清国兵の乱暴狼藉(明治19年8月の「長崎事件」)

 NHKで「坂の上の雲」が始まるそうです。偶然にその宣伝を見ると,清国の北洋艦隊の司令長官・丁汝昌を現在の中共人が「彼は,愛国者だ」と言い,丁汝昌がいかにも紳士であることを印象づける説明を放映していました。
 まあ,どうですかね,自国の歴史を知らない中共人が「そう言っておけば,(「南京大虐殺」同様)共産党ににらまれない」というだけの保身的な発言なんでしょうが。わざわざ,そんな与太語録を放映するNHKのことですからねえ。
 NHKは「長崎事件」を扱わない雰囲気ですね。坂の上の雲」には書いてありますけどね。そもそも山陽本線は,清国の艦隊に瀬戸内海に入り込まれると、砲撃されるのは避けられないために海岸から見えないところを通したんじゃあなかったっけ?(昔,京都から鹿児島まで国鉄で旅したけど,山陽本線は瀬戸内海が見えなくてつまらなかったなあ・・・・・・。)
 そんな訳で,ネットから表題の事件について引用しておきました。
インターネットに清国の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」が長崎で働いた乱暴狼藉事件の詳しい状況が出ていたので引用する。
自分の方が強いと思えば、際限がない民族性は今も昔も変わらないのではないだろうか。
(引用はじめ)
 明治19年1886年) このころ,大清帝国は日本を威圧するため,旅順に要塞と軍港を作り,北洋艦隊根拠地にしていました。北洋艦隊水師提督(司令長官)丁汝昌は,李鴻章(北洋大臣)の右腕でした。
 1886年8月1日,北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が,日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然,長崎に入港しました。要するに,弱小国,日本を舐め切っていたのです。
 艦名の「遠」は外国を意味し,特に日本を指していました。「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味です。この僚艦はドイツ・フルカン社製で,排水量7,400t,主砲は30cm×4,当時世界第一の大戦艦でした。
 その頃,日本海軍は英国アームストロング社製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけでした。当時の日本海軍は、時の清国主力艦『鎮遠』、『定遠』の2装甲艦にまったく立ち向かうことができない実力であり、戦争など思いもよらないことでした。

 8月13日には清国水兵が勝手に上陸開始しました。兵力は500人以上。長崎市内をのし回り,商店に押し入って金品を強奪しました。酒を探して飲み,市民の女性を追いかけるなど,散々に暴れ狂いました。
 清国水兵は辮髪をしていました。その髪を蛇のように振り立て,喚き狂うのだから,長崎市民には,まるで地獄の鬼のように見えたことでしょう。
 急報により,日本人巡査が鎮圧に出動しましたが,多勢に無勢,袋叩きに遭ってしまいます。やがて応援の巡査の一隊が駆けつけ,双方抜刀して市街戦になりました。斬り合いの結果,双方とも八十数人の死傷者を出しました(水兵4人、巡査2人が死亡)。
 その後、清国水兵は続々と200人ほども集まり、捕縛された仲間を助け出そうとして警察署の門前に押しかけました。警察署も門を閉ざして警備を厳重にしたため、その日の水兵たちは何事もなく引き上げたけれども、これが翌々日の大騒動に発展したということです。
 長崎県知事は14日、清国領事宛に書簡を送り、この騒動が落ち着くまで水兵の上陸を差し控えてほしいと要望したが、いかなる理由か清国艦隊では上陸を禁じておらず、人数の制限もしなかったのです。
 14日は何事もなく過ぎましたが、実はこの日、上陸した清国兵の一部は骨董店などで古刀や古武器を購入、これを地元居留の清国人に預けて、翌日の騒動に備えていたようです。上陸にあたっては武器の携行が許可されていなかったための準備のようです。居留民が襲撃に加わったという情報もあります。
 15日の夜は、仕返しをしようとして300人ばかりの水兵が数十人ずつ隊をなして上陸、広馬場町の飲食店にたむろして、一部が通りかかった巡査を侮辱します。しばらくは巡査もこれに取り合わずにいたのですが、やがて警棒を奪おうとする者があり、やむを得ず抵抗したことから暴力行為が連鎖拡大して、周辺の飲食店などにたむろしていた刃物や仕込杖で武装する水兵たちが、3人の巡査によってたかっての暴行を加えました。
 このとき襲われた3人の巡査は、一人がその場で死亡、二人が重傷を負い、うち一人がかろうじて囲みを破って、付近の警察署に危急を告げました。
 ここから騒ぎはさらに大きくなり、水兵たちは80人ほどが一隊となって梅ヶ崎や濱野の警察署へ押し寄せようとし、道すがら通りかかりの住民へも暴行を加えました。通報を受けた巡査が駆けつけるものの、多勢に無勢で鎮圧できません。
 巡査たちは道路を大八車で遮断し、水兵たちを迎え撃ちます。道端の家々も門戸を閉ざすと、住民は石を持って屋根に上がり、石や瓦を投げて水兵たちを攻撃しました。負傷者が続出すると、もともと大半が酩酊している水兵たちは総崩れとなり、追い散らされて、一部は捕縛されました。
 これにより、清国人士官1名が死亡、3名が負傷しています。水兵も3人が死亡、50人余りが負傷しました。巡査側も警部3名が負傷し、巡査2名が死亡、16人が負傷しています。住民にも十数名の負傷者が出たとされています。
 騒動は午後11時頃には鎮りましたが状況は掴めず、周辺の住民は家財をまとめるなどして用心を続けました。 
 この長崎事件は当時、日本全国に一大ショックを与え、清国に対する日本人の敵愾心が、烈火のように燃え上がりました。
 この事件の背景には、朝鮮問題を巡る日清両国の紛争がありました。そこで日本を脅かすため、清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのです。当時の弱小国、日本は歯噛みしながら、なす術もなかったのです。
(引用終わり)
以上の引用元:http://hashishin.exblog.jp/8166659/

