朝鮮戦争ノート

この記事は、編集していない資料集です。
 
朝鮮戦争勃発時、そのきっかけとなったのは韓国軍10万で日本全土占領という目的で南方に移動していた軍の輸送待ちをとらえた北朝鮮軍の侵攻であった。当初は中国は介入していなかったのにもかかわらず一気に釜山まで追い詰められたのはそれが原因であった。これは米軍にも極秘の作戦だったのである。もし実現していたら日本は悲惨なことになっていただろう。 削除
2014/10/17(金) 午前 0:59 tatsuya11147
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朝鮮戦争の原因は、日本では(GHQ下で日本を支配していた)左翼(マスコミ・社会党日教組・総評など)に隠蔽され、多くの日本人は真相を知らない。
「韓国がマル腰の敗戦国・日本を侵略しようとしたことが、朝鮮戦争の発端になった」というのが真相だ。
李承晩政権が李承晩ラインで竹島を占領したとき、銃撃を加えるなどの「日本の漁民に見せたむき出しの敵意」は、このような背景があったことを理解すれば納得がいくというものだ。

なぜ、左翼は「日本人にとってゆゆしい朝鮮戦争の発端」を隠蔽したのか?
これは私見だが、私はこう考える。

この事実を日本国民が知れば、「憲法九条が、吹っ飛んでしまうからである。

なぜ、九条にこうもこだわったのか?
「彼らが『日本国民の戦争コリゴリ感』につけ込んだ売国奴だったから」としか、言いようがない。
「平和主義」で語られる内容は、高邁な理想ではなくして、単なる「厭戦感」にすぎなかった。もう空襲はコリゴリだという・・・。
「日本をソ連の衛星国にするためにソ連軍を引き入れる」際に、「日本軍」がいては邪魔になる。
国民は「日本軍の味方」になるに決まっているからだ。
これでは、「ソ連軍を引き入れる左翼は売国奴であるという実態」がマル見えになってしまう。
「国民に支持された革命」という形にならないではないか。
日本に軍隊があっては、「革命共産主義政権の樹立)」は国民に支持された形をとれないのである。 
 
朝鮮戦争勃発の年の年末、スターリン毛沢東金日成は日本侵略の謀議を行った。日本から内応するのは、日本共産党であった。
日本の英字新聞「ジャパンタイムズ」によると、英国国立公文書館所蔵の文書に、米陸軍の情報官が述べた内容が記されている:
1950年12月3日ごろ(朝鮮戦争の最中)、スターリン毛沢東金日成がモスクワに集結し、5日間におよぶ秘密会談が行なわれ、
日本侵攻についての詳細な計画書が作成された。この情報によれば、日本北部を50万人のソ連軍が、日本中部を50万人の(北)朝鮮軍が、日本南部および台湾を100万人の(共産)中国軍が一斉に攻め入るというものであった。日本列島に攻め入る際、3カ国軍は日本共産党青年団の協力を受けるはずであった、という。
 
 朝鮮戦争日本共産党武装闘争の位置づけ()
朝鮮戦争は、1950年6月25日に勃発した。仕掛けた側が北朝鮮ソ連・中国という社会主義3カ国であったことは、歴史の真実として今や明白になっている。スターリン毛沢東金日成ら3人は、韓国・アメリカ側が最初に侵略したとする20世紀史上最大のウソの一つをつき続けた。世界のなかでも、そのウソにすっかり騙され、信じ込んだ度合いの高さは、隣国であったにもかかわらず、日本の左翼全体、ジャーナリズムが一番であろう。その原因には、日本における戦後ジャーナリズムの左傾化の影響があった。
 
 それは、社会主義を名乗った体制・政党が行なった戦後最初侵略戦争だった。それに呼応して、日本共産党が、侵略戦争加担武装闘争を、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間展開した。日本共産党は、当時、ソ連中国共産党にたいして、自主独立・対等平等関係どころか、完全隷従状態にあった。そこから、日本共産党は、スターリン毛沢東による「後方基地武力かく乱戦争決起」指令によるものとはいえ、世界の資本主義国共産党の中で、侵略戦争行動を遂行した唯一の政党になった。
 
