「真珠湾攻撃について」ハミルトン・フィッシュ(米国議員)の意見

共和党議員だったハミルトン・フィッシュの自著「FDR: The Other Side of the Coin.」より。
(渡辺惣樹訳、「正論」2014年1月号)

>私たちは、日本が、和平交渉の真っ最中にわが国を攻撃したものだと思い込んでいた。
>1941年11月26日の午後に日本の野村大使に国務省最後通牒が手交された。
>それはハル国務長官が渡したものである。
ワシントンの議員の誰一人としてそのことを知らなかった。
民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない。

この人(ハミルトン・フィッシュ)は日本をかなり激しく批判する演説をしてたんだけど、
戦後にルーズベルト政権の対日交渉の詳細が明らかになって、
ハル・ノートの存在を米国議会に隠し、偽りの説明をしていた事を知って、
日本を完全に擁護する立場になった人。
Posted by   at 2014年12月09日 01:35
 
続き。同じくフィッシュの別の自著から。
「Tragic Deception: FDR and America's Involvement in World War II.」(1983年)
(邦題「日米開戦の悲劇」岡崎久彦監訳)

>私はルーズベルトを許すことができない。
>彼はアメリカ国民を欺き、全く不必要な日本との戦争にアメリカを導いた。

>日本の指導者が開戦の決断をすることになった最後通牒ハル・ノート
ルーズベルト真珠湾攻撃を『恥ずべき行いの日』と呼んだことにちなみ、
『恥ずべき最後通牒』と呼ぶのが適切と思われる。

>日本は、面積がカリフォルニアにも満たない人口八千万人の比較的小国であった。
>天然資源はほとんど保有せず、また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。

天皇は名誉と平和を重んずる人物であり、
>側近の攻撃的な軍国主義者を制止するために、できるかぎりのことを行っていた。

>日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。
>しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業・
>商業・航行および海軍のための石油なしには存立できなかった。

>日本は、コメおよび石油の購入を平和的に保証されたならば
>どのような条約にでも署名し、南方に対するいかなる侵略も停止したであろう。
ただ、自由貿易を認めるだけでよかったのだ。
(入力者 注 《この青色文字は、入力者が書き加えたものです》ルーズベルトはオランダに手を回して、蘭領東インドインドネシア〉の石油を日本に売らせないようにさせた。)

>どうして「イギリスが極東における数多くの領土を保有する絶対的な権利を持つべき」であり、
>その一方で
「日本が近隣諸国からコメ、石油、ゴム、錫その他の商品を購入することさえもできないくらいの制限を
米国によって課せられなければならないのか」。
自虐史観が触れない「戦前の国際経済情勢」
http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/48301381.html
ルーズベルトは、日本を当時の「半植民地状態」の支那や英領植民地インドと同様な生活レベルに落とそうとした〈エドワード・ミラー.2010.『日本経済を殲滅せよ』〉。こういうことを詳しく書くと「日本を悪者にできなくなる」から、従米やナミの左翼「近代史家」は、知らぬ存ぜぬを押し通して自虐的な日本史教科書を書くのである。「日本は悪くない」と言ったらクビになったのが田母神空将である。これは麻生政権の話だから、事態は深刻なのだ。)

