国民党政府の徴兵と,国家の体をなさなかった「中国」

 林思雲氏と北村稔氏の共著(2008)「日中戦争PHP研究所)という本がある。サブタイトルは「戦争を望んだ中国、望まなかった日本」
 この中から,「日中戦争」当時の重慶政府の徴兵の実態を紹介する。

●農民の中には、日本軍はどこかの軍閥の軍隊であろうと思う者まであり、ある地方では日本軍は満州張作霖(1928年(昭和3年)6月4日死去)の軍隊の一部だと思われていた。

 日中戦争で「中国側」の兵隊に取られたのは,多くは農民である。農民は「愚民」とされてインテリは相手にしなかったし,農民は政治宣伝に興味はなかった。彼らはなぜ日本と戦うのか分からなかったし,日本がどこにあって中国語が通じないということも知らなかった。当然,戦争に対しても無関心だった。

「日本軍と国民党軍がドンパチやっているとなりで,農夫が悠々と牛を追って農耕している・・・・・。
さすがに大陸の人間はスケールがちがう!」
等と,妙な感心の仕方をしている日本人が書いた文章を中学時代に読んだことがある。
その農夫は新聞や放送を理解できる「知識人」のいない村に住み,単に「流れ弾」の危険を知らなかった文盲の農民であろう。この筆者は以下のことを理解していなかったらしい。

中華民国国民国家ではなく,農民は農奴にすぎない。農民の多くは文盲で国民意識はなく,ただ生活の安定を求めた。農民から見れば国の政治はエリート達の仕事で,自分たちには関係ないことであった。彼らは政治には全く冷淡で,戦争に対しても自分たちには関係ないという無関心の態度を示した。」。
「鼓腹撃壌こふくげきじょう(地面の上で足踏みして拍子をとりながら、腹づつみをうつ)」→
〈平和な世を楽しむ様子〉は、シナの民衆は「生活の安定が唯一の理想で、政治に関わるのを嫌い、気楽さを求めた」とも受け取れる。
http://manapedia.jp/text/1995?page=2
当時の中国社会は、だいたい次のような状態だった。
日中戦争が始まるまで、中国は内戦状態にあった。しかし、都市では深刻な食糧問題は発生しなかった。その理由は、内戦の当事者たちが中央政府や省政府の支配権を争うだけで、それ以下の市や県の地方政府は、そのまま保たれたからである。どの軍閥が勝とうが、市政府や県政府の職員と機構はそのままであり、徴税ルートは保たれていた。そして軍閥らはこの徴税ルートを通じて、農民から平和裡に食糧を徴収した。その結果、農民の生活環境も大きく破壊されることはなかった。

●中国には徴兵制度はあるが徴兵の方法は簡単で不精である。整理番号も体格検査も無い。法律に基づいた徴兵免除も無い。

●通行人を拉致するか、人買い組織から壮年男子を買い入れて充足すればよいのが普通である。

金持ちは絶対に兵隊に取られない。各地の官吏が公開の価格を作って,徴兵免除証明を金持ちに売るのだ。かくして最終的に徴兵されるのは,極貧の人間(多くは農民)ということになる。

「ある日,夕食を終えると,突然大騒ぎする人声が聞こえた。さらに,家の屋根の上を歩く足音が聞こえた。突然,一人の男がわらぶき屋根を踏み破って部屋に落ちて来た。そして声を出さないようにと,大慌てで懇願した。彼が言うには,自分は十七歳で,わら紙の職人だが,集金に出たところを軍隊に捕まってしまい,服とお金は没収され灰色の軍服を着せられたのだ,と(『葉聖陶日記』)」

●中国の兵士はほとんど全員が文盲であり、軍事訓練を受けたものは少なく、強制的に連れてこられた農民たちがほとんどであった。彼らが銃の撃ち方を学んだのは、戦場であった。


「訓練を受けた日本兵は,戦闘では匍匐で射撃し,散開して前進する。しかし,正規の訓練を受けていない中国兵は,立ったままか,あるいはしゃがんだ姿勢で射撃する。さらに一団となって進むので目標が大きくなり,容易に銃弾が命中してしまう」
と,林彪は述べている。

