日中戦争は中国がしかけた

 日米戦争は,アメリカがしかけた。アメリカとは,米国民主党ルーズベルト政権上層部のことである。
 http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/48844016.html
 こういう反日的なアメリカに対して,反日的ではない「共和党が代表するアメリカ世論に訴えるやり方もあったのだ」という説もある。
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-595.html
 ここでは,日米戦争の導火線になった日中戦争を問題にしたい。
その結論が,表題の
日中戦争をしかけたのは中国(蒋介石毛沢東・特に前者)だ
である。

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             書評

北村 稔・林 思雲(2008)「日中戦争・戦争を望んだ中国と望まなかった日本」(PHP研究所の北村による「はじめに」で林の担当した第二章についてこうのべている。
第二章では,日本人にとりはなはだ興味深い事実が明らかにされる。それは,

日中戦争開始前の中国では日本に対する主戦論が圧倒的に優勢で,農民を除く都市のインテリら住民は日本との戦争を熱望し,勝利を確信していたというのである。1930年代に中国の都市部で激化した「抗日運動」とは,日本との即時開戦を求めるものであったことがわかる。
 中国の都市住民は、なぜこれほどまでに「自信」をもっていたのか?蒋介石軍は、1930年代初頭からナチス・ドイツと親密な軍事関係を築きあげていたからだ。ドイツ人軍事顧問団による指導・上海ー南京間の防衛陣地構築・チェコ機関銃や装甲車・武器の輸入などである。見返りにドイツはタングステンなど希少金属の提供を受けた。これらは砲弾や工作機械に欠かせないが、ドイツには産出しなかった。「日本の侵略戦争」と戦った国民政府が「ナチス・ドイツ軍需産業の発展を支え」、これがヒトラーのヨーロッパ侵略の原動力になった事実を、今日の「中国」は隠している。

この理由を考えてみると、
「日本のファシズム」を抗日戦争により打倒したと主張する国民党には、「日本のファシズム」の盟友で「歴史の罪人」となったナチス・ドイツとの親密な関係は、第二次世界大戦後には触れてはいけない過去なのである。
 さらに、日本における日中戦争研究では、「日本の侵略戦争」を批判することが大前提である。中独間の親密な関係に言及すれば、「日本の侵略戦争」説が破綻してしまうのだ。

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林思雲氏は第二章の中で,日中戦争を題材にしたNHKの番組〈放送スペシャル〉を批判し,次のようにいう。

NHKの「放送スペシャル」の傲慢 p94
 
2006年の8月13日に放映されたNHKの「放送スペシャル」―日中戦争―なぜ戦争は拡大したのか―は、戦争拡大の原因を日本の主戦派の責任に帰結させている。まるで中国側には、何の関係もなかったかのようである。

 このように、自ら進んで戦争責任を負おうとするのは好意なのかもしれない。しかし中国人から見ると、このように片方だけに戦争責任を求める論法には傲慢さが含まれている。すなわち、日本を日中戦争の主導者とみなし、日本が戦争を拡大しようと思えば拡大でき、拡大させまいと思えば拡大させぬことができたのであり、戦争の方向は日本の意志でコントロールできたというものであるが、自発的に進んで戦おうとした中国人の意志が軽視されている。このような見方は当時の実情に符合しない。実際には当時の日本は、決して戦争の方向をコントロールしていなかった。

中国側において自発的に日本と戦おうとする意志が高まっている状況では、たとえ日本が戦争を拡大したくなくても、中国側は日本と全面戦争を開始したであろう。

事実として、日中間の大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年の8月13日に発生した第二次上海事変である。そしてこの戦闘は、まさしく中国側から仕掛けたのである。この日、蒋介石は〈(入力者:注)国民党正規軍10個師団20万人を集結〉3万の兵で上海の租界を包囲させ、駐屯していた4,000人余りの日本海軍特別陸戦隊に対する総攻撃を命令した。

上海には、長江流域から引き揚げた日本人居留民約3万人が避難していた。


 この前後の事情については,年表を含めて次の記事に説明があります。
 http://www35.atwiki.jp/kolia/m/pages/12.html?guid=on

 また,以下に日本の記録ニュース映画があります。
 盧溝橋事件、通州事件、大山事件、シナ軍不法侵入、シナ軍の上海空襲
 Battle of Shanghai 1937 1of 4 Background of Battle
http://www.youtube.com/watch?v=K4qfH8tf4cQ&feature=channel_page

 Battle of Shanghai 1937 2of4 Beginning of Battle
http://www.youtube.com/watch?v=PObxULJSOVg&feature=channel

 Battle of Shanghai 1937 3of4 Air Operation of IJNAF
http://www.youtube.com/watch?v=ucaZM0-5IN0&feature=channel

 Battle of Shanghai 1937 4/4 Landing Operation of IJA
http://www.youtube.com/watch?v=dGmeFA55e98&feature=channel
 日中戦争が拡大した真の原因を言うとすれば、それは世論に扇動された双方の民衆の仇敵意識であると言わねばならない。1937年7月29日には、通州事件が発生した(日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の中国人保安隊が反乱を起こし、首都の通州にいた二百数十人の日本の民間人を惨殺した)。

 通州事件のあと、日本国内では「懲中」(中国を懲らしめる)の空気が巻き起こり、中国国内では「抗日」の空気がさらに高まった。両国が事前に戦争の準備をしておらず、また戦争の目的と結果を考慮していなくとも、日本側の「懲中」と中国側の「抗日」という両国人民の熱狂的な感情に支配され、全く準備がなされていない大戦争が、遂にはちょっとした食い違いから開始されたのである。
林思雲(著):1963年中国南京市生まれ。1985年南京大学を卒業。1992年に留学のため来日。1996年に九州大学で工学博士号を取得後、日本の企業に就職。1997年以降、中国語インターネットウェブサイト上で日中関係をはじめとする様々な分野について個人的な見解に基づく文章を発表し、多くの読者の関心を集めている。