カッセーゼのレーリンク判事へのインタビュー
テレケル由来
【被告と日本人弁護団の態度】

●C:東京裁判の被告の態度はニュルンベルグとはずいぶん違いますね。
ニュルンベルグの被告は国家ではなく、
自分の生命、自分自身の立場を守ろうとしたのですから。
 
■R:そうです。ドイツでは、人々はなるべくヒトラーから距離をとり、
彼の行為は忌むべきものだといっていました。
ヒトラーを守ろうとするものは誰もいませんでした。

日本人は、アジアと世界で、アジアを解放し、
世界を変えるためにとられた日本の行動を擁護しました。
そして、こうした観点から彼らは行動を起こしたのです。

●C:日本人被告は、いわば一種の宿命論者だったのでしょうか。
あえて有罪となることを覚悟していたのですか。
自分が絞首刑になろうとなるまいと大きな問題ではなかったのですか。

■R:ある人が日本人弁護団の態度を称して、
「被告の墓に優雅に花を手向ける」人々と言いました。
ある意味でこれは事実です。彼らは諦めているようでした。

彼らは戦争に負けたのだから、
自分たちの行動が非難されることがわかっていたのです。

彼らはただ、ある観点からは自分たちの行動が理解され、
おそらくは正当化されることを世界に示したかったのです。

●C:被告たちは自分たちの威厳や名誉を保とうとしていると感じましたか。
つまり、彼らは臆病ではありませんでしたか。

■R:臆病? いいえ、そういう人はひとりもいなかったと思います。
彼らには威厳がありました。

2年以上、彼らの正面にすわっていて、言葉はかわさずとも、
彼らの動きやしゃべっている様子はわかりました。
彼らには信条がありました。

あなたが日本人の内側に身をおいてみれば、
彼らの多くが大衆に尊敬されていたことが理解できるでしょう。

http://kt-yh6494.blog.so-net.ne.jp/2014-01-20
 朝鮮戦争勃発時そのきっかけとなったのは韓国軍10万で日本全土占領という目的で南方に移動していた軍の輸送待ちをとらえた北朝鮮軍の侵攻であった。当初は中国は介入していなかったのにもかかわらず一気に釜山まで追い詰められたのはそれが原因であった。これは米軍にも極秘の作戦だったのである。もし実現していたら日本は悲惨なことになっていただろう。このような経緯を知る自衛隊は韓国軍を嫌悪し殲滅演習を繰り返している。
 
arnkcexさん          2011/6/2321:55:45
朝鮮戦争時、日本はどんな立場だったんですか?
アメリカの支配下だったんですか?
かなり語弊のある言い方ですが朝鮮戦争があったから日本は経済発達したのですか?武器を作ったりしたからですか?

ベストアンサーに選ばれた回答

編集あり2011/6/2708:44:30
朝鮮戦争北朝鮮金日成の朝鮮統一の野望で始まったことはご存知でしょうが、何故、其の実現を、当時の金日成が抱くようになったかの理由・誘因、状況についてはあまり知られていないようです。
(前後の事実経緯を知れば、事の本質が明確になります)

当時、大韓民国の初代大統領となれた李承晩は、その反日感情からGHQ支配下にある日本領の対馬奪取を企て、韓国軍を北朝鮮国境から南方(釜山で揚陸訓練)に移動させましたが、これを嫌ったマッカーサーが激怒し、軍事援助を停止すると共に、韓国軍の後ろ盾であった在韓米軍(第24軍本隊)を韓国から撤退させ、力の空白が生まれたことが、金日成に韓国への出兵を決断させました。 因みに、当時、李承晩政権は総選挙で惨敗していました。
開戦当日、北朝鮮軍は国境地帯で演習実施中にも係わらず、韓国軍は休日だったので、開戦後、たった3日でソウルは陥落しました。 以降、韓国軍はずるずると敗退し、釜山近郊にまで追い詰められていきました。

その後、トルーマン大統領の命令で、やっと米軍に助けられて朝鮮戦争終結した後、あろうことか、李承晩が日本から竹島を奪取したのはご承知の通りです。
当時、日本はGHQ支配下(米軍占領下)にあり、外交権、軍事力を持たなかった日本にはなすすべが有りませんでした。

