神風特攻(2)

 特攻が外国人から評価されるのは何ゆえか
神風特攻にまつわる思い出をもう一つ。十五年も前のこと、アメリカのバークレー大学で早朝の散歩をしていたら、柔道着をきた黒人の青年が話しかけてきて、
「昨夜の“ミッドウェイ”というテレビ番組を見たか。あの神風特攻隊は感動的だったなあ。日本人の勇気を俺たち黒人も学ばなければならない」という。実は、その映画で撃ち落とされていたおびただしい数の日本の飛行機は特攻隊ではなかったのだ。しかしその青年には敵艦上空で撃墜される日本の飛行機、それがかのカミカゼだ、という固定観念ができあがっていたのであろう。

 軍国主義を煽りたいのでもないし英雄主義に浸りたいのでもない。ただ、欧米人の方が、いやおそらくはイラク人やイラン人もが、最初から命を捨ててかかる形での戦闘方式を、戦後日本人よりもはるかに素朴に感激をもって迎え入れているという事実を指摘しておきたいのである。長い間、生還することを最初から断念している特攻式の戦闘を欧米人は不合理きわまると気味悪がっている、といわれてきた。実際、そのように述べた欧米の戦争指揮官も少なくなかったようである。
 しかし、愛憎の併存するのが人間の感情というもので、自決と戦闘とを一体化させるものとしての特攻は外国人から存外に評価されてきもしたのである。それを評価することを知らないような平板な感情が特攻の母国である日本において最も目立っているのは歴史の皮肉といってよいだろう。

特攻が外国人から評価されるのは何ゆえであるか。それは、特攻が「純粋に大義のための、負けを覚悟の戦闘、つまり自己犠牲的な自決」であるからだ。

キリスト教は、パウロが禁令を発して以来、自決は神から授かった人間の命を冒涜するものだとみなしているようであるが、どうしてそんな禁令が必要だったかというと、殉教としての自決が相次いだからにほかならない。つまり、大義のための自己犠牲として自決を選ぶというのは(戦前の)日本人にのみ特有のことではないのである。
 これはローマのことであるが、シーザーの帝政に抗議して行った共和主義者カトーの自決は、まさにハラキリだったのであって、自分の内蔵をつかみ出しつつ悶絶したその最期は武士道の見本だといいたくなるくらいのものだ。
 もちろん、大義を偽造したり自己犠牲を偽装したりする連中が跡を絶たないのも人間社会ではある。だから自決にも様々な種類があるのであり、自己犠牲的のもののほかに、例えば自分を目立たせる自己愛にかられてのものや、生きていることの苦痛から逃避するための自己防衛に発するものなどがある。というより、様々な動機が複合しているというのがあらゆる自決の真相なのであろう。しかしともかく、「重い大義のための高い自己犠牲」という動機が自決というものに揺るぎない品位を与えることは確かだといってよい。

神風特攻にはそのような品位があったと思われているために、外国人たちは、たとえ公式にはそれを非合理な死だと非難していたとしても、その意義を認めずにはおれないのである。

それもそのはず、合理のよって立つ地盤(合理的推論のための前提)にも合理の飛ぶ立っていく天空(合理的結論の向かう方向)にも、大義だ犠牲だといった類の非合理が充満しているのであってみれば、ある種の非合理はむしろ合理のまとうきらびな衣装となりうるのである。

   (引用・さらに続)