東京裁判とニュルンベルク裁判(2)

 更に東京裁判ではニュルンベルク裁判と同様、「平和に対する罪」が訴因とされました。これは侵略戦争を罪とするものですが、このような罪はニュルンベルク裁判以前は存在しませんでしたので、大東亜戦争以前の日本の戦争でこの罪を訴因とするのは「事後法は適用出来ない」という近代法の大原則「法の不遡及の原則」に反するので無効となります。

 いや既にパリ不戦条約で侵略戦争は禁止されていたという意見もありますが、百歩譲ってそうだとしてもパリ条約では侵略戦争の罪に対応する刑罰が設定されていないのですから、東京裁判において侵略戦争の罪で刑罰を科すのは近代法の大原則である「罪刑法定主義」に反するのでやはり無効でしょう。
 こんな暴挙がもし許されるのならば、アメリカインディアンの人々はアメリカの白人移民を侵略の罪で訴えても良いということになり、アジアやアフリカやオセアニアの原住民の人々も西洋列強諸国を侵略の罪で訴えても良いし、シベリアの諸部族の人々もロシア人を侵略の罪で訴えても良いということになります。
彼ら戦勝国もまた、「侵略によって罰を受けるという規定が無かった時代の出来事では訴追されない」という「法の不遡及の原則」や「罪刑法定主義」によって守られているという点では日本と同等であったはずなのですから。
もし日本が侵略者として罰されるべきだというのなら、彼ら欧米諸国こそ、遥かに悪質で明確なる侵略者として処罰されるべき存在でした。
 また、仮に戦勝国近代法の原則や自らの暗い過去の犯罪事実などは無視して恥知らずに日本を「平和に対する罪」を訴因として訴えたことを有効だとしても、日本の戦争が侵略戦争だとばかりは言えないでしょう。東京裁判で裁かれる対象とされたのは満州事変以降、大東亜戦争終結までの期間ですが、この間の戦争の中で明らかに1937年の日支事変は当時日本とシナの間で正式に結ばれた国際条約で保障されていたシナ国内における日本の正当な権益に対してシナ軍が先制攻撃を仕掛けたことによって始まっているので日本の侵略戦争ではありません。
 これは喩えて言えば、在日米軍基地に自衛隊がいきなりミサイルを撃ち込むようなもので、これでアメリカが怒って日本を攻撃してもそれはアメリカによる侵略戦争にはならないでしょう。まぁ在日米軍基地の存在自体が日本に対する侵略だという考え方もあるでしょうし、そういう考え方にも一理はあるでしょう。しかし、それでも国際法上は条約で決まっていることが優先されるのであり、決して日本側の条約違反行為が正当化されることはありません。これが日本による侵略行為にあたるかどうかは微妙ですが、少なくともこれがアメリカによる侵略戦争と見なされることはありません。日支事変における日本とシナの関係も全く同じです。これが日本による侵略戦争と見なされることは絶対にないのが国際的には常識のはずです。ただ、シナ軍の攻撃を撃退した後、退却するシナ軍を追って戦線を拡大したのは日本政府の過剰防衛だったとは思いますので、まぁお互い様というところでしょう。

 1931年の満州事変にしても最初に満州における国際協約で認められた日本の正当な権益がシナ側の約束違反によって暴力的に侵害されたことに端を発しており、これも一概に日本の侵略とは言えないでしょう。だいいち満州事変は既に日本とシナの間で停戦協定が結ばれており、今さら東京裁判侵略戦争だとして裁かれる謂れはありません。またソ連は何故か1939年のノモンハン事件を日本による侵略戦争として訴えましたが、これは満州国とモンゴルとの国境線を巡る紛争に日ソ両軍が加勢した事件で、満州国側にソ連軍が押しこんだ形で停戦協定が結ばれ、モンゴル側の主張する国境線のほうが確定して既に決着がついている問題で、どう見ても日本による侵略ではありません。これらは結局は1945年の終戦時に日ソ中立条約を違反してソ連軍が満州から北朝鮮(入力者・注:千島・樺太を含む)まで蹂躙した明らかな侵略行為を誤魔化すためにソ連が無理に持ち出してきた事案でした。

 そうした中で、確かに1941年の大東亜戦争の開戦に関しては日本による侵略行為であったことは事実です。いくら経済封鎖されていたからといって、軍事的に何ら攻撃されていたわけではないのですから、
いきなり真珠湾を攻撃し、
東南アジアの欧米植民地に侵攻したのは確かに日本による侵略でしょう。

