洗脳・自虐史観の起源

①当時の主な輸出品だった綿製品に40~50%もの関税をかけた。しかし日本は頑張ってこれを乗り切った。
②今度は綿製品の国内消費の1%以内でなければならない、というように割り当ててきた。これも何とかやり切ってしまう。
③そうすると今度は、雑貨へと攻撃対象が変わり100~200%もの高率関税がかかったが、日本は辛くもこれに耐えた。
④さらに関税が高くなって、ついには800%というとんでもない関税までが実施された。
⑤そしてさらに、中国において日貨排斥運動を煽り、ジリジリと日本経済を絞め続けた。
⑥それでも日本はへこたれなかったので、「締め出しだけではダメだ」ということで、今度は日本には工業の天然資源を売らないと言い出した。

→これにはさすがの日本もこたえた。「不買」はいいが「不売」は参ってしまう。石油・ゴム・錫などを産出するアジアの国々は殆どが植民地だった。そのため彼らも宗主国の言う通り、一斉に日本への輸出を閉ざしてしまった。
…米国はこのように念入りに外堀を埋めたうえで、突如ハルノートを提示してきた。
http://kenjya.org/nichibeiseisai.html
2016/06/04(土) 15:36:03 | URL | 六輔 #- [ 編集 ]

戦陣訓の生きて虜囚となるなかれ、と言うのは、支那の軍隊の捕虜に対する極めて残酷な処刑をされるなら自決の方が楽だという意味で、当時の軍隊では明言しなくても常識であった。米軍ですら、日本兵が投降しなくなったのは米軍の残虐な扱いの結果だと、大西洋横断飛行で有名な、かのリンドバーグらのアメリカ人自身が書いている。

動画  中国共産党の正体 九評共産党 第九評 中国共産党の無頼の本性 1/6  
8:30 中共の洗脳に言及
「現在の医学研究によれば、恐怖とプレッシャーの中に隔­離された時、多くの被害者は加害者に対しある種の歪んだ依存をつ­くり出し、その喜怒哀楽によって自分の感情を変えていく。加害者­である人間が少しでも恩恵を与えると、彼は涙を流す程に感激し、­さらには愛情まで生まれて来る。この種の心理学現象は、敵や人民­に対するマインドコントロールと改造の中で、中共が以前から運用­し成功をおさめてきたもの。」
その他は、本稿の最下に・・。
中国共産党の正体 九評共産党 第九評 中国共産党の無頼の本性 1/6   」

中共とGHQの認罪教育の関係
他、英機密文書(テレ)

GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明

秘密文書で判明した贖罪意識を植え付けるためのGHQ工作

【歴史戦】GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明[06/14] [転載禁止]©2ch.net       2ちゃん

6月15日、終戦後の連合国軍総司令部GHQ)による占領政策
東京裁判、現行憲法の成立過程などを検証する新組織の設置を
自民党が検討していることが分かりました。
感想をお願いしたします。




翻訳フェイスブック
福田 則正
【NO.2】【歴史戦】GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点・英公文書館所蔵の秘密文書で判明 産経新聞 2015.6.8 07:40

中国の巨悪にようやく気付き政策転換を始めたオバマ政権

まとめとしてはよい 高橋史郎・動画・慰安婦問題について、いろんな報道

反日プロパガンダのリンク

日中友好の起源と正体  岡野と杉本

博士論文 「中国共産党の対日プロパガンダの戦術・戦略」
これは読めなかったら、「中国共産党の対日プロパガンダ戦術・戦略:」
↑の「日中友好の起源と正体」から読む(印刷した方がよい)。

マーシャルと毛沢東

Dixie Misson

マーシャルと毛沢東の画像(Dixie Missonの検索より)


「アリヨシ・コージと毛沢東」写真の記事
They would be followed in the fall of 1944 by Koji Ariyoshi, a psychological warfare (psywar) specialist

Ariyoshi was born and raised on a coffee farm in Kona, Hawaii. He worked as a laborer at a sugar plantation, a pineapple cannery and on a sugar beet farm in Idaho, as a longshoreman on the docks of Honolulu and San Francisco, and as a journalist. After he obtained a college degree from University of Georgia, he settled in California and then Japan attacked Pearl Harbor. He was incarcerated at the Manzanar Internment Center, California. This background and his view of the hardships endured by his parents, other plantation workers, and the African Americans in America’s Deep South caused him to sympathize with the downtrodden.