朝鮮戦争時、日本が軍需景気に沸いたことは事実ですが、米軍の兵站基地としての役目を果たしただけで、結果的に潤っただけです。
誤解されないように、敢えて付け足しますが、世界中、何処の国が、自国(日本)の領土を侵略しようとしていた国(韓国)が戦争を開始したからといって、其の国(韓国)の兵站(支援)の役目を積極的に果たす訳がないじゃないですか。 なお、民生品のみ、米軍の要請に従って輸出していました。(GHQ占領下の、敗戦で非武装化された日本は軍需用品の製造を許されていませんでした)

どうですか?
 「朝鮮戦争北朝鮮が一方的に仕掛けてきた戦争で、韓国は全くの被害者だ」とか、
「韓国は自由主義陣営の一員として、共産陣営と代理戦争を戦わされた」とか、
「日本は朝鮮戦争で儲けた」という言い方が、
果たして物事の全体を正しく捉えた正当な言い分となっていますか?

これが、反日勢力が良く使う、
「一部の真実を切り出し、全体を自分達に都合よく装う」
という巧妙な詭弁の典型的な一例です。
賢明な皆様には、事実に基づき、全体像/経緯を把握することで、
物事の本質を正しく理解するように心掛けて欲しいと思います。
 
 
350. 名無しさん@ほしゅそく   2014年09月04日 09:06  ID:.2Bc.kxS0 このコメントへ返信

今日本で使われている右翼と左翼という言葉は非常に定義があいまいです。
右翼に対しては『悪い事=怖い=暴力=戦争=徴兵=軍国化=国旗=国歌』と、レッテルを貼り、
「日本」とは謝り続けなければならないと報道され、
日本の象徴であるものは全て「悪」であると
教育・洗脳されました。

一方、左翼はといいますと「日本を愛する心"国旗の掲揚と旗振り" = 戦争 = 敗戦 = 正義」
と定義付け、「右翼は国を戦争に導き、国民を不幸にする」 という宣伝を大々的に行い、
日本では戦後、日本のことを貶める思想が社会を席捲しました。 
自称リベラルという人達が「日本貶め運動」を扇動していた
ために、左翼の活動はは日本を貶める活動とだぶることが多かったと思います。
 『左翼 = 正義 = 体制に縛られない = 平和主義』 と日本国民にメディアを通して刷り込み、
日本の左翼化にはダンマリ若しくは見ないフリ、そして正当化されました。

でもずっと日本は朝日新聞をはじめとする反日メディアにより「日本を愛する。日本を大切にする」と
言ってはいけない社会に戦後をきっかけに作り変えられました。
「日本を否定する。日本を貶める」ことがインテリの証左であった時代でした。

でもそれは 「親を否定し親を貶める」 精神構造と共通します。
でもそれは 「子を否定し子を貶める」 精神構造と共通します。

リベラルとは本来「体制にしばられない」という意味です。
リベラルでありながら、愛国者も当然いたはずです。
でも長年の日本の近代史では、リベラルと反愛国は同じような分類にされ、彼らも徐々に反愛国者
つまり売国奴国賊達、そして日本を侵略したい国に洗脳されてしまいました。

今の日本人 は二つに分けられることができます。

「日本のことを愛せる」か「日本のことを愛せない」か。です。
 
 
★★★ 朝鮮戦争が起きた原因 1950年6月25日 ~ 1953年7月27日 ★★★

・1945年10月、南朝鮮大韓民国臨時政府、臨時大統領に李承晩が就任。
1947年以降、ポツダム宣言を受けたサンフランシスコ講和条約草案(特に日本の小島嶼の領有権に関する条項)過程で、韓国の李承晩政権は活発に米議会でのロビー活動を展開しながら、米国政府に対しては(サンフランシスコ講和条約草案において)、再三に亘って執拗に対馬竹島を日本領から外すように要求していた。ところが、米国務省(外務省)は、韓国政府の要求は再三にわたり認めないと回答。