「広西からの部隊が前線に到着したが,日本の飛行機が爆弾を投下してくるのを見ても,身を隠したり伏せようともしなかった。突っ立ったままで,飛行機を指さしてののしる者までおり,多くの人間が戦場に赴く前に,むざむざと命を落とした(『李宗仁回想録』)」
 「ゴー宣」にこんな話があった。日本の敗戦で日本人が台湾から退去すると,入れ替わりに国民党軍の兵士が上陸してきた。その風体は浮浪者同然であった。ある兵士は水道を知ると,蛇口の金具を買い,壁にぶち込んだ。蛇口をひねっても水が出ないので,腹を立てた。「飲み水で苦労した,未開人」の姿である。
「敵軍(日本軍)の中級以上の士官の戦術レベルは,我が軍(国民党軍)より,一・二段階高い。下級士官の場合は,二・三段階は高い。兵士に至っては,我が軍は全く敵に及ばない。我が軍の1中隊(100人あまり)は単独では戦闘できない。しかし,敵は1つの班や一人の兵士でも単独で戦闘し,大きな効果を発揮する。(方誠『八年抗戦小史』)」
 日本軍兵士に文盲はいない。軍事常識もない支那の兵隊は,
よく訓練された日本兵の前では,普通の人がプロボクサーと試合するようなもので,当然のことに大敗を喫したのである。

●強制的に連れてこられた兵士たちは当然のことに機会があれば逃亡する。

●四万人を収容して兵士にする訓練を施すはずであったが、多くの人間が連れてこられる途中で死んでしまい、生きて訓練を受けたのは八千人であった。

「私は軍営の中で,多くの壮丁(新兵候補者)がつながれているのを見た。逃げるのをおそれてのことである。わずかの行動の自由さえなく,動けば殴られる。粗末な食べ物も少量で,生命を維持し,餓死させないためだけである。彼らは大便するときも集団行動であり,その時に用を足さなければ,勝手に大便をさせてもらえず,機会を逸すると大便がしたくとも許されない。
 貴陽にあった壮丁収容所で,私は広州から来た壮丁と話した。
『どこから来たのか』
と聞くと,
『広東の曲江から来た』
と言う。
『全部で何人いるのか』
と問うと,
『曲江から出発した当初は七百人だが,今では十七人しか残っていない』
と言う。
『なぜ十七人しかいないのだ。途中で逃げたのか』
と問うと,
『誰も逃げてはいない。逃げたってどこへ行くのか。途中はどこもかしこも荒れ果てていて,食べる物もなく,飲み水さえない。ここに来る際には途中の食糧を全く用意しておらず,食べ物があるところでは食べ,無いところでは飢えを待つだけで,しかし歩かなければならなかった。多くの所では,水を飲むと腹を下した。腹を下しても病気になっても薬はなく,それで大部分の人間は途中で死んだ』
(蒋夢麟『新潮』)」
中華民国の徴兵は「罪人扱い」である。
 国民党軍の統計によると,戦争開始当時の兵士数と日中戦争8年間に徴兵した人数の合計は1657万人
これから,戦死・失踪者・病死・逃亡者・投降者・終戦時の生存兵士数を引くと965万人。これは,おそらく徴兵の途中で死亡した人数である。

 以上のことだけでも,
中華民国は近代国家でも国民国家でもなく,そもそも「国家の体をなしていなかった」
のが分かる。
「国民党」とは、「日本のような国民国家を作りたい」という、「蒋介石のむなしい夢をあらわす名」だったのであろうか?
幸いにも西尾氏が論文の中で、当時の支那の状況についても分かりやすく説明されてましたので、引用します。
清朝末期に起こった)人類史上最大の内乱を記録したといわれる太平天国の乱は十年から十五年も続いた内乱で、清朝の当時の人口四億人の約一〇%から二〇%、五千万人から八千万人の死者を出しています。そして引き続き、回教徒の虐殺の事態がおこって、このときイスラム教徒が四千万人も殺戮されています。

 この説明のできない内乱と悲劇の国、これが満州事変のあとあたりまでぐずぐずと繋がっていました。政府がいくつにも割れて、外国は中国という一つの国を相手にして交渉することができません。つまり中国は国家ではなかったのです。
「近野さん」のところからお借りしましたが,下図のようなものです。この図は,「日露戦争直前」と思われますが,樺太の南半分が日本領になっている点に疑問が残ります。支那大陸での各国列強の勢力分布図は,二・三十年前はよく見られましたが最近は稀です。「中国にへつらう日本人」が隠すのでしょう。
「『中国』は昔から独立国だったのだ」という中共の宣伝に,日本のマスコミ・教育界は従っているのでしょうかね?
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南京大虐殺の時に中国軍は何をしていたのか。(なぜ,南京市民を守るために『中国軍』は出動しなかったのか?)」と,アメリカ人に聞かれて中国人が説明に窮したとの話が、つい先頃あった。

