飢饉の記憶(3)

 ヒガンバナ水田稲作文化の伝来とともに,その一要素の救荒作物として,支那揚子江下流から持ち込まれたらしい。揚子江下流地方のイネは日本イネに近いことが,すでに1950年代から知られている。また,揚子江中流湖南省には,1960年頃までヒガンバナを食用にする地方があったそうである。

 持ち込んだ人々は今日の苗族などの少数民族で,漢族ではない。これらの人々が呉や越の滅亡とともに,難民として波状に九州に渡来し,水田稲作ヒガンバナを伝えたらしい。
 日本のヒガンバナは九州から秋田県岩手県まで分布している。日本のヒガンバナは種子を作らないから,分布の拡大は人手によって球根(鱗茎)を運ぶしかない。なぜこれほどまでに広がったかと言えば,救荒作物として有用だったからと考えるしかないだろう。それにもかかわらず,なぜシビトバナとかユウレイバナとか呼ばれて嫌われてきたのだろうか。
 ありがたがられた形跡が、まるでないのだ。

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土手のヒガンバナ
 いろいろ調べると,土葬の墓をモグラ・野ネズミ・キツネや野犬が掘り返し、故人の遺体を食い荒らすのを防ぐために,これらの動物が嫌う忌避植物としての「ヒガンバナの球根を埋葬の時に植え付けた」ということが分かってきた。
哺乳動物は「有毒植物体験(最後のリンクが参考になる)」を学習して、以後、その植物を避けるらしいのである。
 案外この辺が,語られたがらぬこの花の「有用性」だったのかも知れない。

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土まんじゅう(映画「七人の侍」の1シーン)。現在では自治体レベルの多くで土葬は禁じられているが、法律上は土葬は火葬と同等で、山梨県の一部などに土葬の習慣が残っている。イスラム教徒は、戒律上、火葬が禁じられている。
昔の人はヒガンバナの群れ咲く空き地を見て「その昔の墓地跡(土まんじゅう群の跡地)」と直感し、
そこは穢れた不吉な土地と判断するのが「埋葬に立ち会った大人」の世間知というものだろう。

ヒガンバナは,死者を埋葬する象徴だったのである。
(白秋の「曼珠沙華」は、これを前提として、妙な妖しさまでかもし出している。)

 同様に忌避させる理由で,土手や畦に穴をあける野ネズミやモグラを近づけないために,土手や畦の保全を目的としても植えたらしい。
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畦のヒガンバナ
 単に有毒植物であるからだけではなく,「埋葬や飢饉の嫌な思い出」を思い起こさせるヒガンバナに子供が親しむのを,農村の大人や老人は「不吉」と嫌って,禁忌(タブー視)したのであろう。
「そんなもの、触るでない!」と、怒鳴りつけたものだろうか。「なぜならば・・」という説明はない。
「説明するのも嫌だし、子供は知らなくてよい」のだ。

 私は幼児の時に,手の爪を切って火鉢にくべたことがある。すると祖母に,「ヒトガヤケルにおいがするから,そんな事をしてはいけないよ」と言われた。ヒトガヤケルの意味は分からなかったが,真顔の祖母の語気が「強い禁止」を表していることは理解できた。
 それはそうだろう。一家団欒の夕べに,「肉親を亡くして火葬した時の光景」をありありと思い浮かべさせられては,たまったものではない。それは,仏壇や墓前で故人を偲ぶのとは訳がちがう。



 今では「ヒガンバナの可憐な花が・・・・」などと紹介されるようになっている。

現代人は土葬や飢饉に無縁となり,農村の生活人口も減り,鮮烈なヒガンバナに嫌な思い出をよみがえらせられる人はほとんどいなくなった。

 ヒガンバナは日本の伝統的な美意識からは逸脱して,過剰に装飾的ともいえる。
その色彩と造形は、むしろ欧米人好みであろう。
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 社会の生活基盤が変わって行くのだから,生活に根ざした美意識も変わって行くのはやむを得ないことだろう。

「芸術(文学作品)も女と同じである。美しく見えるためには、一時代の雰囲気に包まれねばならぬ。」
と、芥川は書いた。
「一時代の雰囲気」とは、時代の生活基盤に根ざした美意識というものであろうか。


ヒガンバナに対する評価や親しみ方の移り変わり」には、いろいろと考えさせられるものがある・・。