1948年、8月に韓国、9月に北朝鮮がそれぞれ独立政府樹立、1948年12月に国連が合法政府として承認。

・1948年8月15日、大韓民国の建国。李承晩大統領が就任。米軍撤退開始。
1948年8月18日 李承晩大統領、「対馬島返還を日本に要求」武力行使も示した
ttp://gremix.tumblr.com/post/48452264979/08-30-1
1949年1月7日、李承晩大統領は「対馬領有」を宣言。「対馬は350年前に日本に奪取された韓国領土」と領土権を宣言。李承晩大統領は、政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求、「対馬領有」を宣言し李承晩ラインを宣言した
http://livedoor.blogimg.jp/v168/imgs/a/9/a982b67a-s.png
(李承晩ライン 地図)
朝鮮戦争】 「対馬は350年前に日本に奪取された韓国領土」と主張、1949年1月7日に対馬領有を李承晩大統領が宣言
http://www.logsoku.com/r/news4plus/1346539169/972-
【韓国】 1949年当時から「李承晩大統領が日本に対馬島返還を何回も要求」軍事侵攻を示す
http://livedoor.blogimg.jp/v168/imgs/a/9/a982b67a-s.png


【韓国】 韓国議会、対馬の即時返還を日本政府に要求 「対馬は地理的、歴史的にも韓国の領土は明らかだ」★3
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1363952421/377-   <韓国 聯合ニュース2013.03.22>

そうしていたところ1949年1月、李承晩は正月の年頭記者会見で、対馬、竹島の領土声明を発表。韓国は連合軍の一員だとして「朝鮮進駐軍」を自称した。更に戦勝国の韓国として「朝鮮進駐軍」として日本に駐留する権利があると宣言した。朝鮮半島南部で大演習を装い対馬、九州北部への侵攻計画を実行に移し始めた。それを知ったマッカーサーとトルーマン大統領が激怒して李承晩政権に警告を発した。「もし韓国が、米国が占領統治中の地域に軍事進駐するなら在韓米軍は朝鮮半島から引き揚げる」と警告したが、李承晩が無視したことで、
1949年6月に米軍は韓国から完全撤退した。
更にトルーマン大統領は国連での韓国の国連加盟容認から一転して韓国加盟を否決した。
1949年1月:李承晩は政府樹立直後の新年記者会見で日本に対馬島返還を要求。軍事侵攻をも表明。
 
1949年2月:韓国軍一斉に釜山に集結開始(南部へ韓国軍大移動)
1949年3月:韓国軍は釜山で揚陸訓練開始。韓国にいたアメリカ陸軍第24軍は対馬上陸の為の日本侵攻演習と知り、釜山の軍事演習を知ったマッカーサーとトルーマン大統領が激怒。
1949年4月:上記理由で、激怒した米英が国連安保理で、韓国の国連加盟容認から一転して、韓国加盟を否決。 ← ココ重要  
1949年4月:韓国による対馬島と北九州に上陸侵攻準備の軍事行動に対して、米英らは国連安保理で韓国の国連加盟容認から一転し、韓国の国連加盟を否決した。 (←ここ注目)
1949年4月・・・ 米国は激怒して米英は「韓国の国連加盟を否決」!!!


1949年5月:上記理由で、マッカーサーが韓国李政権への軍事物資援助を全て停止。
1949年6月:アメリカ第24軍本体が本国に撤退 韓国には国連監視団500名のみ残し引き上げ。
韓国は防衛上の後ろ盾を失う。
・1949年6月、韓国から在韓米軍の完全撤退が終了。米軍ゼロ。
1950年1月12日、米国トルーマン大統領とディーン・アチソン国務長官(外相)は、次のように発表した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
米国が責任をもつ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない。
韓国は米国の対象外である。

1950年1月:名ばかりの米韓軍事援助相互協定を調印。韓国側は軍事支援強化を求めるが米国は拒否。理由は韓国の北進を防ぎ、日本への侵攻防止、ソ連との約束で韓国軍に兵器を拒否した。
1950年1月12日、米国トルーマンの指示でディーン・アチソン国務長官がスターリンに対して米国が責任をもつ防衛ラインとして、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までと伝えた。
つまり朝鮮半島は米国は捨てると宣言。これは、米国がスターリンと直接戦争を避ける為に取引した。
1950年1月12日、米国トルーマンの指示でディーン・アチソン国務長官がスターリンに対して米国が責任をもつ防衛ラインとして、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までと伝えた。つまり、朝鮮半島は米国政府は捨てると宣言した。これは、スターリンと米国が直接戦争を避ける為の約束でもあった。(公文書開示)
 
