司馬遼太郎  批判






記録を見る限り、日本側は中国側に対し、貴国の立場は立場として尊重しますが、当方にも当方の立場があるので、どうか当方の立場も認めて下さるようにお願いします、という態度で終始一貫しているように見受けられた。しかしこんなことを中国側に言ったとしてもほとんど何の意味もなさないだろう。
中華思想を暗黙の前提にしている共産主義国の相手に対し、貴方は貴方、私は私と住み分けしましょうという相対主義的立場を言うことで何かの譲歩が引き出せたとしても、それは錯覚であって、歴史認識の一部を認めてもらっても――例えば田中上奏分のような今さら問題とすべきではない偽史の承認、等々――全体としての歴史観は中華文明の一部にすぎない東邦の小国の言い分を聞く理由はない、とはねつけられるのが落ちである。
八木氏らの中国側との意見交換は事実その通りに経過している。

 「新しい歴史教科書をつくる会」を創設した本来の精神は、「一文明圏としての日本列島」を堂々と胸を張って言いつづけることに外ならない。自己を普遍と見なし、決して特殊と見ないことである。中途半端な受け身の姿勢、謙譲、相対主義的立場をとらないことである。中国や西欧を相手にしたときにはとくにそうである。相手の尺度をいったん受け入れたら無限後退あるのみである。理解と寛容を美徳とする心やさしい日本人には難しいかもしれない。しかし中国や西欧は日本に対し、理解と寛容ではなく、まずは主張と決めつけから始めることを知っておくべきである。



藤原 中国政府がグーグルのサーバーに侵入を指示していた情報は、この事件の背景に盗聴技術の問題があることを示し、グーグルの検索サービスの撤退の理由が、盗聴用の「バック・ドア」のせいだったと判明した。中国が戦略的に「超限戦」を準備しており、それがグーグル追放劇の背後にあった。

大原  その「超限戦」はどんな内容ですか。

藤原 北京政府が考えている新しい戦略構想で、中国の軍部が二一世紀の戦争を想定して生み出したソフトな国家総動員体制です。軍事力を使った武力戦争だけでなく、外交戦、金融戦、資源戦、情報戦、心理戦、文化戦などを組み合わせて、世界制覇を成し遂げようという覇権主義の思想です。
 これは英国がかつて駆使した世界戦略で、英国ではウェーブとかコモンウェルスと呼んでいる。英語をベースに科学と技術を動員して金融や情報を戦力にする発想で、それが大英国帝国による覇権主義を確立させ、二〇世紀は米国がその代理人として行動しました。



売国のうまみ
「政治家と裏社会」日本社会を裏で牛耳ってる黒幕はCIAの手先「電通博報堂」である!!
http://50064686.at.webry.info/201203/article_23.html

Unknown (転載一部 西尾インターネット~日録)
2012-07-19 11:38:16
>>歴史を語ってじつに簡にして要を得ている二例を挙げてみよう。

日露戦争後、日本は李氏朝鮮保護国とした。そのころの話だ。日本はそれまでこの国に自立を促してきたが、この国はそれを嫌って支那に擦り寄って支那の属国だもんと言ったり、その支那が頼るに足らないことを日清戦争で教えてやると、今度は日本が最も恐れるロシアになびいたり。それで日本は日露戦争も戦う羽目に陥り、二つの戦争であわせて12万人もの将兵が異国の地で散華した。朝鮮にこれ以上愚かな外交をさせないというのがこの保護国化の目的だった。」(第四章「朝日の浅知恵」)別に目新しい歴史観ではない。自国史を主軸に考えれば認識は必ずこうなる。これでも迷わずに二大戦争と日韓関係をこれだけピシッと短く語った文章の例は少ない。もう一つはアボリジニ(原住民)の虐殺の歴史を持つオーストラリアについてである。「ニューサウスウェールズ州の図書館に残る1927年の日記には『週末、アボリジニ狩りに出かけた。収穫は17匹』とある。600万いたアボリジニは今30万人が生き残る。ナチスホロコーストを凌ぐ大虐殺を行った結果だ。困ったことにこの国はその反省もない。この前のシドニー五輪の開会式では白人とアボリジニの輪舞が披露された。過去に決別して友愛に生きるということらしいが、登場した“先住民”は肌を黒く塗った白人だった。その翌年、アジアからの難民が豪州領クリスマス島に上陸しようとした。ハワード首相は、『難民が赤ん坊を海に捨てた』と拒否、難民を追い返した。しかし後に『赤ん坊を捨てた』という報告はまったくの作り話と判明する。ここは白人の国、有色人種を排除するためなら首相でも平気で嘘をつく。」(第四章「害毒国家は毒で制す」)オーストラリアはたしかにこういう国である。首相までが公然と反捕鯨の旗を振る国だ。鯨の知能は人間並だという勝手な理屈をつけて動物界に「序列」をつけるのと、人間界に人種差別という序列を持ち込むのとは、同じ型の偏見である。囚人徒刑囚の捨て場から国の歩みが始まった取り返しのつかない汚辱感と、原住民の虐殺だけでなく混血と性犯罪の歴史が元へ戻したくても戻らない汚れた血の絶望感とが、この国の白人たちに背負わされてきた。第一次世界大戦より以後、最も不公正な反日国家だった。アジアの中で近代化の先頭を走った日本を許せないという、自分の弱点と歪みを怨恨のバネにした卑劣な国々に韓国と中国があるが、高山氏が両国に加えてオーストラリアを卑劣の系譜に数え入れているのはじつに正当である。解説文 西尾幹二Unknown (Unknown)

