話題として憲法についての理解を深めたい。

 なお、小山論文の最後のパラグラフは、著者の文意に沿うように、入力者が
意図的に表現を変えた。原文では、次の一文で終わっている。
「このような無効憲法の改正法として、来るべき新しい憲法をつくるべきで
はないと強く主張しておきたい。」