1950年6月:再び、李承晩が"対馬島と北九州"への軍事侵攻に韓国全軍を南部へ移動指示、釜山港に集結開始。
1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南国境地帯で演習移動しているが、米国は韓国に知らせず。
1950年6月17日:韓国軍が釜山にぞくぞく集結。全軍が釜山港に集結。対馬と北九州侵攻準備で北国境はスカスカ。
1950年6月:スターリンが米国に何度も問い合わせ。米軍はソ連と交戦はしない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない。アチソン国務長官が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と米政府声明を出す。

1950年6月22日:北朝鮮軍最高司令官金日成、全面的南進作戦命令を発する。

・1949年6月、韓国から韓国駐留アメリカ軍の完全撤退が終了。米軍ゼロ。500人が残務整理で残る。
韓国に重武装の約10万人の韓国正規軍がいた。
1950年1月12日、米国トルーマンの指示でディーン・アチソン国務長官がスターリンに対して米国が責任をもつ防衛ラインとして、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までと伝えた。
つまり朝鮮半島は米国は捨てると宣言。これは、米国がスターリンと直接戦争を避ける為に取引した。

1950年6月、アチソン国務長官が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」との米国声明を出しソ連と中国が了解した。スターリンは何度も米国に問い合わせ確認した。
 
1950年6月 李承晩大統領「対馬領有」進行に全軍を南へ移動させ、"対馬侵攻"で釜山に集結させる。
李承晩は「北の脅威」を「仲間」として甘く見ていた。米国の警告を無視して、1950年6月に韓国全軍を朝鮮半島南部に大移動を始めた。李承晩は米国に対して日本侵攻(九州、対馬、竹島)を伝えた。トルーマン大統領と米国務省が激怒!、それでアチソン国務長官(外相)が、「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と発表、ソ連・中国が了解した。韓国軍のほとんどが対馬と北九州上陸侵攻作戦で半島南部に移動、38度線の国境はスカスカとなった。「韓国は米国の守備範囲で無い」とソ連に伝え、ソ連は何度も米国に確認し、北朝鮮と中国に伝えた。北朝鮮はスカスカになった国境を南侵決行となった。それが朝鮮戦争の真相だ。
 
1950年6月に、アチソン国務長官(外務大臣)が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」との米国声明を出しソ連と中国が了解した。スターリンは何度も米国に問い合わせ確認までしていた。しつこい問い合わせに、米国は世界に向けてわざわざ公式発表までして回答した。つまり、スターリンとトルーマン大統領が裏で合意していた。(公文書開示)

1950年6月:再び、李承晩が"対馬島と北九州"への軍事侵攻に韓国全軍を南部へ移動指示、釜山港に集結開始。
1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南国境地帯で演習移動しているが、米国は韓国に知らせず。
1950年6月17日:韓国軍が釜山にぞくぞく集結。全軍が釜山港に集結。対馬と北九州侵攻準備で北国境はスカスカ。
1950年6月:スターリンが米国に何度も問い合わせ。米軍はソ連と交戦はしない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない。アチソン国務長官が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と米政府声明を出す。

1950年6月、李承晩大統領は北国境の10万人の正規軍を大演習を装って、日本侵攻に向けて南端まで移動させた。
それは、全軍を朝鮮半島南端に移動し全軍を船に乗せる準備中の出来事だった。北朝鮮は、韓国全軍が動きスカスカであることを知り動いた。韓国市民が戦争を知ったのは2日後という呆れた状態。それほど抵抗もなく北朝鮮はソウルに到達、そのまま南下するも一切の抵抗なく進めることができた。当時の北朝鮮軍関係者は、全く抵抗が無かった事に驚いたと証言している。
なぜなら、李承晩大統領が李承晩ラインの野望に「対馬領有」を口実に、九州北部へ侵攻に向けて韓国軍を船に乗せている真っ最中の出来事だった。李承晩大統領は、戦勝国として日本に韓国軍10万人を「朝鮮進駐軍」として進駐する権利を主張し、日本の駐留米軍の撤退を要求し、日本占領の口実を掲げていた。
 
