ドナルド・キーンは、なぜ日本人になったのか? ガダルカナル余話
その理由の一端が書かれています。
ドナルド・キーンは、平成24(2012)年に、日本国籍を取得した。「余生を日本で暮らす」という宣言は、広く報じられた。日本外国特派員協会で特派員との会が持たれた際には、私(ヘンリー・S・ストークス)が司会を務めた。
ドナルド・キーンは、平成24(2012)年に、日本国籍を取得した。「余生を日本で暮らす」という宣言は、広く報じられた。日本外国特派員協会で特派員との会が持たれた際には、私(ヘンリー・S・ストークス)が司会を務めた。
キーンは十六歳で奨学金を受け、コロンビア大学に入学した。厚さの割に安かったという理由で、アーサー・ウェイリーが訳した『源氏物語』を買った。これが出会いとなって感動して、日本語を学びはじめ、日本研究に打ち込んでいった。
昭和17(1942)年に、コロンビア大学で学士号を取得し、アメリカ海軍日本語学校に入学した。そこでは完全な「缶詰教育」で、英語厳禁のなかで、日本語の本を読み、レポートを書き、受業以外も一日中ずっと日本語で過ごした。語学に戦争の勝敗がかかっていた。最前線に送られるから、命を賭(と)した研修だった。
研修後は情報将校として、太平洋戦線で通訳を務めた。日本軍捕虜の聞き取り調査をし、日本兵の遺体から奪った日記や、手紙を訳した。それらの手紙や日記は血まみれで、異臭を放っていた。腐敗した遺体から奪ったものだった。
昭和17(1942)年の日本軍の最前線
ガダルカナル島
キーンは、それから日本人の気高さに、打たれた。著書『日本との出会い』のなかで述懐している。
「ガダルカナルを餓島と呼んだ日本軍の兵士たちの耐えた困苦は、圧倒的な感動を呼び起こした。アメリカ軍の兵士の手紙には何の理想もなく、ただ元の生活に戻りたいとだけ書かれていた」 |
「大義のために滅私奉公する日本人と、帰郷以外のことにはまったく関心を持たない大部分のアメリカ人。 |
日本の兵に対しては賛嘆を禁じえなかった。そして結局、日本人こそ勝利に値するのではないかと信じるようになった」 |
日本軍は補給を完全に断たれ、餓死する兵が続出していた。 |
だがキーンは、まさに超人的な精神力で戦った日本兵を、目の当たりにした。 |
二十歳にも満たない兵士も多くいた。 |
彼らは親兄弟から遠く離れた戦地で、勇敢に戦って、命を落としていったのだった。 |
キーンは自分を平和主義者としているが、それは戦場の体験に基づいていた。
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私のコメント
若き日のドナルド・キーン氏は、こう思ったのではないだろうか。 |
戦場の兵士としてどうしても死を避けられない運命にあるのならば、日本兵として戦死する方がずっと立派だ・・・・。 |
ドナルド・キーン氏は十八歳から英訳『源氏物語』を読み、その後、米軍で日本語通訳を経て日本文学を専攻した。当時は、特殊なアメリカ人であったことだろう。
ヘンリー・S・ストークス氏は50年におよぶ滞日経験から、「日本の心」を理解するようになった。
ヘンリー・S・ストークス氏は50年におよぶ滞日経験から、「日本の心」を理解するようになった。
彼らこそ、「帰化人」と呼ばれるのにふさわしいのではないか。
米・大統領ウィルソンが第一次世界大戦後に民族自決と言ったところで、それはあくまでも白人内部だけのことであった。
第二次世界大戦後の戦勝国は、「民主主義 対 ファシズム」のプロパガンダで世界を覆いつくした。
第二次世界大戦後の戦勝国は、「民主主義 対 ファシズム」のプロパガンダで世界を覆いつくした。
「アジアの愚民ども、いや家畜ども」とナメきっていたのが、日本軍の破竹の進撃を見て、
日本人に教育された「家畜ども」が独立戦争に立ち上がったのである。
と気づいた時、彼らは愕然としたのではあるまいか?
日本人に教育された「家畜ども」が独立戦争に立ち上がったのである。
「独立戦争は、白人の専売特許ではない」 |
ガダルカナル島には戦争博物館がある。
「博物館」とは言っても、ガラクタ置き場やゴミ置き場に等しい。
現地人の観光資源だから、こんなものになるのは仕方がない。
今年、そこを訪れた日本人が、
漢字の刻まれた飯盒(はんごう)のフタを
何気なく撮影した。
「博物館」とは言っても、ガラクタ置き場やゴミ置き場に等しい。
現地人の観光資源だから、こんなものになるのは仕方がない。
今年、そこを訪れた日本人が、
漢字の刻まれた飯盒(はんごう)のフタを
何気なく撮影した。