神風特攻(3)

 特攻について何事かを思う精神の力量
 外国人がこぞって神風特攻の意義を肯定しているというのではない。また大東亜戦争なり太平洋戦争なりに付された大義がどこまで真正のものであったかについても議論のあるところである。私のいいたいのは、

日本のナショナル・アイデンティテイ(国民性)は何かということについて、戦後日本人よりも外国人の方がどうやら敏感だ

ということである。なぜといって、あのときあのような特攻をなしえたのは、たしかに、日本人の国民性に由来するものといってよく、そしてどうやらその特攻により強い関心を寄せているのは外国人の方のようだからである。
 何歩も譲って、あの戦争において日本に大義はなかったとしよう。しかし否定すべくもないのは、日本に大義があると信じた(あるいは信じようと努めた)青年たちが当時の日本に少なくなくいたという事実である。それらを彼らの蒙昧だと嘲笑することも不可能ではないのだが、

そうしうるのは、立派な大義を身につけているものにかぎられる。

またお仕着せの大義を安易に信じてしまったものの軽率を批判するのも結構だが、

そのためには、大義を探索する努力を自分がなしつづけているのでなければならない。

大義なんぞありはしないのさ、そう構えるのが戦後日本人の習性であり、そんな低き態度に墜ちた人種には神風特攻のことについて何事かを思う精神の力量が残っているわけがない。

私は幾度となく想像してみたことがある。もし自分が特攻機に乗っていたとしたら、最後に敵艦に突入するとき、「お母さん」と叫ぶのかそれとも「日本万歳」と唱えるのかということについて。
 どう想像してみても、私が母や恋人のことを自決の間際に思い浮かべるはずはない。なぜなら、それは戦争という国家の事業における自発的な(特攻は少なくとも建て前としては志願者にのみ許された行為である)死の選択なのであり、

そこで私人としての生活の思い出にこだわるようでは、そもそも特攻に志願する資格がない

のである。
 その場の雰囲気にかられて心ならずも特攻を志願してしまうということもないわけではなかったではあろう。しかしそうならばなおさら、そうした不甲斐ない自分を叱咤すべく、公人のためのものとしての大義を確認したいと念じるであろう。

結局、日本万歳という虚構の物語に身をあずける以外に、大義のための自己犠牲的な自決を演じきる途はないのではないか。

―中略―
?H4>歴史の否定者にほかならないアプレゲール(戦後派)が絶頂の高みに達し、次に没落が待ち構えているのではないかと脅えている、それがこの世紀末日本の光景である。 これもまた、空中からの墜落という意味では、神風特攻の振る舞いと似ていなくもない。異なるのは、
万歳を唱える公的対象が私たちには何もない
という一点である。                            (1994年1月号)

 
 以上、引用、終わり。
 私は、西部氏の評論をそうたくさん読んだわけではない。彼の言わんとする内容には異論はないのだが、いかにもインテリ風の持って回った言い回し・語り口にウンザリすることも多い。
その中で、これは印象に残った一文だった。