支那人のデマ宣伝文化・避諱(ひき)

 こうもりさんとの会話で「避諱(ひき)」を話題にしたことがあります。
「避諱(ひき)」とは,日本語の忌避(きひ)(嫌がって避けること)と同義語です。虫除けのナフタリンやパラゾールは虫を殺すまでの力はありませんが、虫が嫌がって逃げ出す効果があります。そこで、殺虫剤ではなく,忌避剤と言いますね。

さて,支那で「避諱(ひき)」と言うと,特別な意味があります。
国家や共同体にとって都合の悪い事実を積極的に隠そうとする行為です。
これは,支那人にとって道徳的に価値ある行為と考えられています。つまり、「良いこと」と考えられていると言うことです。

北村稔氏が「正論」09年6月号に掲載された東京裁判シンポジウム第二弾完全収録 「村山談話」をいかに克服するか】の中で、中国がなぜ歴史を捏造するか?について興味深いことを述べておられます。
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 中国人にとっての歴史、歴史描写に対するスタンスについての林思雲氏からの重要な指摘があります。それは
中国人にとって歴史を書くというのは、本当のことなど書かなくていい、自分たちの体面を保つためには、嘘をついていい、それが愛国の証しなのだということを日本人はもっとわかっていたほうがいいということです。

(中略)中国人は古くから儒教道徳のなかに——日本の儒学ですけど——忠とか義とか礼智信に加えて、避諱という都合の悪いことを隠す徳目があるわけです。自分の都合の悪いことを自分のために隠すのではなくて、国家社会の安定のために、偉い人のやった都合の悪いことを隠すのは善だという考えです。

 なぜ善になるか。君子は道徳性の高い人で、小人は物欲ばかりのダメな人です。中国は人治の社会ですから君子が上に立って政治を行うと社会は安定するが、小人がやると世は乱れる。乱世と治世ですね。君子もスーパーマンじゃありませんから、間違いは起こす。それをあげつらうと安定が崩れる、だから偉い人が何かやっても隠す、それはいいことなんだというわけです。

 やがてその支配者と国家が一体化しまして、国の不名誉なことは隠していいという考えになる。子供の時からそう教えられるのです。だから、本当のことは言わないし、味方に都合の悪いことは全部隠すわけです。

 一方,敵については激しくウソを含めて悪口を言うわけです。一方では隠す、一方では徹底的に悪口を言う。それは表裏一体の心理がもたらす独特の現象です。
去年の毒餃子騒動」の原因究明がうやむやにされたのは,この避諱(ひき)による。
 1946年に蒋介石政府が「南京大虐殺」の死者数を調査した時,南京市民は競って誇大な数字を並べて自分の愛国感情を表現した。魯という人物は「日本兵が5万7千4百十八人を殺すのを見た」と宣言した。それを聞いた支那人は,誰も「ウソだ。どうやって数えて,記録したのだ?」とは言わなかった。そんな事を言えば,日本人を弁護する売国奴になるからだ。この数字は,そのまま支那の主要な新聞に掲載された。これも,避諱になる。

 支那では事実よりも体面を重視するから,西洋の科学思想を理解するのは容易ではないだろう。
 三木清は「虚栄心はまず社会を対象としている。しかるに名誉心はまず自己を対象とする。虚栄心が対世間的であるのに反して,名誉心は自己の品位についての自覚である。」と述べている。
 避諱は虚栄心を膨張させても,名誉心を理解させ得ないのではないか?西洋の近代思想を理解しにくいのではないか?中国でのパクリの横行は,これを表している。支那人の虚栄心を保証するものは,中共の軍事力である。実に,危険なことだ。
 韓国も同じで、儒教道徳の影響が非常に強い。日本ではちょっと考えられないのですが、中国と韓国では常にそういう力が働いています。だから
「嘘つきめ」と言っても仕方がないのです。

非常にやりにくいことは事実です。共同の歴史研究なども無理だと思います。
しかし、それに決して驚かず、冷静に対処するのが大切です。
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  「避諱(ひき)」の要約
1.デマでも好いから味方の体面を保て!
2.デマでも好いから敵の評判を落とせ!
3.これは我ら(漢人)だけが使える徳目だ。
4.事実よりも,宣伝戦で状況を動かす方が勝ちだ!
敵よりも、我らが栄える方が好いに決まってるじゃないか!

 「日中戦争」の中で林思雲氏は中国側の研究を資料として執筆し,避諱についてこう書いている。
 「避諱」とは他人のために醜いことを隠し,他人のために虚言を弄するのである。中国の伝統的な道徳観は,他人のためにウソをつくことに反対せず,むしろ他人のためにウソをつくのを励まし誉めたたえるのである。
 入力者は,そろそろ林思雲氏と間合いを取ることが出来てきたが,この表現には無理があるように思える。支那人は指導層(他人)や国家のメンツのために嘘をつく見せかけをしつつ,自分の保身を計っているのであろう。
「避諱(ひき)」にこのような「道徳的意味」を持たせたのは、「林思雲氏の創作」らしいという論も出てきた。どうも・・、カツがれたらしい・・。 
デマ宣伝の結果,「多数派に乗って自分の利益を計る」のが実相であろう。
こうしたことは,日本人もやっている。しかし,「支那人のように,臆面もなく道徳的」とは思っていないというところが、日本人と支那人との違いであろう。

弱肉強食の大陸では,保身こそ政治であり道徳である。

こういうのを、明哲保身と言うようだ。
無論、その中身は

「聡明で道理をわきまえているならば、 危険に陥らないように ものごとを処理し 安らかに身を 全うすることができる」

といった取り繕った意味で語られるが、これについてrac氏が、司馬遷と班固を比較して、興味深く論じている。
漢書』著者・班固が自ら言う明哲保身とは、司馬遷が批判した全躯保妻子之臣〔躯(く)をまっとうし、妻子を保つの臣〕が「自分の世渡りを弁護したもの」にすぎない。おのれの身を守り妻子を養うのは大切ではあるが、常に体制に従順で権力を賛美する小市民が支那の知識人である。笑えないのは、明哲保身が日本を含む東アジアの知識人のモデルになっているという事実であろう。


 今回も,「くっくり」さんにはお世話になりました。

結論として,日中・日韓の間で行われる近代史に関する共同研究などというものは,時間とカネのムダである。さっさと,やめてしまえ!