メモ

満州事変について中共が騒ぐので近代史を知っておく。近代史で絶えず謝るようではまともな外交は出来ない。中共は日本人が漸く真の近代史に気づきだしたので隠そうとしている。
日本の大陸政策

江戸時代から明治以降、日本の最大の問題はロシアの南下侵略だった。このためロシアの攻撃ルートである朝鮮半島をロシアに渡さないために、朝鮮の宗主国である清朝日清戦争を戦い朝鮮を切り離し、さらに朝鮮を属国化するロシアと日露戦争を戦った。そして米国の仲介によりポーツマス条約で、朝鮮半島の支配権とその上部地域である南満洲鉄道などを獲得し、対ロシア国防緩衝地帯としたのである。
したがって日本の朝鮮併合は、ロシアの属国となった朝鮮を自衛上日本の属国としたのであり国際社会における正当防衛である。一般的な植民地非難は外れているので注意したい。朝鮮は歴史上、元寇に見られるように大陸勢力の手先として敵の日本攻撃を道案内し、実際にも攻撃(元寇の朝鮮兵4万)してきた明らかな敵である。

当時の満洲には、三つの権力があった。それは長大な東清鉄道をもつ最強のロシア、南満洲鉄道を持つ日本、そして現地の自然発生軍閥張作霖だ。軍閥とは私兵集団のことである。盗賊自警団の集団だ。(参考書:「荒野の花」石光真清著中公文庫)日本軍は国際協定により満洲の鉄道地域防衛用に、1.2万人の軍隊を持っていた。これが関東軍である。この関とは万里の長城の端である山海関の意味である。
その後の変化では、1921年ロシア帝国が滅びソ連になった。日本は張作霖と提携して最強のソ連に対抗していた。次の起きた事件は1928年の張作霖の変死である。これは張作霖特別車両の屋根と通過橋脚に装着された爆薬による列車事故であるが、英国特務機関のチェンバレン首相あて報告は(大英博物館所蔵)黒幕は張と対立するソ連KGBで日本軍人(河本大作)がダミーに使われたと判断している。日本には協力者を暗殺する理由はない。
なおこの時、北京にいた後継者の張学良は変装し一週間かけて奉天に到着している。これは日本軍が父親を殺したのではないことを知っていたからである。知っていれば外国に高飛びしているはずだ。

1929年張学良は、ソ連に挑戦し、東清鉄道の武力回収をおこなった。これに対しソ連沿海州赤軍満州に投入し、張学良軍を撃破した。大打撃を受けた張学良はハバロフスクで講和した。すると張学良は大々的に排日行為を始めるのである。そして今のように、満洲の日本人の経済活動を圧迫し、迫害を始め、小学生の通学まで危険になった。そして旅行中の中村大尉を殺害するに至った。そこで在満日本人は、関東軍に国民を守るように厳重に要請した。
そこで関東軍の石原大佐などが中心となり、1931年張学良軍の軍事基地を攻撃し、張学良を支那本土へ追い払ったのである。この時、石原大佐らは鉄道事故事件を起こして偽装した。国際社会ではよくある手である。

すると、1932年満洲に野心のある米国は、早速現状変化を認めないというスティムソン宣言を出した。しかし日本は満州国を作った。これをみて白人植民地宗主国リットン調査団を送り自分たちにも満洲を統治させるように、国連工作を行った。しかし日本代表の松岡洋右満洲は日本が日露戦争でロシアを駆逐して獲得した権益であるから、断固拒否し国際連盟を脱退したのである。
そして世界恐慌で苦しむ日本は満州を生命線として投資し開発し大成功を収めた。特急アジア号はそのシンボルである。当時満州を訪ねたドイツ記者が記録を残している。
その後張学良軍が万里の長城地帯から満州に侵入するので、1933年蒋介石とタンクー協定を結び、さらに1935年梅津・何応欽協定を結び、国交を開設した。満洲問題は終わったのである。日本と蒋介石の最大の敵は北方のソ連であり敵対していたわけではない。

1936年さらに大きな問題が支那で発生しようとしていた。それがスターリン支那事変工作である。欧州ではヒトラーが強大化していた。そこでスターリンは東西挟撃を防ぐために、蒋介石に日本を攻撃させるべく、蒋介石を捕える西安事件(1936.12)を起こし、それが支那事変(1937.7)に発展してゆくのである。
満洲は1945年、米ソのヤルタ協定で、ソ連が代理占領することになり、占領したがスターリンは違約して、蒋介石ではなく、毛沢東に渡したのである。

中共の日本非難には、勝手な歴史の宣伝である。満洲は誰のものなのか。支那人万里の長城の外であるから、支那人の土地ではない。清朝を作ったのは、満州人であり支那人ではない。清朝はモンゴル人の元朝と同じ外来王朝である。また清朝衰退後の満洲はロシアが支配していた。これと戦ったのは日本である。支那人は何もしていない。彼らは日本が犠牲を払いロシア人を追い払い、治安を安定させた満洲に入り込んできた民族なのだ。
中共が必死に「偽満洲国」と云うのは、偽物ではない証拠である。真実だから隠蔽しようとするのだ。本来支那人満洲に権利はないのだ。ロシア人の満洲占領には沈黙している。
満州事変は複雑な大変化の一部であることを知っておこう。支那人は論理に弱い民族だ。論理は偽装で力にのみ従うからである。

http://pub.ne.jp/surugasankei/


2012/09/17(月) 10:04:21 | URL | # #- [ 編集 ]

