アメリカ(ルーズベルト)の日本先制爆撃計画(2)

■5.ルーズベルト大統領の計画了承

 カリーの対中航空機供与計画は、一部修正された後、5月28日に提出され、陸海軍首脳部の承認を受けてから、JB-355計画としてルーズベルト大統領に提出された。ルーズベルトがサインをした計画書の原本が写真で公開されている。ルーズベルトは、計画書にこうメモして、承諾を与えている。
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「1941年7月23日。了解--ただし、軍事使節団方式を採るか、アタッシェ(大使館付武官)方式を採るかについては再検討されたし。FDR(JOG注: フランクリン・デラノ・ルーズベルトの頭文字)
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 軍事使節団方式か、アタッシェ方式か、とは、中国での米軍機による「特別航空戦隊」の将校たちを、どういう規模と形で送るか、という問題だった。当然、アタッシェ方式の方が目立たないが、人数が限られる。

 航空機の供与は、この年3月にルーズベルト大統領が成立させた武器貸与法によって合法的に実施できた。この法律は、大統領の判断で、あらゆる軍需物資を売却、あるいは貸与できるというもので、これ自体が中立国としての国際法違反の疑いがある。

 しかし、この武器貸与法によって、中国軍がアメリカの戦闘機や爆撃機を使っていても、米国内向けには「米政府が売った、あるいは貸したもの」と言い逃れができる。

 しかし人員まで提供したとなると、ごまかしは効かない。米軍軍人が中国で日本爆撃を行う「特別航空戦隊」を指揮していたとなれば、ルーズベルト政権は議会の承認を受けずに、実質的に米国を対日戦に参加させていたと非難されるのは確実である。

 これが冒頭で、アームストロング氏が「大統領は弾劾の危険を冒していたかもしれない」と述べた問題であった。したがって、JB-355計画は米国民に知られないように、極秘のうちに進めなければならなかった。


■6.民間義勇兵という擬制

 より深刻な人員問題は、アメリカの最新鋭戦闘機・爆撃機パイロットや整備士をどうするか、ということであった。飛行機は大量生産できるが、人材の育成には時間がかかる。

 中国空軍も中国人パイロットの育成を図っていたが、そのレベルは低いものだった。1941年3月に成都上空で行われた空中戦では、日本軍の12機と中国軍の31機の戦闘機が交戦した。

 中国軍はすぐに編隊を崩したが、日本軍は2機編隊で中国機を追い詰めた。1時間の戦闘後、日本軍機は燃料が不足し始めて帰還したが、目に見えた損害はなかった。一方、中国軍は15機が撃墜され、8名のパイロットが生命を落とした。

 中国人パイロットの技量がこの程度だったので、膨大な数の米国の戦闘機、爆撃機を中国で使うためには、それに相当するアメリカ人パイロットと整備士も送らなければならなかった。しかし、現役の軍人を送ることは許されない。

 そのために、現役の軍人を退役させ、あるアメリカ企業の中国現地法人である民間会社が彼らを雇って、義勇兵として活動させる、という擬制をとった。

 報酬は倍となり、また日本の飛行機を1機撃墜するたびに500ドル支払われるという好待遇だった。しかも1年の任期の後は、ふたたび、もとの地位で米軍に復帰できるという条件付きであった。

 アメリカから中国に供与された第一陣、戦闘機100機の要員として、100名のパイロットと200余名のサポート要員が1941年6月初旬、サンフランシスコから船で出航した。彼らはビルマのジャングルに送られ、最新鋭のカーティスP-40戦闘機の操縦訓練を受けた。
ルーズベルトは、JB-355計画にOKのサインをする昭和16(1941)年7月23日より前に、戦闘要員を送り出した訳である。
イメージ 1
カーティスP-40戦闘機
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同・フライング・タイガース(サメ面はディズニー社の謹製)。国籍マークは中華民国(国民党軍)に「偽装」。
イメージ 3
クレア・リー・シェンノート(英: Claire Lee Chennault、中国名・陳納徳、
1893年9月6日-1958年7月27日)は、アメリカ陸軍航空隊大尉で中華民国軍の航空参謀長である。日本では「シェンノート」と呼ばれることが多く、「シュノルト」とも書かれるが、正しい発音はシェノールト又はシエノールに近い。フライング・タイガーズ の募兵をアメリカで行い、中華民国(国民党軍)空軍を指揮した。サメ面野郎どものボス。ポパイのモデル?
■7.「理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には」