李承晩は「北の脅威」を「仲間」として甘く見ていた。米国の警告を無視して、1950年6月に韓国全軍を朝鮮半島南部に大移動を始めた。李承晩は米国に対して日本侵攻(九州、対馬、竹島)を伝えた。トルーマン大統領と米国務省が激怒!、それでアチソン国務長官(外相)が、「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と発表、ソ連・中国が了解した。韓国軍のほとんどが対馬と北九州上陸侵攻作戦で半島南部に移動、38度線の国境はスカスカとなった。「韓国は米国の守備範囲で無い」とソ連に伝え、ソ連は何度も米国に確認し、北朝鮮と中国に伝えた。北朝鮮はスカスカになった国境を南侵決行となった。それが朝鮮戦争の真相だ。


当時、敗戦後占領下の日本には、「日本軍」は解体されて存在しなかった。
非武装の憲法9条で日本に自衛隊も存在せず、警官も非武装。そこを狙って韓国が日本侵略の先発隊として戦後1946年から不法侵入させた韓国人らが日本で「朝鮮進駐軍」を組織、日本人を殺しまくっていた時だった。1952年に竹島が韓国の手に落ち、1954年に自衛隊が誕生して、やっと韓国の侵略を防ぐことが出来るようになった。

戦時中の戦時徴用は1500人程でしたが、朝鮮戦争前の1946~49年間に、日本への侵略者は約50万や60万人どころでなく200万人以上も日本に侵入してきた。
じゃあ、どこに居たの?って話になるが、韓国軍は対馬の対岸の釜山に集結していた。大砲は全部対馬をターゲットしていた。韓国は数日後に日本へ宣戦布告するとアメリカに通知した。これにアメリカ軍は、ブチ切れて韓国を完全に見捨てた。日本は9条により無防備で自衛隊も無い、急いで無防備の日本防衛にあたった。

その裏では、北朝鮮はアメリカに「韓国へ攻撃するがいいか?」と事前に許可までもらっていた。だから、アメリカは韓国が苦戦するのを当然と無視していた。朝鮮戦争は韓国が原因だから停戦交渉も、韓国を無視して「アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮」4ヶ国で停戦調印合意した。韓国は今でも北朝鮮と停戦もしていない交戦状態なんだよ。

ソ連軍は1948年10月に北朝鮮から撤収した。米軍も1949年6月に韓国から撤収した。

公文書で開示されてるじゃん
金日成 → (スターリンを説得。逡巡するもゴーサイン)→ 金日成(毛沢東に報告。協力要請)
毛沢東 → (ソ連大使館に何回も確認。結果、了承)→ 金日成(開戦決断する)
スターリン→ (米国に何度も問い合わせ)→ (米軍は撤退したソ連とは交戦しない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない)
スターリン→ (金日成、了承 開戦)
 
1950年6月25日 北国境がスカスカとなり、この空きを突かれ北が南下、朝鮮戦争勃発。
1950年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を突破し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の奇襲に韓国軍は劣勢だった。
 
ソウルや北国境に10万人の韓国軍いなかった。 北朝鮮はスカスカのソウルに無血入場行進・・・

■朝鮮戦争・・・ 北朝鮮軍がソウルに無血入場行進 (写真あり)


国境に10万人もの重武装した韓国軍がいたら1日でソウルが占領されないよなあ。だいたい、ソウルが戦場になる事も無く、市街戦にも無らず、火の海にも無らず、北朝鮮軍がソウルを無血開城で行進したんだぜ。
ソウル市民は何が起きたのかも知らず行進を見ていた。つまり、10万人もの重武装した韓国軍はソウルに居なかったんだぜ。ソウル市街の建物は何一つ壊れていない。火災すら発生しなかった。なんの抵抗もなくソウルに入場しました。

電気も路面電車もバスも普通に走っていたんだから。それどころか、ソウル市民は花電車や旗を振って歓迎した。

ソウル市内が市街戦となり火の海になったのは、米軍が爆弾を投下して、艦砲射撃で火の海にして、ソウルを焼き尽くしたのは米軍なんだよ在日くん。

http://open2ch.net/p/news4plus-1403959980-34.png
 
6月27日午前1時、韓国政府は非常閣僚会議で、ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め、李承晩大統領(当時)はさらに南の大田に逃れた。ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け、新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた。

