戦後知識人の毛沢東像

樋泉克夫のコラム
出典:http://www.melma.com/backnumber_45206_4413181/

 ――やはり君たちの目も節穴でしかなかった、ということだ
    『中國の顔』(野間・亀井ほか 社会思想研究会出版部 昭和35年
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 昭和35年5月30日、野間宏亀井勝一郎松岡洋子、竹内実、開高建、大江健三郎、白土吾夫の7人からなる日本文学代表団は「インド国際航空機に登場して、ネオン瞬く東京から香港へと飛び立った。
 日本の安保反対運動、南朝鮮の李承晩政権打倒、トルコのメンデレス政権反対デモ、アフリカの民族独立運動キューバの反米闘争、ラテン・アメリカの民族独立運動、米U2型機の対ソ・スパイ飛行、東西首脳会談の決裂等々、うずまく世界の潮の中をスーパー・コンステレーション機が進む」。激動する国際情勢の中での訪中。「ネオン瞬く東京」などというレトロな表現に、却って一行の高揚した気分が感じられる。

この頃の作家は,日本社会のエリートでしたからねえ・・。彼らを呼んでお先棒を担がせれば,いいCMになった訳です。好い所だけを案内して,好い事だけを報告させる。彼らの「売り上げ」も,増したことでしょう。

 以後、6月6日の「(香港より)英国海外航空機で東京着」までの40日弱。彼らは北京、上海、蘇州、広州などを回り、各地で「中国の人民、労働者、農民、学者、文学者、政治の中心にある方々すべての人々から心のこもった歓迎を受け、日本の安保反対のたたかいにたいする大きな支持を得ることが出来た」。
 だが招待したのは中国人民対外文化協会に中国作家協会だ。中国側の政治的意図は明白。所詮、代表団は猿回しの猿にすぎなかった。

 6月21日は旅行のハイライトともいえる毛沢東との会見である。
緊張する一行を前に、毛は「日本のような偉大な民族が長期にわたって外国人の支配をうけるとは考えられない。日本の独立と自由は大いに希望がある。勝利は一歩一歩とえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである」と檄を飛ばす。

 かくて7月1日の送別宴は、「日本人民の安保反対闘争、ハガチーの来日、アイゼンハワーの訪日中止、岸の退陣声明など、激変する日本の政局、世界の動きの中で、ささやかではあったが、日本文学代表団のはたした役割は永久に日中文化交流史の数ページを飾るであろう。再見、再見と繰りかえし握手をかわし、いつまでも去りがたい」ものだった・・・そうだ。

 だが日本では、6月15日に全学連主流派が国会突入の挙句に女子東大生が死亡し、18日には安保条約は国会で自然承認されていた。
 つまり一行の政治的原則に立つなら、明らかに安保闘争は敗北であり、「再見、再見と繰りかえし握手をかわし、いつまでも去りがたい宴」などという甘酸っぱい子供じみた感傷に浸っていられる情況ではなかっただろうに。

 「中国革命が成立してから十年、私はちょうどいい時に中国へ来たと思った」という亀井は、毛沢東のような人物は再びあらわれないだろう」と感歎の声を挙げる。
 松岡は「根の深かった外国勢力の支配、戦争、内戦、腐敗、甚だしい貧困、飢饉という絶望的にみえた悪循環をよくもこう短期間に打ち切ったものだ」と深く感心し、団員中最も若かった25歳の大江は
「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。・・・ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。・・・一人の農民にとって日本で住むより中国で住むことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と中国を讃える。
中国側の政治的狙いはドンピシャだ。

 だが、毛沢東が推し進めた大躍進という人災によって当時の中国、殊に農村部は絶望的な飢餓地獄に陥っていた。
 とてもじゃないが
「一人の農民にとって日本で住むより中国で住むことがずっと幸福だ」などと口が裂けてもいえなかったはず。
やはり日本文学代表団の目は節穴だらけ。
アゴ・アシ付の超豪華・無責任ツアーだ。
人騒がせな話である。
QED
 この記事について
(読者の声1)貴誌2524号に書評のあった、日本文学代表団の訪中について。
 感想です。
 共産国家による西側のマスコミ文化人招待作戦はソ連で始まっています。
戦前バーナードショーなど著名な文化人がソ連に招待され大歓迎を受け、帰国してスターリンを褒め称えました。その裏で恐怖の強制収容所や大虐殺が進行していました。
 招待客にはKGBの若い美女があてがわれ夜も接待をしたといわれています。唯一良心的なアンドレ・ジッドだけが、迎賓館の窓から内部で行われている豪華な宴会を覗き込む飢えた子供たちを見て、帰国後「ソビエト紀行」を発表し地上の天国といわれたソ連が話とは違う、ことを指摘しました。
 これに対してソ連の影響下に入っていた仏の文壇は彼を大々的に非難しました。しかし結果はご存知の通りジッドが正しかったことを歴史が証明しました。
 日本文学代表団にはジッドはいなかったようです。   (MC生)