(入力者・注:だから「いきなり」じゃないんだって。アメリカは蒋介石に経済・軍事援助しており,アメリカ国内法の中立義務違反だったし,すでに大統領が「真珠湾攻撃より前の夏に」日本爆撃を命令していた。)
http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/48844016.html

しかし裁判においては犯罪の動機や背景というものが解明されねばなりません。だからこの1941年の日本による侵略を犯罪として裁くというのならその背景を解明しなくてはいけなくなります。その大東亜戦争の開戦の背景はアメリカ主導の対日経済封鎖で日本が極度に圧迫されていたことです。そしてその経済封鎖は日支事変が日本による侵略戦争だということを前提として実施されました。しかし実際は日支事変はシナ側の侵略行為によって始まっています。
いや日支事変は日本も過剰防衛だったんじゃないかという意見もあるかもしれませんが、ならば大東亜戦争アメリカもまた過剰防衛であり、日支事変によって日本が侵略者となるというのなら、大東亜戦争の結果日本を占領して東京裁判を仕切っているアメリカ軍もまた同様に侵略者として裁かれねばなりません。そうでないというのなら過剰防衛は侵略ではないということですから、そうなると日本の侵略を裁くというのなら少なくともシナによる当時日本が正当なる条約によってシナにおいて保有していた権益に対する侵略行為を不問とするのは片手落ちではないかという批判が出てきます。
 シナによる侵略行為が問題視されるとなると罪が相殺されてしまうので日本を一方的に裁けなくなってしまいます。
日本が一方的に悪かったということにするのがこの裁判の目的ですから、そうなっては困るのです。だから事実など無視して何がなんでも日支事変も日本による侵略だとしなければいけなくなります。

3)「田中上奏文」と「平和に対する罪」
 そこで戦勝国は「日本は一貫してアジア侵略の意図を持っていた」ということを主張しました。状況証拠が足りない分を動機で補おうというわけです。日本による侵略意図が明白であった以上、シナ側がそれに過剰反応して軍事行動を先に起こしたとしても、それは侵略にはあたらないということです。やや苦しい言い訳ではありますが、本当に日本による侵略意図が明白であったのなら、シナ側にも同情の余地はあります。しかし日支事変の時点で日本がシナを侵略しようとしていたという明白な証拠など存在していませんでした。
 そこで戦勝国側は当時連合国側で流布していた田中上奏文という、日本による世界征服計画を記したという文書を持ち出して、日支事変の際に日本がシナを侵略しようとしていたのは明白であると主張しました。
田中上奏文というのは、1927年に当時の日本首相の田中義一昭和天皇に対して極秘に提出した上奏文とされており、その内容は日本による世界征服計画書で、「明治天皇は日本による世界征服を実現するためにまずシナ征服を企図し、その第一段階の台湾侵略、第二段階の朝鮮侵略まで成し遂げた。それに続く第三段階が満州侵略なのであり、満州を征服すれば次はシナを征服できる。明治天皇の遺訓を実現するためには現在(1927年)は第三段階の満州侵略を実行すべき時である」という現状認識のもと、満州侵略計画が詳細に記されているものとされていました。

 「されていました」ということは実際はそうではなかったということで、この田中上奏文は1928年あたりからシナにおいて出回るようになっていたのですが、そのオリジナルのものには日本による満州侵略計画の部分しかなく、その前段の世界征服云々の部分はありませんでした。と言っても、このオリジナルのものに関しても、実際には田中首相はそんな上奏などしておりませんし、この上奏文を作成したとされる1927年の会議(おそらく1927年の東方会議)に既に故人となっていた山縣有朋が参加しているなど虚偽内容がかなり多く、最初から反日宣伝用の偽書であったことは間違いありません。
 ただ満州領有計画がかなり詳細に記されていることや、その後1931年にこの計画に似たような経過で実際に満州事変が起きたことなども考え併せると、おそらく東方会議において決定された満州における強硬姿勢に基づいて、陸軍内の何らかのグループ(後に満州事変を起こしたグループに繋がりがあると推測される)で作成された満州における権益を守るために武力行使する場合の作戦計画試案が何らかの事情で流出し、それを基にシナ国民党宣伝部が首相から天皇への上奏文の形式に作り変えたものでしょう。