「懲中」(中国を懲らしめる)とは,入力者は初耳だ。これは,「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(暴虐な“支那”を懲らしめる)のことですね。
例として、東京朝日新聞(後の朝日新聞)が、現地特派員が通州事件によって財産を捨てて避難する邦人(日本人居留民)を見ての現地ルポに、この言葉を使っています。
当然、陸軍も邦人保護を理由に、現地への軍の派遣や軍事行動を強化します。
林氏は「中国人」で支那という語は使いたくないのだろうが,歴史研究書で勝手に「歴史用語」を作り変えるのも迷惑な話です。
 また,通州事件を起こした「日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の中国人保安隊が」「日本の傀儡政権である」は余計ですね。現在,中共支配下にある「中国」人の林氏が,「当時の支那は分裂状態にあって国家の体をなしていなかった」ことに言及したがらないのは分かりますけどね。

 要するに,当時の支那人は日本に対してひどく好戦的だったことが分かります。
日本の現在の外交文書に,通州事件の資料は少ない。これは,「中国人の残虐行為に対する日本人の批判を惹起させない為」なのか?
さらには左翼の「日本人=加害者」、「中国人=被害者」史観に例外を与えるからではないのか?
「くっくり」さんの「敗走千里」に次のような記述があります。
 「いや、有難ふ……ぢや、序(つい)でにもう一つ教へて頂かうか。イギリスや、アメリカや、ロシヤや、フランスや、さう云つた國は侵略者ぢやないのかね……日本一國を眼の敵にして……」
 「漢奸!」叫ぶなり、その男は立ち上つた。(p.280-281)

 要するに、「日本を侵略者と言うなら、イギリス、アメリカ、ロシア、フランスなどの欧米列強だって侵略者だろう」と。GHQにとって、これは最大級に不都合な記述ではないでしょうか。

日本は居留民保護のため,条約に基づいて列国と同様に支那に軍隊を置いていた(つまり、現代のPKOにあたる)

のですが,米英ソの思惑と国民党や共産党の思惑が結びついて,支那人は「排日・抗日」つまり「日本との即時開戦」に向かいました。
 もともと、支那人には外国人排斥思潮があったのですが、それがなぜ「排日」にまとまって行ったのでしょう?これについては、アメリカ人宣教師の活動が大きかったようです。「カルフォルニアが日本人移民で占領されてしまう」と恐れて成立した排日移民法に端を発して、アメリカには反日感情が残っていた。宣教師が、支那で盛んに反日宣伝をしたのである。宣教師は帰国して反日宣伝をし、これが全米に広がって行く。
 今でも、60年以上も昔のことで中共政府による反日宣伝があり、支那では反日デモが起きるではないか。

ところが,国民党軍(中国軍)が緒戦で大敗すると,あれほど開戦を熱望していた支那の都市住民たち(富裕層)が抵抗を放棄して良民になり,さらに,カネを払って兵役逃れをやりました。そこで,日本がどこにあるかさえ知らない、文字も読めない、政治に無関心な農民(貧困層)が拉致されて兵士となり,悲惨な待遇のなかで日中戦争を戦うことになったのです。

 国際法の大原則として,「侵略戦争戦争犯罪ではない」が連合国の多数意見でした。ところが,ドイツ降伏後の1945年6月末から8月上旬まで開かれたドイツの処分を議題としたロンドン協定で「侵略戦争戦争犯罪であり,平和に対する罪を構成する」という方針が確立されたのです。
 これが日本にも適用されました。

だから「日本は侵略した」が反日勢力の「事後法」によるコロシ文句

で,かれらはこのセリフを手放さないのです。これについては,いずれ話題にしたいと思います。



通州事件について、一冊丸ごと通州事件を語った本は過去には出されているが
今は、図書館にも、古本屋にもない。
これが現実である。
ここで

雑誌「諸君!」2006年11月号P79の「『南京の虚構』を世界に発信しよう」という北村稔氏の論文

を引用する。

「(通州事件に関しての)関連資料は何も収録されていなかった。<略>大事件である通州事件の報告は当然なされていたと思われるが、公開されている外交文書には存在しない。
 
 『故意に伏せたな』と思ったが、何の為に伏せたのか。中国人の残虐行為に対する日本人の批判を惹起させないた為なのか。京都に帰ってからも「狐につままれた」ようで、念押しの為にインターネットで外交資料館の資料を検索した。しかし、やはり通州事件の資料はなく、他の資料の中にで一ヵ所だけ、通州事件に言及されている例を見いだしただけであった。もっとも私の目が節穴で、公開されている資料を見落としていたのであれば、外交資料館には平身低頭してお詫び致します。」というものである。わたしも調べたが「諸外国の学校情報」など、としか出てこなかった。

 さて、この中で通州事件の資料が少ないことを「中国人の残虐行為に対する日本人の批判を惹起させない為なのか」と書いているが私もそう思う。もうひとつは左翼の「日本人=加害者」、「中国人=被害者」史観に例外を与えるからではないだろうか。

こういう風に、日本人はずっと『通州事件』を隠してきたのである。
しかし、もう、事件の真実を語る時期が来たのである!!

こういう風に、日本人の左翼(「戦後知識人」)はずっと『通州事件』を隠してきたのである。
しかし、もう、事件の真実を語る時期が来たのである!!