東京裁判とニュルンベルク裁判(6)

 だいたい、基本的に日本の庶民というのは権力者というものが嫌いで、今でも政治家などボロクソに叩かれることが多く、特に落ち目の政治家などは酷い叩かれ方をします。だから東京裁判戦勝国の言っていることが支離滅裂だとは思っていても、そこで戦時中の権力者たちが叩かれていること自体には快哉を叫んでいる庶民が多かったと思われます。
 それを卑しい根性だと批判するのは簡単ですが、当時の庶民の生活は戦災や物資不足などのせいで酷いことになっており、不満が燻っていました。かといって占領軍には逆らえないので他に鬱憤をぶつける相手を求めており、落ちぶれて法廷で責めたてられている被告たちは格好の鬱憤晴らしのスケープゴートになったことでしょう。

 これは当時の閉塞状況の中に身を置いてみないと実感出来ないことです。現在的視点で卑しいなどと言っても仕方ないでしょう。当時は不満は山ほどあったにもかかわらず、あらゆることに対する批判は禁止されており、戦争犯罪人や旧日本軍に対する批判だけは奨励されていたのです。溜まりに溜まった鬱憤はそれらをスケープゴートにして噴出するしかなかったのです。まぁ現在のシナの反日みたいなもので、本音は政府批判なのだが言論統制があるので表現方法が反日となるというような、そういうのに似ているといえます。それに、
当時の日本国民は戦勝国が主張するような日本が侵略国家であったとか犯罪国家であったとかいう与太話は信じませんでしたが、とにかく戦争に負けたことに対して猛烈に憤慨しており、敗戦責任という意味でかつての権力者たちを殺したいほど憎んでいました。
だから、その権力者たちを罰してくれる裁判という意味で単純に東京裁判を支持している人も多かったと思われます。これは決して東京裁判史観を支持しているという意味ではなく、単に日本を敗戦に導いた責任者が罰を受けるのを「ざまあ見ろ」と思っていたという程度のことです。

 こういう人達はあえて東京裁判について文句は言いませんでした。それ以上難しい話には興味はありませんでしたし、面倒でした。ごく一部、やはりこの裁判はおかしいと思って声を上げようとした人もいたでしょうけれど、言論統制の壁に阻まれ、その醜悪さに呆れてもうどうでもよくなってしまった人が多かったことでしょう。日本国民が東京裁判に文句を言わなかったように見えるのは、こういう事情があったからです。

つまり、日本国民は東京裁判が終わった当時は決して東京裁判を支持していたわけではないのです。
それが分かっているからこそ、占領軍は東京裁判批判を禁止し、日本国民がこぞって東京裁判を支持しているかのような嘘宣伝を繰り返して印象操作をしていたのです。マッカーサーが日本から離任する時に泣いて悲しがった人が多くいたなどという嘘宣伝と同じ類のレベルの低いプロパガンダです。こんなものは北朝鮮将軍様マンセープロパガンダで見慣れているはずであろうに、同じことをかつて日本もやられていたということに思い至らず、嘘宣伝をそのまま信じて占領下の日本国民が東京裁判を支持していたと思い込んでしまうような人が歴史家にもいるとは全く嘆かわしいことです。
どうして東京裁判を支持していたはずの日本国民の7割もが独立回復後すぐに署名に名を連ねて戦犯という名で収容されていた冤罪被害者らの釈放を求めたのか、歴史家ならばその歴史的事実でもって、占領時の言論統制下で日本国民がどういう本音を抱いていたのか想像する力が無ければいけないでしょう。

 アメリカ政府もそうした日本国民の本音ぐらいは分かっており、だからこそ厳しい言論統制を敷いて東京裁判という既成事実を急いで作ってしまったのでした。
当初アメリカは日本を20年くらいは占領するつもりでいたので、
その長い占領期間中に占領軍の支配の下で言論統制下での洗脳プログラムを継続して東京裁判の判決を日本人の心にじわじわと定着させていって、東京裁判の判決を根拠にして時間をかけて原爆と天皇の罪を封印してしまおうとしていたのです。
 マッカーサーは1951年に
「日本人は12歳の子供」
と発言しており、これは日本では人種差別主義者の彼の日本人侮蔑発言と解釈されることが多いようですが、確かにマッカーサーは人種差別主義者ですがこの発言は単なる侮蔑発言ではありません。かと言って、これもよく言われる「新生日本の民主主義を擁護した発言」というような好意的に解釈出来るようなものでもありません。これは前後の文脈をふまえて綺麗事や美辞麗句を排除してやや辛口に解釈すると、要するに
「12歳の子供だから新世界秩序にとって都合の良い存在へと教育して変えていくことが容易」
という意味です。マッカーサー率いる占領軍およびアメリカ政府にとっては当時の日本国民は洗脳教育の対象に過ぎず、特にその主要なターゲットは、まさに12歳以下の学童世代であったのでしょう。
 マッカーサーら占領軍の面々の頭の中では「良いインディアンは死んだインディアン」というのと同じように「良い日本人は12歳以下の日本人」というような意識があったのかもしれません。
大人の日本人は頑迷で占領軍の言いなりにはなかなかならないのであり、子供の日本人に学校教育やマスコミなどを使ってじわじわと洗脳していくことが図られていたのでしょう。そうやって成長した子供たちが社会の中核となった時代に日本は新世界秩序にとって従順な国家に生まれ変わるというわけです。