>こんな理不尽な話はあり得ない。

>米国の最後通牒を受け取った時点の日本は、四年にわたる戦争支那事変)の結果、
>中国のほとんどの海岸線、大都市、かつ広範な領土および満州全土を掌握し、
>極東最大の勢力となっていた。
>このような強力な国家に対し、米国はこれ以上何を要求できると言うのか。
ルーズベルトは、長引く支那事変の戦費調達で、日本は破産すると見ていた。アメリカ政府の各機関は日本の破産時期を予測していた。その期限は、
財務省は1938年10月、
FRBは1939年7月、
国務省は1939年9月、
FRB再試算は1940年4月、
陸軍情報部は1941年1月、
国務省再試算は1941年6月、
駐日大使館は1941年11月
までと予測したが、ことごとくはずれた。日本が破産すれば、支那市場はアメリカのものだ。そうなりゃ、不況を脱せるのに・・。アメリカは首をひねった。
横浜正金銀行ニューヨーク支店の秘匿ドル資金がバレたのは、1940年夏のことである。日本はこれが発覚すると秘匿したドルを金融凍結される前に消費するか安全な処へ移管した。戦前の日本に最大の打撃を与えたのは、よく言われるアメリカの「石油の禁輸」ではない。
「金融凍結」であったと言うことだ。
 金融凍結されると日本が戦費としてため込んだ在外ドル資産は使用不能となった。
戦略物資を輸入できなくなったのだ。これに石油禁輸が追い打ちをかけ、対米交渉も行き詰まり、ついに日本は真珠湾に向かう〈『日本経済を殲滅せよ』〉。)ABCD包囲網の打破へと・・・・・。

「ABCD」とは、制裁を行っていたアメリカAmerica)、イギリスBritain)、オランダDutch)と、対戦国であった中華民国China)の頭文字を並べたものである。この呼称は日本の新聞が用いたものとされるが、初出については良く分かっていない。

天皇および近衛首相は、平和を維持するために信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。
>非常に平和愛好者である首相の近衛公爵は、ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していた。

>在日米国大使であったジョセフ・グルーは、
>日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたか承知しており首脳会談を強く要請した。

>日本は米国との開戦を避けるためならば何でもする用意があったであろう。
>しかし、ルーズベルトはすでに対日戦、対独戦を行うことを決意していたというだけの理由で
>日本首相との話し合いを拒否した。

>日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。
>これは共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって、悲劇的であった。

>我々は、戦争から何も得るところがなかったばかりか、
>友好的だった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。
>イギリスは、それ以上に多くのものを失った。
>イギリスは中国に対して特別の利益と特権を失い、マレーシア、シンガポールビルマ
>インドおよびセイロンをも失った。

>日本人は、高度な忠誠心、愛国心に満ちた、非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族である。
>このような民族に『恥ずべき最後通牒ハル・ノート』を突きつければ、
>必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。

>私はルーズベルトを許すことができない。
>この大戦は米国に三十万人の死亡者と七十万人の負傷者、そして五千億ドルの出費を米国にもたらした。

>日本には軍人、民間人合わせて三百万人以上の死亡者をもたらした。
>日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。

その責任はルーズベルトが負っているのだ。
負債はさらに続いた。アメリカは朝鮮戦争ベトナム戦争を戦うハメになった。「東洋の憲兵大日本帝国をツブしたから、日本が長年苦労してきた役割を担うことになったのである。 
Posted by   at 2014年12月09日 01:41鼻高のアメリカ合衆国さん。
 
Posted by ふるさと忍者 at 2014年12月09日 01:44

動画:【KSM】「私はルーズベルトを許すことができない:大統領が最も恐れた男の証言」ハミルトン・フィッシュ
 
32. 名無しさん@ほしゅそく   2015年08月20日 00:26  id:YiggD7At0   
    
国際法上、日米戦争の始まりは日本の真珠湾攻撃ではありません。
 それは、1941(昭和16)年7月のルーズベルト大統領による日本の在米資産凍結です。
 これは当時の国際法では「戦争行為」にあたります。アメリカでは批判される見解かもしれませんが事実です。
 ですから、法律的には、真珠湾攻撃は日本の防衛行為だと解釈されます。
 日本はもともとアメリカを攻撃したくはなかったのに、ルーズベルトが仕掛けた。」
「正論」2013年9月号にて、ジョージタウン大学のケヴィン(ケビン)・ドーク教授 
*****
パールハーバーアメリカ合衆国の征服を企んで仕掛けられた「一方的攻撃」であるというが、この論理では日本を公正に罰することはできない。なぜなら、私たち(アメリカ)の公式記録が、
パールハーバーアメリカが日本に仕掛けた経済戦争への反撃だった」
という事実を明らかにしているからだ。
パールハーバーは青天の霹靂ではなく、しかるべき原因があって起きたのだ。原因は、1941年7月25日に、アメリカ、イギリス、オランダが打ち出した「(金融)
凍結」令である。三国は、自国領内にある日本の全資産を凍結し、貿易、金融関係をすべて断絶した。日本は輸入必需品の80%を「凍結」地域に頼っていたから(米英蘭)三国の行動は日中戦争支那事変)の泥沼化だけでなく、(日本の)国内経済の窒息を意味するものだった。」
(ヘレン・ミアーズ著・伊藤延司訳 (1995)「アメリカの鏡・日本」(株式会社アイネックス)87頁)