大統領が逃げ、国民を欺き続ける中で、北朝鮮の南進を少しでも遅らせるため、韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋(人間、車用)を爆破した。大勢の避難民が橋の上にいるにもかかわらず爆破作戦が実行され、500人とも1500人とも言われる人々が死亡した。
韓国軍はソウル市民を見捨て、橋を爆破して逃げた

61950年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を突破し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の奇襲に韓国軍は劣勢だった。6月27日午前1時、韓国政府は非常閣僚会議で、ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め、李承晩大統領(当時)はさらに南の大田に逃れた。ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け、新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた。
 
 
 
北朝鮮軍、ソウルに無血入城 写真
 
11: 名無しさん@おーぷん 2014/06/28(土)22:17:18 ID:yw4SGfvKP
太平洋戦争終結時
→地上戦や空爆はほぼ皆無で、日本が整備した鉄道や工場のインフラはそのまま残る

朝鮮戦争終結時
→国土が外国の軍隊の戦場になり破壊しつくされ、国民の10%が死亡する大惨事

その後、南も北も軍事独裁政権が続き、朝鮮戦争の愚行を無かったことにして、反日政策で愚民どもを操作してきた
これが、正しい歴史認識
 
私のコメント
朝鮮戦争は「韓国軍が丸腰・日本に侵略し、占領するために釜山に兵を集めた」のが発端だった。日本の左翼はこれを隠した。そんなことがバレれば、日本の独立とともに、占領憲法は消し飛んでしまったろう。
 
戦後は「左翼に非ずんば、人にあらず」の世の中で、マスコミ・大学は左翼に乗っ取られた。朝鮮戦争前は、GHQも左翼を後押ししたのだ。左翼は日本の再軍備に大合唱で反対した。その間、ソ連や共産中国を引き入れて社会主義や共産主義の政権を作りたかったのである。インテリの理想像は共産主義だった。
ところハンガリー動乱でソ連戦車がハンガリーに侵入した辺りから、ソ連に対する不信を持つ者が出てきた。そしてソ連崩壊である。理想化されたソ連社会のアラがボロボロ出てきた。
今や、左翼がかった国は、中国・北朝鮮と、あろうことか韓国というゴロツキ国家なのである。
中朝は、共産主義を捨てた。共産主義の独裁支配体制のみを継承しているのだ。
 
そんな国とお近づきになりたいという「日本の左翼」が、売国奴になりはてたのは、「朝日新聞」を見れば一目瞭然である。
 
 
28: 名無しさん@おーぷん 2014/06/29(日)00:25:37 ID:x9uhpHgke
    
韓国が、日本に宣戦布告を米国へ通告・・・マッカーサーとトルーマン大統領が激怒


〓〓〓 朝鮮戦争が起きた原因 1950年6月25日~ 1953年7月27日停戦 〓〓〓

朝鮮戦争が起きた本当の原因は、韓国の南侵が原因。北朝鮮が侵攻してきたとき、ソウルがあっさり陥落したのは、まず元々反米の韓国人がアメリカ軍を前年に追い出した。加えて韓国軍が北国境にいなくガラガラだったのが原因。

じゃあ、どこに居たの?って話になるが、韓国軍は対馬の対岸の釜山に集結していた。大砲は全部対馬をターゲットしていた。韓国は数日後に日本へ宣戦布告するとアメリカに通知した。これにアメリカ軍は、ブチ切れて韓国を完全に見捨てた。日本は9条により無防備で自衛隊も無い、急いで無防備の日本防衛にあたった。

その裏では、北朝鮮はアメリカに「韓国へ攻撃するがいいか?」と事前に許可までもらっていた。だから、アメリカは韓国が苦戦するのを当然と無視していた。朝鮮戦争は韓国が原因だから停戦交渉も、韓国を無視して「アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮」4ヶ国で停戦調印合意した。韓国は今でも北朝鮮と停戦もしていない交戦状態なんだよ。

ソ連軍は1948年10月に北朝鮮から撤収した。米軍も1949年6月に韓国から撤収した。

公文書で開示されてるじゃん
金日成 → (スターリンを説得。逡巡するもゴーサイン)→ 金日成(毛沢東に報告。協力要請)
毛沢東 → (ソ連大使館に何回も確認。結果、了承)→ 金日成(開戦決断する)
スターリン→ (米国に何度も問い合わせ)→ (米軍は撤退したソ連とは交戦しない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない)
スターリン→ (金日成、了承 開戦)