宮崎正弘のコメント)あの訪中団のなかで、意外なのが亀井勝一郎。浪漫派の面影ナシですか、あれでは。竹内実は、その後、おおきく揺れました。開口健は素晴らしく良くなりますが、それはベトナム戦争を現場に見て、小田実らニセ文化人の「ベ平連」運動と決別してからです。ほかの人たち? 救いようがないですね。

(読者の声1)貴誌2524号及び2525号に載つて居た、樋泉克夫氏の文学者の中国訪問に関する文章を拝読して、改めてソ連や中国、さらには共産主義と訣別した新しい戦後文学史が書かれることが必要だと痛感させられました。
 訪中団に名前のあつた開高健の全集を、先日手ごろな値段で入手しましたが、樋泉氏が書かれた、まさしくその中国訪問記を開高は岩波書店の『世界』に連載して居たのでした。
日米安保反対、毛沢東賛美…。後年の酒や釣りを愛した人生の達人といつた開高の面影など全く見られず、凡庸な進歩的文化人の駄文でしかありませんでした。
 全集について居た月報も、進歩派や左翼に寄り添つて居た時期の開高に違和感を表明した文章に読むべきものが多く、生涯の親友だつた谷沢永一氏が「最近、(左翼や進歩派の連中と)つきあひのええこつちやな」と揶揄したとのエピソードは実に痛烈でした。宮崎先生が指摘された通り、べ平連の知識人と距離を置いたことは、開高には良かつたのでせうが、彼はしなくていい回り道を歩んでしまつた観もあります。
 死んだ開高には失礼ですが、この人は文庫本で読めばいい人だと見切つてしまひ、全集は買ひ値より若干高い金額で売つてしまひました。
 やはり訪中団に居た野間宏の完全版全集が出ないのも、彼が一時期、日本共産党の方針に忠実な作品を書いたことがあるでせう。また、先頃新潮社の安部公房全集がやうやく完結しましたが、若い頃はソ連を「ソ同盟」などと書いて居て、あ然とさせられました。しかしその安部は東ヨーロッパを訪れて、ソ連の圧政や暴虐を自分の眼で見て、日本共産党への批判を始めたのでした。三島由紀夫同様、国際的評価の高い文学者ですが、彼が左翼だつたこともあつて、これまで食はず嫌ひで無視してきました。
 これからは、ソ連共産主義の悪を自発的に告発した彼の文章を、改めて読み返してみる必要があると感じてをります。
 その野間も安部も、日本共産党を除名された文学者です。
彼等はその後それぞれの道を歩んでいきましたが、彼等も含めて、特に戦後の文学者が中国やソ連共産主義について肯定的に書いた仕事が、後世に何の利益ももたらさないのは、本当に虚しいといふ他ありません。西尾幹二氏が先年出された三島由紀夫論で、三島が亡くなつた時、いい文章を書いて居たのは桶谷秀昭澁澤龍彦といつた、むしろ左派の人たちだつたといふ趣旨のことを書かれて居ました。
 思へば、桶谷氏は兄貴分の村上一郎とともに、新日本文学会といふ共産党系の文学団体に所属し、そこから脱退した経歴をお持ちです。さういつた従来の戦後文学の歴史の中で傍系、非主流の立場にあつた人たちの仕事にこそ、今も光るものがあります。
 知識人のソ連や中国、日本共産党との関はりを見るとき、さらには六〇年安保闘争を反米運動、実現しなかつた本土決戦の代替運動と見るとき、また違う戦後の文学史や精神史が見えてくるでせう。        (KN生、草加市

宮崎正弘のコメント)開高健さん、ですか。一度、新宿二丁目にあった「チャオ」という文壇スナックで隣り合わせたことがありました。
 「しなくて良い回り道」と比喩されたけど、開高にとっては、それが彼の宿命だった。年上の女房殿はバリバリの共産党。彼の後半の人生は海外ばかり。要するに元共産党員の夫人から逃げる旅でもあったのだろう、と小生は推定しているのです。『輝ける闇』は最高傑作。遺作となった『珠玉』は無惨ですが。。。。。。

で・・,これが今の中国。
 「中共,空前の危機。3千県の公安局長を北京に召集」
  http://jp.epochtimes.com/jp/2009/03/print/prt_d43564.html
 「中国での集団事件」
  http://jp.epochtimes.com/jp/spcl_qtsj.html
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php