「占領が終わらなければ、日本人はこの本(1948年刊のヘレン・ミアーズのこの著書アメリの鏡・日本」)を日本語で読むことはできない。」〔ダグラス・マッカーサー書簡(ラベル・トンプソン宛て、1949年8月6日)〕
なお、ルーズベルトは1941年7月21日にJB-355計画を承認している。これは、国民党軍機に偽装した米軍機と米兵によって、シナ大陸から東京などの日本の諸都市を9月~10月に奇襲爆撃する計画だった。そのために、ルーズベルトは6月に米兵をシンガポールに送り出している。
ルーズベルト政権は昭和16(1941)年7月21日に日本攻撃命令を発し、同25日に金融凍結令で日本のドル資産を使えなくさせた。軍需・民需物資を輸入できなくさせたのである。その後の「石油の禁輸」は、ただのオマケ。ドルを使えなければ、当然、石油ばかりか鉄鉱石やボーキサイトも買えない。
 だから、秋の日米交渉や東条内閣組閣のドタバタは茶番なのである。日本のテレビ・ドラマや解説では、この辺のことに焦点を当てるが、バカ丸出しなのだ。
そうやって、「日本がマズかった、悪かった」に持って行って「アメリカ様にゴマをする」のが、親米保守とか言うアメリカ傀儡の習性なのだ。
ルーズベルトは、十年一日のごとく日本に嫌がらせを続けてきたが、近衛内閣の時に、日本を挑発して欧州戦線に参加するハラを決めたのだ。
参戦しなければ、アメリ帝国主義が世界の覇権を握ることはできないからである。

つまり、「真珠湾攻撃以前に、日米戦争は始まっていた」。
それは、「アメリカが日本に仕掛けたもの」であって、日本がアメリカに仕掛けたものではなかった。

何のために?
アメリカ帝国主義世界を制覇するためには、
地域覇権国・大日本帝国が目の上のタンコブだったからなのだ。
戦後は、恩を着せた大英帝国から世界の基地をせしめている。

私のコメント
日米戦争の本質はアメリカの「人種差別にもとづいた経済戦争」であった、ということだ。
要は、カネの問題だった。
これはアメリカによって隠蔽されて来た。兵糧攻めにされた日本側からの切り込みが、ほとんど無かったと言うことは情けないことである。経済史や政策史の研究が、自虐史観に毒されていた証拠だ。今後もきわめてゆっくりと、金融・経済についてのアメリカ側の資料が機密を解除されて行くであろう。
日本の金融問題に関するアメリカの査定資料や、その弱点を突く各種の提案の資料の一部は、1996~97年に機密が解かれた。対日禁輸を主導した輸出管理局(ECA)の資料は、1999年に米・国立公文書館で目録が完成した。これらの資料を使用したのがエドワード・ミラー.2010.『日本経済を殲滅せよ』の原著Edward Miller(2007)BNKRUPTING THE ENEMY: THE U.S. FINANCIAL SIEGE OF JAPAN BEFORE PEAL HARBOR.である。
軍事的な戦略・戦術は、二の次である。