9)日本占領統治の終わりと「東京裁判史観」存続の危機
 ところが、冷戦の始まりやら朝鮮戦争の勃発やら何やらあって、アメリカによる日本占領統治が東京裁判終了から3年も経たないうちに終わることになってしまったのでした。しかしそうなるとアメリカとしては困ってしまうのです。
占領統治が終わるということは、占領軍の作った条例に基づいて行われた東京裁判の判決も無効になってしまうということで、しかも日本国民を縛っている言論統制体制も日本国民の洗脳が完成しないまま終わる
ということでもあり、もともと東京裁判のような裁判としても政治ショーとしても落第点の陳腐な政治的茶番などに何の権威も正当性も説得力も認めていない日本国民は東京裁判の判決などさっさと捨て去ってしまうことでしょう。
 そうなると改めて日本国民によって大東亜戦争戦争犯罪に関して訴訟を起こそうという動きや、東京裁判における冤罪の損害賠償を求める訴訟を起こしたりする動きも出てくる危険性がありました。
特に恐ろしいのは、原爆投下の犯罪でトルーマン大統領を告発する動きが出てくることでした。

 しかし、一方で
占領統治の終わりによって東京裁判の判決が無効になるということは日本政府にとっても恐るべき事態でした。
東京裁判の判決が無効になるということはアメリカなど連合国も大東亜戦争戦争犯罪の解釈が自由になるということで、日本が原爆の犯罪を告発出来るようになるのと同様に、連合国側も天皇戦争犯罪人として告発することが出来るということでもありました。占領期間中はそうした動きはアメリカ政府がストップをかけてくれていました。占領統治を円滑に進めるには天皇の存在が必要だったからです。しかし占領統治が終わればアメリカ政府は天皇の存在を特には必要としなくなります。だから東京裁判の判決が無効になればアメリカや他の連合国は天皇を告発するかもしれません。
しかしそんなことになれば日本政府は現状の天皇を中心とした中央集権体制が揺らぐので困るのです。

 つまり1951年の占領統治終了によって大東亜戦争戦争犯罪を巡る問題は東京裁判以前の状態に戻ってしまったのです。日本側は原爆でトルーマンを告発出来るし、アメリカは天皇戦争犯罪で告発出来る状態です。もし日本が原爆の罪でトルーマンを告発するようなことがあればアメリカも報復として天皇戦争犯罪で告発するでしょうし、逆もまた然りです。
 もちろん実力でも当時の価値観においてもアメリカが圧倒的に有利ではありましたが、新世界秩序が崩れ始めていた当時の情勢の中でアメリカの大統領が原爆投下という極めつけの戦争犯罪で告発されるという事態はそれだけで世界全体に巨大な影響を与える恐れがありました。1949年にソ連が最初の原爆実験に成功し、この頃は既に世界は核戦争の可能性を孕んだ時代に突入していました。そのような時に現職のアメリカ大統領の思わぬ大量虐殺者としての余罪がスポットライトを浴びるのはアメリカにとって避けたいことでした。一方、日本も主権を回復してこれから復興していこうという時、また共産主義の脅威に晒されている時期に、天皇の権威が揺らぐようなことは避けねばなりませんでした。

10)サンフランシスコ平和条約での日本政府の妥協
そういうわけで日米両政府の利害は一致し、共に講和条約を結んだ後も東京裁判の判決を護持していき、それ以外の大東亜戦争戦争犯罪に関する解釈を一切排除して、天皇と原爆の問題に永久に蓋をし続けるという約束を結んだのでした。つまり占領中に自然に出来上がった野合というか共謀関係を講和後もそのまま継続していくことにしたのでした。
 そしてそれをサンフランシスコ平和条約の条文の中に盛り込み、条約調印国すべてにもその約束を徹底させ、天皇と原爆の問題は今後は蒸し返さないという約束を結ばせたのでした。
日米の同盟関係とは、東京裁判史観を維持して原爆と天皇を裁かないで利用し続けるという一点でかつての敵同士が野合した同盟関係という側面も持って出発したのだ
といえます。
 そして、日本政府は日本が世界征服を企んでアジアを侵略したという荒唐無稽な東京裁判史観を順守していくことになり、アジアに謝罪をし続けていくようになったのでした。また、東京裁判史観に則って、誤った侵略戦争で死んだ兵士たちに謝罪して二度と戦争をしないという誓いをする毎年夏恒例の戦後平和教の式典を開いて新世界秩序への服従の意を世界に向けて示す、一種の服属儀礼をこなしていくようになったのでした。
また決して原爆投下についてアメリカを責めることはしないという立場上、原爆投下は侵略戦争を始めた日本の責任であるという倒錯した「あやまちは繰り返しません」の原爆慰霊碑にあるような公式見解を持つようになり、毎年、原爆記念式典を開いて、まるで日本政府が原爆を投下したかのように反省の意を表明し続ける、これも一種の服属儀礼を毎年夏に行うようになりました。これらの夏の風物詩となった服属儀礼が日本が東京裁判史観、すなわち東京裁判の判決を引き続き守り続けているという証なのです。