 しかし、爆撃機が中国に送られる前、12月8日に日本の真珠湾攻撃が敢行され、アメリカの「特別航空戦隊」は、戦闘機のみの戦隊として、日本軍に戦いを挑んだ。これが「フライング・タイガーズ」と呼ばれる「アメリカ人義勇兵部隊」の正体である。
義勇兵」とは、好きで兵隊になった連中です。だから、国の軍人恩給は出ません。
1991年、フライング・タイガーの空軍正規兵が、自分たちは米空軍の正規兵であり、当然の権利として軍人恩給を求めた裁判で、米国最高裁は原告の主張を全面的に認めたことで、日米開戦前に、米国は空軍正規兵に日本軍を攻撃させていた事実が明らかになったのです。


日本政府・軍部は、アメリカの先制爆撃計画の情報をつかんでおり、真珠湾とフィリピンの米軍基地、それに中国内陸部への攻撃によって、米爆撃機の中国移送を不可能にさせた。


昭和16(1941)年7月21日:日・仏印(ヴィシー政府)防衛協定成立。
       7月23日、ヴィシー政府の許諾を得て日本軍が「南部仏印進駐」開始。
       7月25日この報復措置としてアメリカ・ルーズベルト大統領は、在米日本       資産を凍結。海軍中将豊田貞次郎商工相は、この凍結が事実上の対日石油禁輸であることを直ちに理解したが、当時の頭の堅い他の閣僚には事態がよく判らなかった。
 以後、アメリカとこれに同調する英蘭の対日経済制裁が始まる。

 日本の歴史教科書は「南部仏印サイゴン・現ホーチミン市周辺)進駐」がアメリカを怒らせ、戦争に突入したのだから「日本が悪い」と、ルーズベルトの言い分で書いています。日本軍は援蒋ルートを抑えるために、前年に北部仏印に進駐していました。ちなみに、サメ面野郎どもの任務が、援蒋ルートの防衛です。英米軍に南部仏印を押さえられたら、北部仏印の日本軍は「袋のネズミ」です。ルーズベルトは、やる気満々でしたからねえ・・。
 それにしても、
アメリカの言い分で書かれる日本の「歴史教科書」は、有害そのものです。
執筆者の手抜きなんですかね。
 1942年4月18日、米空母から発進したB-25爆撃機16機が東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸に爆弾を投下したが、目立った損害は与えられなかった。その後、燃料が切れたために、1機はウラジオストックに、4機は中国東部沿岸地方に不時着し、残りは乗員がパラシュートで脱出し、全機が失われた。

 これは、日本爆撃計画を不完全になぞらえた作戦であるが、中国と西太平洋の制海・制空権なくしては、もともと無理な計画であった。米軍が日本空爆を実施したのは、1944(昭和19)年7月のサイパン島攻略後、同島からB29を発進できるようにした後であった。

「日本による一方的かつ、卑劣極まりない攻撃」とルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を非難したが、その1年も前から自らリーダーシップをとって、日本への爆撃計画を進めさせていた事実は、闇から闇に葬られた。しかしアームスストロング氏の労作は、米国の公文書を使って、その事実を暴きだした。

 この経緯は、東京裁判で日本無罪論を主張したインドのパール判事の次の言葉を思い起こさせる。
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 時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。[b]
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b. JOG(059) パール博士の戦い
 東京裁判で全員無罪を主張
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog059.html


 私のコメント
 この記事は、このブログの「真珠湾攻撃」に先立つ、ルーズベルトの日本爆撃計画(動画)! の補足資料としてまとめたものです。
 この件は、「真珠湾攻撃70周年記念」として、先月もブログなどで話題になりました。ご紹介した伊勢雅臣氏の論評も、その1つです。


アメリカの国立公文書館で公開されて41年、
日・米のマスコミで紹介されて20年、

JB-355計画は専門家ならボンヤリした人でも旧聞に属する情報なんですな。
 それでも、日本のマスコミ・近代史家・政治家・教育者はまともに取り上げようとしません。
 日本の指導層は「東京裁判史観(日本悪玉論)」にドップリ浸かって惰眠をむさぼっています。時々、こういう記事を書いて彼らの不勉強を指摘した方がよいでしょう。

 まあ、本当は不勉強じゃないんですがね・・・。