長江引き揚げ大作戦
http://www.geocities.jp/sada5ro/Chinese_the_Liar.html#

この記事
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のコメント・「長江引き揚げ大作戦」は、コピーできなかった。

揚子江 長江 在留邦人 日本人 引き揚げ」での検索
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGLS_jaJP408JP409&q=%e6%8f%9a%e5%ad%90%e6%b1%9f%e3%80%80%e3%80%80%e9%95%b7%e6%b1%9f%e3%80%80%e5%9c%a8%e7%95%99%e9%82%a6%e4%ba%ba%e3%80%80%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e3%80%80%e3%80%80%e5%bc%95%e3%81%8d%e6%8f%9a%e3%81%92

反日」はWGIP起源
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/665e5106cbae3257e8863c69262e3b33

20 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/09/18(火) 17:07:45.65 id:zbGbdX0p
毛沢東はかつて 「仮にすべての根拠地を失っても、東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」 と語った。
実際、戦後の満洲は中国の重工業生産の九割を占めた。 東北地方は国有企業が中心で、
例えば大慶油田は純収益の九○パーセントを政府に上納、売上高の6○パーセントが税金というふうに搾取されていた。 
これは 「東北現象」 と呼ばれる。
満洲帝国の遺産を食いつぶしたのちはじめられたのが、改革開放路線であったのである。
「世界史の中の満洲帝国と日本」(宮脇淳子・著)

:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん:2012/09/18(火) 17:17:42.94 id:zbGbdX0p
中華人民共和国成立はソ連が中国に譲渡した日本帝国の満州資産のおかげ
(およそ50~67兆円相当ガス弾含む)

当初、国民党軍の圧倒的優勢
 1945.8.~10.    上党・邯鄲戦役 - 山西主導権
 1945.10.~1946.1. 綏遠戦役 - 内蒙古地区主導権
 1945.10.~1946.1. 徐州・済南戦役 - 山東主導権
更には、 
 1946.~1947.6. 山東・峡北、国民党掌握 
 1947.3.共産党拠点・延安陥落 「半年以内に戦争を終結させる」
しかし、このような華北における国民党軍の優勢に反して、
 ★満洲 - 唯一、共産党軍が優勢を保つ ∵ ソ連軍の消極的支持+北朝鮮及び満洲(?)における旧日本

軍兵器の共産党軍への流入
→ 国民党軍は、内戦の総仕上げとして、また、共産党軍は決戦の場として、満洲を選ぶ
★ 1947.8. 国民党軍東北作戦開始 → 共産党軍の戦略的後退・「攻勢的防御」による、国民党軍主力壊滅
→ 1948.11.瀋陽陥落
以後、主力を失った国民党軍は敗走を続ける → 1948.4.延安失陥、1949.1.北京陥落、1949.5.上海陥落、★

1949.4.南京陥落、1949.6.福州陥落、1949.11.広州陥落、1949.12.重慶陥落
CF.渡江作戦 - 台湾の危機感の一因
結果、
 ★1949.10.中華人民共和国成 → 中華民国政府、台北

国共内戦では当初国民党軍が優勢で共産党側は負けていた。
しかし東北で大どんでん返しが起こった。
★原因は旧満州の資産(軍全ての装備)がソ連経由で中共に流れたため。
(およそ50~67兆円相当ネジから毒ガス弾、戦闘機、戦車、野砲、軍服、米、機械一切合財全部だ)
国民が清潔な共産党を支持したから共産党が勝ったというのは疑わしい。

★…こうしてみると日本の満州資産(50~67兆円)のおかげで今の中国共産党はあるんだな。
★解放軍には日本軍将校も協力して空軍設立、戦闘にも参加している。
満州軍捕虜が黙ってソ連の収容所で5万死んだとは信じがたい
戦後すぐのアフリカ海外鉄道援助も満州鉄道があったからだしなww
★日本は中華人民共和国成立に恐ろしいはど貢献したんで中国は感謝しなきゃなww

7月17日 蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為であり「最後の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明。これを受けた我が国は、対日全面戦争を決意したものと判断した。7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の我が部隊が、張自忠の部隊から攻撃を受け多数の死傷者を出す郎坊事件が発生。蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や南苑付近でも各種小事件が発生、26日には広安門城壁上からトラックに分乗した我が部隊を射撃する広安門事件が起こった。さらには29日安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260人を惨殺する通州事件が発生した。 ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、不拡大主義者・作戦部長石原莞爾も事ここに到っては決断せざるを得ず、居留民・権益保護のための動員派兵が決定されたのである。

8月15日 帝国政府は声明を発表、支那軍の暴挙を膺懲して南京政府の反省を促すのが、今次出兵の目的とされた。