ウィーララトゥナ(2016) 「スリランカ人の大東亜戦争論」

日本の真珠湾攻撃が西欧の支配からのアジア解放の引き金となった
                       セナカ・ウィーララトゥナ,弁護士(スリランカ

 今日(2016年12月7日)は日本が真珠湾を爆撃した75五周年の記念日である。この出来事を記念して、今現在、ハワイでは特別の儀式や式典が行われている。愛する者、友人、係累の死を思い出している人も少なくなかろう。まことに同情に堪えない。
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 1941年12月7日、真珠湾は日本軍戦闘機、爆撃機雷撃機の攻撃を受けた。総数353機、6隻の航空母艦から二波に分かれて飛来した敵機だった。米海軍の8隻の戦艦は悉く損害を被り、4隻は沈没した。日本軍はまた、3隻の巡洋艦、3隻の駆逐艦、1隻の対空戦闘訓練艦、1隻の機雷敷設艦を撃沈または撃破した。米軍の航空機は188機が破壊された。死者は2403人、負傷者は1178人だった。日本側の被害は軽微で、航空機29機が撃墜され、特殊潜航艇5隻が撃沈されたのみ、人員の被害は死者64名に過ぎなかった。

 本稿の目的は、誰に責任があったのか、誰は責任を負う必要がないのかを追及することではない。真珠湾攻撃は全面的に日本に非があったわけではないという明白な証拠が現在ではたやすく入手できるようになっているので、責任の所在については、簡単な善玉悪玉論で片づけられる問題ではなくなっている。
 というのも、1941年7月、米国は重大な結果を予見しながら、ことさらに日本への石油禁輸に踏み切ったからである。それゆえ、日本は、国家としての存立を維持するために必要な石油を確保するために、避けることのできない状態の下、戦争以外の選択肢のない状況に追い込まれたのである。

 本稿の目的は別の所にある。日本が真珠湾およびアジア各地の西欧植民地を攻撃したという事実が、当時大部分が西欧の植民地支配を受けていたアジアの人々の心理と士気にどのような影響を引き起こしたかを検証することである。さらにまた、戦争初期には、日本軍は反植民地闘争のリーダーシップを取り、連戦連勝を重ねたという事実がある。これによって、アジアの自由の戦士たちがどれほどに鼓舞され、激励されたかという問を投げかけようということである。言い換えれば、外国の占領からの解放を目指し、独立を達成しようという戦いを進めるためにどれほどの助けになったかを検討しようということが本稿の目的なのである。

 二十世紀初頭の論争の余地なき事実は、西欧の植民地主義からの解放を求めて公然と挑戦した国が日本だけだったということであり、かつまた、それを遂行する能力と資質を持つ国は日本だけだったということである。
 「アジア人のためのアジア」が日本の戦いのスローガンとなった。中国やインドを含めた他のアジア諸国の中には、そのような汎アジア的理想を唱える国、あるいはそのような軍事的実力を持った国は存在しなかった。

 真珠湾攻撃の翌日、すなわち1941年12月8日に渙発された詔勅は、日本の戦争目的を宣言していた。「(戦争の目的は)日本の自存を保障し、東南アジアからヨーロッパの植民地主義を排除し、この地に安定をもたらすことである」。
日本の東条英機首相は、1941年12月8日に、天皇の宣戦の詔勅を全国民に向かって読み上げた。その概要は次の通りである。
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「帝国が米英と干戈(かんか)を交える〔開戦する〕のやむなきに至ったのは、避けることができないことであり、決して我々の望む所ではなかったのである。
「米英両国は、東洋を支配せんとの不当なる野望を実現しようと躍起になって、東亜の禍乱を助長して来た。そればかりでなく、この両国は、他の国々に従属を要求し、帝国の周囲で軍事的な準備を増大させて我々に挑戦して来た。彼らは、あらゆる手段を使って、我々の平和的通商を阻害し、ついに経済関係を直接的に断絶するという策に訴え、帝国の存在に重大な威嚇をして来た。」
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「我々は、我が政府が忍耐強く平和状態を回復することになろうとの望みを抱いて、忍耐強く待ち、長期に亘って耐えて来た。」
「しかし、我が敵は、妥協の精神をいささかも示すことなく、解決を無法にも引き延ばし、その間にも、経済的政治的圧力を強化し、それによって帝国に服従を強いたのである。」
「事態の変遷がこのまま修正されないで続けば、東亜の安定のための帝国永年の努力が無意味にものになってしまうばかりでなく、我が国家の存立まで脅かされることになる。」
「このような状況であるので、帝国は、自存自衛のために、武力に訴え、行く手を阻む障碍を粉砕する以外の選択肢はない。」
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“RISE OF JAPAN”でなく、“RISE OF ASIA(アジアの台頭)”なのだ。