【中国】「南京大虐殺の時に中国軍は何をしていたのか。何故市民を守らなかった?」
1 :日出づる処の名無し:2009/05/23(土) 13:08:58 ID:7Cqx6mrf
 南京大虐殺に対する日本と中国の認識には一定の溝が存在するようだ。中国側は2―3カ月という期間に30万人の中国人が日本軍によって虐殺されたと主張している。このブログは中国人ブロガーが南京大虐殺が行われていた期間中、中国の軍隊は何処で何をしていたのかという質問に対しての考えを綴ったものである。以下はそのブログより。  *******************************************
 米国人の友人と食事をした際、一つの質問を受けた。
「中国人はずっと、日本人は南京大虐殺で中国人を大量に殺害したと言っている。
この大虐殺は2―3カ月もの間続いたと言っているが、その間中国の軍人はどこにいたのか?
2カ月も続いていたとすれば、どこにいても駆けつけることができたはずだ。日本軍人はわずかに5000人だったそうだが、中国軍はなぜ南京の市民を守らなかったのか?」
以上が、米国人の友人から受けた質問だ。私はこの質問を聞いて唖然としてしまった。私はこれまでこのような問題について考えたことが無かったし、私の周りの人間も考えたことが無かっただろう。米国人の友人は私に「当時、共産党や国民党は一体何をしていたのか?」と尋ねてきたが、外国人たちは、これについて、「彼らは旨いものを食っていたに違いない」と言っていた。私はこれに対して、それはあまりにも誇張された考え方だと反論したが、確かに良い質問だと感じ、帰って調べ、後でメールすると答えた。
 資料を調べて分かったのは、当時南京に侵攻した日本軍は5000人ではなく6万人であったことと、南京にいたのは多くの売国奴であったということだった。友人からの質問は私を大いに混乱させることとなった。また、私はGoogleで検索したのだが、何の資料も見つけることができなかった。当時、中国軍が何処で何をしていたのか、一切の記述が無いのである。私は友人に対してどのように答えれば良いのだろうか?
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0522&f=national_0522_003.shtml
江沢民以来、中共政権は「反日教育」によって国民国家を造ろうと急いだ。その結果が、2012年の尖閣国有化による反日暴動になる。)
中華民国国民国家ではなかったから、「国民や国軍というもの」がなかった。国民党軍は蒋介石の私兵である。「私兵をもって南京市民の救援に向かわせる」という発想が、蒋介石ならずとも、毛沢東を含むどの軍閥頭目にもなかったことは当然であろう。
この南京市民の救援に向かったのが、日本軍なのであった。
 http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/57408323.html
中国人が中共宣伝にしてやられているのは分かるが,アメリカ人にも多いのだ。
 http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1243051738/-100
 このスレ↑の9・14・15に当時の日本側のニュース映画があります。経過説明は,おおむね適当だと思いますね。少なくとも,国民党や共産党のようなデマ宣伝はしていません。


そういうことを今にして言うのは、そのことをしっかりと押さえておかなければ、私たちは私たちの近代史を理解することもできないはずだからです。

日中戦争というからおかしいんです。日中といっても「中国」などそもそもその当時ありませんでした。やっぱり「支那事変」なのです。

日中戦争」 一体どこが「侵略」だというのか
http://ironna.jp/article/1072
 大陸に関わった昭和史にだけ限ってみても、中国は一体どういう国だったのかということを、どういう領土でどういう状態だったのか、少なくとも政治状況全体がどういうことだったのかということを客観的に見ない限り、日本の歴史も書けないはずではないでしょうか。

(中略)中国は国家ではなかったんです。ですから清朝末期から内乱の続きであって、辛亥革命のあと中華民国になってからも内乱は止まず、国民党は国民党の内部で戦い合いをしているし、共産党共産党の内部で殺し合いをしているし、そして戦後の文化大革命もその長い清朝末期からの内乱の一つなんです。

うかつに「中国」などと言うと,「中共史観(中共は「中国」を支配する唯一の正当な国家であるという刷り込み)」に取り込まれる
というのが,ここのところの私の感想です。

 今回は,「くっくり」さんにお世話になりました。

朝鮮戦争当時、中国の人民解放軍は、日本兵をひどく怖がっていた。
「中国と北朝鮮は、今も日本を恐れている(元・米兵)」