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【長崎丸山ニテ支那水夫暴動ノ図「絵本近世太平記明治21年6月24日出版 藤谷虎三著(きままに歴史資料集さまから拝借)】

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劉公島の「中日甲午戦争(日清戦争)博物館」に有る長崎事件の絵 コレを見ると武器を持たない清国水兵をチョンマゲの日本人が日本刀を手に取り囲み今にも虐殺が起こりそうな描写である。
中国では、こういう説明をしているのだ。
復元した定遠の記念館はここにある。→中華人民共和国山東威海市環翠区光明路28号-42号
以上、[ktgwkujのブログ]さまから拝借。

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当時の清国の水兵

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清国の装甲鑑・鎮遠日清戦争日本海軍に接収された状態(1895年)。
さて,私はまだ読んでいないのですが,以下のような資料があります。NHKいびりのネタ元に使えるかな?

 時間のある方は次をお読み下さい。当時の新聞や鎮遠定遠の写真など,十分な資料が収まっています。もうゲップが出るほど・・。

鎮遠定遠下駄に履き
鎮遠定遠下駄に履き」というのは、明治時代の戯れ歌の一節で、筆者が子供の頃に聞かされたことのあるものです。内容はほとんど記憶にないのですが、「富士のお山に腰をかけ、鎮遠定遠下駄に履き・・・」という、大男を歌った歌詞だったように覚えています。つまりは、この二隻が非常に大きいものだったというたとえな訳で、当時の日本では非常な脅威ととらえられていました。
清国兵は、日本に来てはしばしば不穏当な行動をしており、これは朝鮮のソウル、インチョンにおいても同様であると聞く。彼らは欧米の兵士にはおもねって無礼など働かず、日本人や韓国人ならばあざけって我意を通そうとする。韓国人は清人を怖れて言いなりになるから、朝鮮では騒動が起きないけれども、日本人は往々にして衝突する。
 これは、日本人が清国人の無礼を見逃せないからであり、一方で清国人が日本人を蔑視する傾向があることから、騒動が起こりがちなのである。

 まあ,今でもそうですな。中共が「支那と呼ぶな。中国と呼べ!」というのは,「俺が親分だと,認めろ!」っつうことですからねえ。日本の大学教授に支那人が多いけど,エラそうにお説教タレますしねえ。

 次の資料は,ちょっと学問的ですが,当時の日本の社会情勢をまとめていますね。「長崎事件」に対する福沢諭吉の意見の紹介もあります。
清国北洋艦隊の来航とその影響

この資料も連載だけあって,奥行きがあります。
日清戦争前夜の日本と朝鮮(14)

 まあ,コレ↑はたいした資料集でした。ここ↓に,目次を貼っておきます。
 http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/index.htm

 マ・・・,私には読み切れません。読んだ方は,どの辺にサワリがあるかなど,教えて下さい。なにせ,当方はシメキリに追われる身ですもので・・。

昨日,たまたま「坂の上の雲」を見ました。案の定「長崎事件」には触れませんでした。北洋艦隊の丁汝昌東郷平八郎が艦長室へ招かれる場面がありました。「物語の伏線」としてなんでしょうが,史実ではないでしょう。それに,「英語で」会話してましたねえ。
ありえないでしょ?

当時だったら,「筆談」でしょうね。
清国内でも地方によって発音や言葉が異なり、清国人同士でも筆談していたんですよ。 
あんなものを見て,
「英語は当時から,世界共通語だったのだ」
と勘違いする連中が増殖するんでしょうねえ・・。(2009/12/14)