2012-07-19 13:53:49
日本は攻撃されたから応戦、反撃していた!


>事件は日中戦争の始まった1937年、旧日本軍が、上海から国民政府の首都・南京を攻略するなかで起きた。

蒋介石軍が上海国際共同租界の日本租界のみを攻撃してきて日中戦争支那事変)が始まったという重要なポイントが書かれていません。
■中国における日本租界は、
1895年(明治28年)4月17日の日清講和条約(下関条約)や、1896年7月21日の日清通商航海条約により設置されていました。1901年9月7日の北京議定書(条約)により欧米列強の軍隊とともに自国民の保護の為に日本軍も中国に駐留していました。日本は欧米と同じように条約によって中国に租界を設置し、日本は欧米と同じように条約によって中国に軍隊が駐留していました。
◆1936年(昭和11年)12月12日、西安事件
もともと蒋介石は日本に留学経験もあり対日戦には消極的で 共産軍を攻撃していました。蒋介石陝西省の延安に追い詰めた壊滅寸前の共産軍に総攻撃をかけるため、彼の部下である張学良(東北軍)を陝西省省都西安に送り込んだのですが、張学良は共産軍との戦いに消極的であったため、あとから蒋介石西安に督戦(監視)に行ったのですが、すでに共産党に寝返っていた張学良に捕らえられ共産軍の捕虜となってしまいました。蒋介石は助命の代わりに共産党掃討をやめ、一緒に日本と戦う事を約束して第二次国共合作が成立し、絶滅寸前だった支那共産党は生き返りました。
◆これにより1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に進入し、上海国際共同租界の日本人居留区域のみを包囲。(上海国際共同租界には英米仏などの租界もあった)日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが、反日・親蒋介石で固まっていた列国は全く取り上げようとはしませんでした。翌8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し、突如、機関銃による射撃を開始して第二次上海事変が始まりました。

※1928年の不戦条約は米英仏の要望で自衛権は除外されていました。

英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。以後は日本軍を除く英米仏軍が上海国際共同租界の治安維持を担当するという理不尽な提案を行ないました。本来ならば1932年・上海休戦協定に違反して協定線内に進入して攻撃してきた蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋でした。

この第二次上海事変支那事変の始まりであり、大東亜戦争の始まりでした。

日本本土で援軍(上海派遣軍)が編成され、上海へ向かいました。蒋介石は日本軍に返り討ちにされて南京に逃げました。日本軍は追撃して南京を陥落。蒋介石武漢に逃げました。日本軍は追撃して武漢も攻略。蒋介石重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行ないました。

これが支那事変です。

支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ第二次上海事変であれ、どちらにしても中国側から攻撃して来たのです。戦闘は停戦協定を結ばなければ終われません。蒋介石は日本からの和平交渉の申し入れを拒否し続けていました。アメリカなどは中国(蒋介石)に武器を提供し続け、資金も提供し続けていたので、蒋介石は日本からの和平交渉の提案を何度も拒否して戦争をやめようとしなかったので、アメリカが中国に武器を輸送していた援蒋ルートを遮断するために、日本は仏印と平和的に話し合って、日本軍は仏印に進駐しました。1940年8月30日の『松岡-アンリ協定』により北部仏印進駐。
1941年7月23日の『日・仏印共同防衛協定』により南部仏印進駐。
―――――――
・するとアメリカが日本への石油禁輸をした。
・1941年8月8日、日本側から日米首脳会談を提案しましたがアメリカは無視。
・8月18日、豊田外相がグルー駐日米大使に首脳会談への協力を
要請しましたが無視され、 (中略)

~人種攻撃、原爆攻撃、人種制圧の世界への見せしめ誇示が目的だった。