東京裁判とニュルンベルク裁判(5)

 ところが占領軍は、というよりアメリカ政府は、天皇東京裁判の被告とすることはおろか、証人として出廷させることも避け、いやそれどころか天皇の話題を出すことさえ極力避けようとする姑息な対応に終始したのでした。それは日本の占領統治に昭和天皇の存在が不可欠であったので、下手に天皇を法廷に出して天皇が罪に問われたり天皇制度が廃止されたりするようなことになったら困るからでした。
 だいたい天皇制度、すなわち国体の護持は日本政府との間の約束でしたから、その約束を守っている限りは日本政府も従順ですが、もし約束を破るようなことがあれば事態はどう転ぶか分からない状況でした。裏返せば、日本政府が従順に占領軍の方針を受け入れなければ天皇制度はどうなっても保証しないという状況でもあったわけで、日本政府とアメリカ政府の間にはお互い様の奇妙な共謀関係(但し圧倒的にアメリカ優位だが)が終戦時から成立していたといえます。
 つまり、これは日米間の微妙な政治的問題で、まぁしかし占領中の日本には主権がありませんから実質的にはアメリカ占領行政の内部政治的な事情と言っていいでしょう。まぁハッキリ言って「人類の法廷」という理想的かつ壮大な試みに比べれば、取るに足りない下らない問題だといえます。

 実際、ニュルンベルクアメリカと共に「人類の法廷」を運営してナチスの悪党共を一網打尽にしたソ連やイギリスなどは、当然のごとく東京裁判でも天皇を被告席に立たせて裁きを受けさせる気が満々でした。ところがアメリカは「人類の法廷」における正義の実現よりも日本占領の内部政治的事情のほうを優先させたのでした。当然でしょう。「人類の法廷」など紛い物に過ぎず、そこに正義など存在しないことはアメリカが一番承知していたことであり、そんな絵空事よりもまずは日本統治を円滑に進めることが優先されるのは当たり前のことでした。
 そもそもニュルンベルク裁判だってドイツ統治を円滑に進めるためにやった政治ショーに過ぎないのですから、東京裁判だって本当の目的は日本統治を円滑に進めるためです。その東京裁判天皇を被告などにして日本統治が困難になったりしたらそれこそ本末転倒というものです。しかしソ連やイギリスなど日本の統治に直接関わっていない連中は天皇の有用性など日本の微妙な事情が分かっていないので、天皇を裁くなどというワケの分からない世論に媚びたようなことを言うわけです。アメリカ政府はそう考えました。ソ連やイギリスなどを排除して日本を単独統治したのはアメリカの勝手なのですから、こんなものは勝手な言い分に過ぎないとも思いますが、確かにこの時点ではアメリカの対日認識のほうが現実的ではありました。
 そこでアメリカ政府は小五月蠅いソ連やイギリスの干渉を排除してアメリカの勝手な意思で東京裁判を運営して天皇起訴などという不測の事態が生じないようにするため、この裁判を日本駐在のアメリカ占領軍司令官マッカーサーの布告した極東国際軍事裁判所条例に基づいて行うということにしたのでした。

 ニュルンベルク裁判は米英仏ソの4カ国の政府の代表が締結したロンドン協定に付属していた条例に基づいて行われました。つまり一応は国際条約に基づいており、国際法にも基づいているということになります。それであの内容なのですから国際法が聞いて呆れてしまいますが、それでも一応形だけは「人類の法廷」の体裁は整えられていました。
 しかし東京裁判アメリカが天皇問題を裁判で扱いたくないがために他国を極力運営から排除する方針をとり、かといってアメリカ政府だけが単独で行動すれば文句が出るのは目に見えているので、政府ではなく占領軍当局が主体となって進める形式をとり、そのため裁判の根拠法もマッカーサー占領軍司令官の布告する条例としました。つまり
東京裁判国際法には基づいておらず、まさに占領軍によって行われる純粋なる「特別軍事法廷」となったのであり、占領軍政下でのみ有効な裁判となってしまったのでした。これがニュルンベルク裁判と東京裁判の致命的相違点その4です。
 ここにおいて東京裁判は「人類の法廷」でもなんでもなく、単なる「アメリカの法廷」、いや、それにすら達しない「GHQの法廷」に堕してしまったのです。もちろん本来裁かれるべきトルーマンの原爆犯罪を隠したこの裁判が裁判としては無価値であるのは言うまでもありませんが、この措置によって東京裁判は「復讐の政治ショー」としても最低のものとなりました。本来このショーにおいて最も復讐されるべき者であるはずの天皇を不問とするために政治的術策を弄して、そのために復讐すべき者であるアメリカ政府以外の他国の政府やアメリカも含む「人類」を排除したこのイベントは、もはや「人類の法廷」という名の「政治ショー」にも値せず、そこには現実的で陳腐な「政治」がだらしなく存在しているのみとなったのでした。