ルーズベルトは、大統領としてアメリカでの評判は悪くはない。
その理由は、アメリカが不況を脱したからである。
つまり、「アメリカ人が食えるようになった」と言うことだ。
次に、二次大戦をチャンスに世界帝国にのし上がったからだ。
アメリカ人は、ヨーロッパ人に「田舎モノあつかいされなくなった」と言うことだ。

彼の経済政策として、よくニューディール(新規まき直し)政策が挙げられ、それが成功したというような説明がなされることがあるが(実は、近年まで米国内で「論争」があったらしい・・)、それはデマ宣伝だ。
ニューディール政策は成功せず、不況を脱することはできなかった。
アメリカが不況を抜け出したのは、「真珠湾」をカモに第二次世界大戦に参戦してからである。

そのために、ルーズベルト政権は十年一日の如く日本に嫌がらせを続け、米国内で人種差別による反日をあおったのである。
スターリンは日・独に挟撃されるのを恐れたから、ルーズベルト政権にスパイを送り込んで日米戦争をけしかけた。ハル・ノートを実際に書いたハリー・ホワイトは、ソ連のスパイであることが明らかになっている(『ヴェノナ文書』)。
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マッカーシー(右)に訴追された頃のホワイト(左)。
             出典:http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/42760926.html
 
ルーズベルト恐慌とは何か
http://electronic-journal.seesaa.net/article/248510081.html
ここでは、こんな説明がされている。
ルーズベルト大統領と言えば、ニューディール政策という公共投資中心の景気対策世界恐慌から米国経済を救った人物として知られています。けれども、実はその景気対策を止めるのが速すぎたために、大不況を再来させてしまったのが1938年のルーズベルト恐慌です。
 1938年3月のギャロップ社の世論調査では『景気の落ち込みを防ぐために政府支出を拡大すべきか』という問いに対し、63%がノーと答えたといいます。国民全体で緊縮を支持したのです。1937年から緊縮財政が始まり、1938年まで続きました。その結果はてき面!1938年には成長率はマイナス3.4%にまで下がり、株価はほぼ半値に暴落しました。 
                      
 クルーグマンは警告しています。
「この経験(ルーズベルト恐慌)からの教訓は、経済が大きく落ち込んだときは、借金を減らす努力を棚上げし、徹底的に景気対策をやらなければならない。世界大恐慌の際には、戦争という巨大な景気対策により経済は完全復活し、国の借金も消えた。現代は戦争という景気対策は望めないのだから、それに相当するような巨大な景気対策をやらない限り、経済は復活しない。  武捨ゆうた氏のブログ
 
> ルーズベルト政権と橋本政権の大きな違いは、米国では速やかに財政拡充政策に戻し、その後の太平洋戦争によって財政支出の拡大が続いたのに対し、日本の場合はそのまま緊縮財政が続いていることです。
 
ルーズベルトにとって、太平洋戦争は人種差別にもとづいた国家的な最大の公共事業で、これが図らずも?内政的には効果ある経済対策になった。

これに対する我が日本の大東亜戦争は、大東亜共栄圏自由貿易を構築するために人種差別撤廃をめざす植民地解放戦争にならざるを得なかった。
 戦後、各植民地は独立した。これによって日本は自由貿易ができるようになり、高度経済成長が可能になった。
「戦後日本の高度経済成長」は、「英霊の遺産」だったのである。
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大東亜戦争の激戦地・ガダルカナル島には、観光客めあての私設「戦争博物館」がある。
事実上はガラクタ置き場である。2015年、ある日本人がそこを訪れた際、
何気なく日本語が彫られた飯盒(はんごう)のフタを撮った。
後日、「志はたす日」と刻まれていたことが分かった。

「アジア人」などとケチなことは言わない。
「有色人種の裏切り者」は、支那人朝鮮人なのだ。
 
余談
ヒトラールーズベルト景気対策の違い
http://ajer.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/no28-d93d.html

大東亜戦争の世界史的意義
http://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/54634103.html