飢饉の記憶(2)

 四国の石鎚山に近い,高知県の北西隅に寺川という集落があります。昭和十六年には,十七軒の家がありました。
 宮本常一(1960)『忘れられた日本人』の「土佐寺川夜話」から,ヒガンバナに関する部分を抜き出してみます。
 どちらを見ても山ばかり。百姓たちはその森の中の思い思いの所に焼き畑をつくって暮らしました。土地は広く,人の少ない所で飢饉になると,伊予の方から人が沢山やって来ました。そしてヒエの耕作などを手伝い,ヒエのヌカでもよいからくれと言ってもらっていました。少しも消化するものではなく,ただ腹をふくらませるだけのものだったのですが,それでもやはり食べてみたのです。

 「天保の飢饉」の時はずいぶん伊予から沢山来て,シライ谷に小屋を建てて住んでいました。シライ谷というのはシライの多い谷のことで,シライはシレエとも言い,ヒガンバナのことです。元もと救荒植物として土佐藩ではこれを田畑の畦に植えさせたようですが,シライ谷は今行っても初秋には火が燃えているようにこの花が咲きそろうと言うことです。山の中の青一面の木の茂みの中に,この赤い色はずいぶん鮮やかで,通りがかりに見とれてしまうことがあったと申します。

 伊予の人たちは一年近くそこに住んでシライを掘り,それを煮て川水でさらし,毒を抜き,ついて餅にしました。これがシライ餅です。少し食べるには悪くもないが毎日食べると,決して有り難い食べ物ではありません。そのシライを食べ,ヒエやヒエヌカを食べました。

 さて一年ほどして伊予の人たちはまたその家の方へ帰って行きました。小屋も取り除いて,元の山になったのですが,くぼみをつけてひり捨てた糞が山のようだったと申します。そしてその糞が長い間雨風にさらされて,臭みも粘りもとれてしまうと,またもとのヒエヌカに戻っていたと申します。

 「あれは腹の中を通してみるだけのものです。それでも腹の中に何かあると満足しておられたのです」と寺川の老人は語りました。ヒエヌカは腹の中をそのまま通過するにすぎなかったのですが,それでも多少栄養はとれたものか餓死するものはなかったらしいとのことです。

 村人もこの時は全く困ってシライモチまで作ったと申します。ある男が山へ木こりに行って,弁当のシライモチを食べたがいかにもうまくない,最後の一つを切り株の上にのせておいて帰りました。一年ほど経って行ってみると,モチはそのまま切り株の上に白くさらされたまま残っていたと申します。
リスやノネズミも食わなかったシライモチ・・・・。

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 ちなみに,新暦でも旧暦でも「お彼岸」は同じ日になると,この記事を書きながら知りました。