 こうして東京裁判は単なるGHQの占領行政の一つの手続きに過ぎなくなり、その判決には法律的な権威も政治ショーとしての説得力も無くなり、ただ淡々と退屈な与太話が繰り返される虚偽の支配する場となりました。それは、単にその場で虚言ばかりが繰り返されているという意味だけではなく、そこには本来いるべき者がおらず、本来裁かれるべき罪も裁かれず、空虚な偽物ばかりが存在していたという意味であります。

 存在していたのは政治的都合や野合、談合そのものと、生贄として連れてこられた被告たちですが、この被告たちからして占領が円滑に遂行されることを願って占領軍や自分を裏切った日本政府に対しても野合してしまって天皇や原爆を隠すことに暗黙の同意をしてしまっており、既に死を覚悟して達観してしまっていました。
 彼らが死刑に値するというのならそれでもいいでしょうが、ハッキリ言って冤罪もいいところなのですからもう少し戦う姿勢を見せなければいけません。しかし所詮は正論など通らない法廷だと、言わば最初からこの法廷は被告にすら舐められているわけで、被告までもが考えていることは政治ばかり。これでは馴れ合いのようなもので、裁判としての真剣味は無く、ニュルンベルクで見られたようなスリリングな空気は全く存在しませんでした。ここでは何かが裁かれたということはなく、原爆と天皇を裁かないように全員で周到に申し合わせたしょぼい談合の場に過ぎませんでした。

7)東京裁判における天皇と原爆
 とにかくアメリカ政府としては原爆投下の罪で告発されることは避けたいのであり、日本政府としては天皇訴追によって国体が揺らぐことは避けたいのであり、日米両政府はこのくだらない談合法廷を維持することで利害が一致しており、日米両政府の共謀で大いなる退屈な法廷劇が世界に向けて提供され続けることになり、最後には1948年12月に侵略戦争の共同謀議の罪という完全なる冤罪で生贄として東条英機ら7名の被告を絞首刑とし、他にも終身刑、禁固刑を合わせて合計25名の被告が有罪となり、日米両政府はこの判決を支持しました。これで原爆も天皇も裁かれることはなくなったのですから一安心というわけです。

8)東京裁判とGHQの言論統制
 こんな有様でしたから、日本国民としてもこの東京裁判には何の権威も正当性も認めてはいませんでした。日本国民はこの裁判を支持していたなどという説もありますが、これこそ東京裁判判決も顔負けの冤罪、濡れ衣というもので、現在の日本国民ならいざ知らず、当時のリアルタイムで現実の歴史を知っていた日本国民がこの裁判の中で言われていたような出鱈目を受け入れるのは理性的生き物である人類として難しかったでしょう。
 確かに戦時中は言論統制で正確な戦況は知らされていなかったとは思いますが、いくらなんでも世界征服とかシナ征服とか、リアリティが無さすぎで、ちょっと東京裁判の内容はぶっ飛びすぎていてついて行けなかったというのが実際のところでしょう。また、日本の都市という都市を焼き払って多くの女子供を殺した米軍への憎悪はまだまだ根強く、その米軍が自らの罪には知らんぷりをして聖人面をして仕切る裁判などに正当性を認める気分など、どう工夫しても沸いてこなかったことでしょう。

 また、日本国民からこの裁判に反対する声が無かったなどと指摘する歴史家もいるようですが、呆れるほどの脳天気と言うべきでしょう。占領中の日本はナチスソ連よりも厳しい言論統制下に置かれており、私的な手紙までくまなく検閲されていた時代で、東京裁判批判は最高度の禁止事項であり、もし誰かが書いたとしてもこっそり日記にでも書かない限りは確実に抹消されて他人の目には触れることはなかったはずです。
 書いた本人が罰されないのは検閲が行われていること自体を秘密にするためであり、罰されないからといって言論統制が緩やかということはないのです。むしろ検閲体制そのものを秘密にして淫靡に言葉だけ狩っていくほうが言論統制としては効果的だといえます。そうした言論統制下で東京裁判批判の言論が後世の歴史家の目にとまる形で残されるはずもなく、こんな脳天気な論理では北朝鮮の民衆が言論統制下で独裁者の将軍様の悪口を言わないから北朝鮮では将軍様が好かれているというようなもので、洞察力に全く欠けた論理だといえましょう。

 占領下の日本においては、まず圧倒的な軍事力を持つ米軍に打ち負かされて日本は武装解除されて逆らえず、その上、日本政府までも東京裁判を支持しており、徹底的な言論統制によって民衆同士の連携もとれない状態では、まず大抵の庶民はそこで巨大な権力を相手に一人で突っ張ろうなどと酔狂なことは考えたりしません。東京裁判の文句を言わなければ死ぬわけでもないわけですし、そもそも日々生きていくのに精一杯だった時代です。東京裁判戦勝国が言ってることが無茶苦茶だと思っていたとしても、わざわざそれに異議申し立てなどするはずがないのです。自分の生活に関係無いわけですから。