1950年6月に、アチソン国務長官(外務大臣)が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」との米国声明を出しソ連と中国が了解した。スターリンは何度も米国に問い合わせ確認までしていた。しつこい問い合わせに、米国は世界に向けてわざわざ公式発表までして回答した。つまり、スターリンとトルーマン大統領が裏で合意していた。(公文書開示)
>>1956年12月12日、日本の国連加盟が承認された。
>>1973年09月18日、西ドイツの国連加盟が承認された。
>>1977年09月20日、ベトナムの国連加盟が承認された。


31: 名無しさん@おーぷん 2014/06/29(日)00:34:07 ID:x9uhpHgke
 ★★★ 朝鮮戦争が起きた原因 1950年6月25日 ~ 1953年7月27日 ★★★
朝鮮戦争が起きた原因は、北国境の韓国軍を日本侵攻に移動させたのが原因。
1949年1月7日、李承晩大統領は「対馬領有」を宣言。「対馬は350年前に日本に奪取された韓国領土」と領土権を宣言。1950年6月、李承晩大統領は北国境の10万人の正規軍を大演習を装って、日本侵攻に向けて南端まで移動させた。
それは、全軍を朝鮮半島南端に移動し全軍を船に乗せる準備中の出来事だった。北朝鮮は、韓国全軍が動きスカスカであることを知り動いた。韓国市民が戦争を知ったのは2日後という呆れた状態。それほど抵抗もなく北朝鮮はソウルに到達、そのまま南下するも一切の抵抗なく進めることができた。当時の北朝鮮軍関係者は、全く抵抗が無かった事に驚いたと証言している。
なぜなら、李承晩大統領が李承晩ラインの野望に「対馬領有」を口実に、九州北部へ侵攻に向けて韓国軍を船に乗せている真っ最中の出来事だった。李承晩大統領は、戦勝国として日本に韓国軍10万人を「朝鮮進駐軍」として進駐する権利を主張し、日本の駐留米軍の撤退を要求し、日本占領の口実を掲げていた。

当時、非武装の憲法9条で日本に自衛隊も存在せず、警官も非武装。そこを狙って韓国が日本侵略の先発隊として戦後1946年から不法侵入させた韓国人らが日本で「朝鮮進駐軍」を組織、日本人を殺しまくっていた時だった。1952年に竹島が韓国の手に落ち、1954年に自衛隊が誕生して、やっと韓国の侵略を防ぐことが出来るようになった。

戦時中の戦時重用は1500人程でしたが、朝鮮戦争前の1946~49年間に、日本への侵略者は約50万や60万人どころでなく200万人以上も日本に侵入してきた。

34: 名無しさん@おーぷん 2014/06/29(日)00:43:50 ID:x9uhpHgke
  
ソウルや北国境に10万人の韓国軍いなかった。 北朝鮮はスカスカのソウルに無血入場行進・・・


■朝鮮戦争・・・ 北朝鮮軍がソウルに無血入場行進 (写真あり)
http://livedoor.blogimg.jp/v168/imgs/1/4/14febdc8-s.jpg

http://livedoor.blogimg.jp/v168/imgs/3/b/3b176b7a-s.jpg

国境に10万人もの重武装した韓国軍がいたら1日でソウルが占領されないよなあ。だいたい、ソウルが戦場になる事も無く、市街戦にも無らず、火の海にも無らず、北朝鮮軍がソウルを無血開城で行進したんだぜ。
ソウル市民は何が起きたのかも知らず行進を見ていた。つまり、10万人もの重武装した韓国軍はソウルに居なかったんだぜ。ソウル市街の建物は何一つ壊れていない。火災すら発生しなかった。なんの抵抗もなくソウルに入場しました。

電気も路面電車もバスも普通に走っていたんだから。それどころか、ソウル市民は花電車や旗を振って歓迎した。

ソウル市内が市街戦となり火の海になったのは、米軍が爆弾を投下して、艦砲射撃で火の海にして、ソウルを焼き尽くしたのは米軍なんだよ在日くん。


http://open2ch.net/p/news4plus-1403959980-34.png
39: 名無しさん@おーぷん 2014/06/29(日)01:21:03 ID:x9uhpHgke