In December 1942 Ariyoshi enlisted and trained at the MIS Language School at Camp Savage. Following his graduation, he joined the Office of War Information, led a 10-man psywar team to New Delhi, India.

In June 1944, he was deployed to Burma, where he was picked to serve on the Dixie Mission. He could not overcome his joy when he arrived at Yan’an, because only five years before he organized collection programs in Hawaii to help the children of Yan’an. Ariyoshi spent 18 months in Yan’an, October 1944 to March 1946. He passed away on October 23, 1976 at age 62. He is survived by a son, Roger, and five granddaughters.

アリヨシ・野坂と共産党

「日本軍反戦兵士と日中戦争」書評

野坂さんぞうとニッキョウの不仲

「認罪教育」NHKJハイビジョン

「元日本兵がシナのおばあさんたちの面前で、地べたにへばりつくようにして土下座して謝っている様子は、随分前にテレビで見たことがあります。その時感じたのは、「いたたまれない」気持ちと同時に、言いようもない「嫌悪感」でした。」
土下座の内容が違うようです。これがPropaganda filmです。黒ユリさまに、ぜひ見ていただきたいfilmです。
https://www.youtube.com/watch?v=SF-2CcR8IDI
少し長いですが、時間の無駄にはならないと思いますし、「嫌悪感」にもならないと思います。それより多くの謎が解けてくると思います。延安であったアメリカ仕込の中国版Brain Washの有効再利用です。
これを何回かに分けたものを出していたのですが、クリックすると別のものに変わっていました。再度さがしてここにアドレスを記します。
これがないと、日録2番目の記事の内容が不発になるような気がします。どうぞよろしく。
  • 2016/03/21(月) 15:00:25 | Bruxelles #qXcWIg3k
  • [ 編集 ]
  • わずかではありますが「通化事件」を取り上げたBlogが他にもあり、できるだけのリンクを探し出し貼り付けています。しかしTel Quel Japonは通化事件を取り上げてそこで終わり、にするような取り上げ方をしていません。次々と枝を出しニューロンの糸のように絡み合って、各情報の伝達統合&分化、推察の深化、視点の角度の多様化をめざし、その時点での各論の提示を時々はする、といったスタイルを持っているような気がします。
    「通化事件」からDixie Mission,延安の外国人Journalistたち、米国指導による日本人捕虜への洗脳、日本共産党というより野坂独自のfixerとしての奇奇怪怪、そしてたとえば日録の(3)においては特に以下の2点の検証に到達しているように思います。
    ○日本解放第二期工作要綱↓文章最終部に直結
    http://yusan.sakura.ne.jp/library/china_kousaku/
    ○NHK document:
    https://www.youtube.com/playlist?list=PLA239DB9A3B2AEB74

    振り返ってみると、これらはニクソンの訪中、田中角栄の日中国交回復、統一教会の真の仕事、あっけないロシアの崩壊・冷戦の終了、そして当然のことながら教科書問題、南京、慰安婦問題に派生しました。様々な木の枝が相互につながりかつ変質し、そして時を経てついに
    こういうかたちで大海に流れ出てしまいました。ただし結果から見ると驚きのストレート・ストライク、なにもかも意思を持ってここに向かっていたかのようです。↓
    ・・・・・・・
    戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。  
    そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
    How much emotional struggle must have existed and what great efforts must have been necessary for the Chinese people who underwent all the sufferings of the war and for the former POWs who experienced unbearable sufferings caused by the Japanese military in order for them to be so tolerant nevertheless?
    That is what we must turn our thoughts to reflect upon.

    平成27年8月14日 内閣総理大臣談話 より抜粋 (終戦70年の談話)

    • 2016/03/25(金) 10:49:04 | URL | Bruxelles #qXcWIg3k[ 編集 ]








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>同年2月に通化事件が起こると、隊員が数名事件に関係したことが明らかになり、中国共産党中央から林を銃殺するよう3度命令が出された。林は事件前日に蜂起の情報を政治委員の前田光繁に伝えていたため、政治委員の黄乃一が弁明を務めた結果処刑を免れたが、航空総隊の人事権は前田に移された[1]。3月1日に東北民主聯軍航空学校が発足すると飛行主任教官に任命され、中国共産軍の航空隊育成を行った。1956年(昭和31年)8月に帰国。その後、日中友好会会長を務めた。

佐藤 和明 (著)通化事件―共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言で明らかにする 」 単行本 – 1993/4