ルーズベルト米大統領真珠湾攻撃を「屈辱の日」と呼んだ
 ルーズベルト米大統領は、真珠湾攻撃を「屈辱の日」と呼んだ。
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チャーチル英首相は、真珠湾攻撃は「唖然とする打撃」であり、「香港を失ったことにより、わが国の威信が傷つけられた」と述べた。1942年始め、インドで植民地主義に対する大規模な抵抗運動が進んでいる最中に、チャーチルは下院で証言し、大西洋憲章の規定は、「植民帝国(大英帝国)の有色人種には適用」されず、また、「『主権、自治、国民生活』という用語は、合衆国および欧州の国民にのみ適用される」と述べた。
日本の戦争政策は、欧州への依存からの完全な脱却を目指しており、それは、破産に瀕した欧州の文化的伝統を拒絶し、さらには偉大なる国家の基盤として、アジア人の自覚(欧州とは違うという意識)とアジアの文明的価値へ復帰することを含めていた。西欧化がとめどなく進んで行く中で、民族の生存にとって重要なことは、一つには政治的文化的再生を実現することであり、今一つには、日本の指導の下に汎アジア的連帯を達成することだった。後者は、西欧帝国主義に抵抗するアジア新秩序として明確に述べられていた。
 日本の外務大臣松岡洋介は、1940年8月に、大東亜共栄圏を宣言した。日本のリーダーシップの下に植民地支配から脱却するという考えは、アジア全域で広く反響を呼んだ。1942年に米国のハーバート・フーバー元大統領が述べたように、「白人は、中国人、マレー人、インド人、日本人のいずれからも広く憎悪の対象になっている」という事実があったからである。そして、憎まれる理由は、何百年にもわたって、植民地の主人として、無慈悲で悪意ある行動に終始していたからだった。

1905年の日本海海戦における日本の軍事的成功が
アジア・アフリカの人々の自由を求める夢を掻き立てた
 ドイツの皇帝ウィルヘルム二世は、全ヨーロッパに向けて、「黄禍」の脅威が高まって行く現状に鑑み、小異を捨てて大同につき、キリスト教および欧州文明という「神聖なる財産」を守らなければならないと訴えていた。
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日本が1905年にロシアを破ったのは、ドイツ皇帝が「黄禍」の危険に警鐘を鳴らしてから10年も経たないうちだった。これに刺激されたオックスフォードの若き講師アルフレッド・ジマーンは、ドイツ史の講義をほったらかして、学生たちに向かい、「歴史上一番重要な事件が起った。いや、我々が生きているうちにも、これより重要な事件は起こらないだろう。非白人種が白人種に勝利したのだ」と宣言した。
 この二十世紀初頭の日本の目覚ましい軍事的勝利およびそれがアジアの知識人たちにどのような衝撃を与えたかについては、パンカジ・ミシュラ(Pakaj Mishra)の『アジア再興・帝国主義に挑んだ志士たち』(白水社)(The Revolt Against the West and the Remaking of Asia)を読むとよく分かる。
この作品は、19世紀末と20世紀初頭のアジアの知識人、および汎アジア、汎イスラム、反植民地の闘争における彼らの役割について研究したものである。本書の始まる所は、西欧の支配からの解放を目指す闘争における電撃的な瞬間である。すなわち、1905年5月の日本海海戦に於ける、日本海軍の目覚ましい勝利の瞬間から始まる。この勝利が、植民地主義の桎梏に喘いでいたアジア・アフリカの人々に衝撃を与えたのである。
http://www.amazon.com/From-Ruins-Empire-Against-Remaking/dp/1250037719
 この、小国ではあるが勃興しつつある日本の海軍が、欧州の列強の一つに数えられていた帝国主義大国を打ち破ったのである。老若を問わずアジアのリーダーたちの想像力をどれほどに掻き立てたかは想像に難くない。
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日本海海戦:先頭の三笠は被弾して後部マストの横棒が折れている。

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バルチック艦隊・スワロフの被弾と火災。日本の戦勝は、世界の有色人種に希望を与えた。しかし、戦後日本の知識人はそのことを語らず、日露戦争まで「侵略戦争」に押し込めようとした。

 ジャワハルラール・ネルーマハトマ・ガンディー孫中山孫文毛沢東、若きマル・アタテュルク、さらには、エジプト、ベトナムなど多くの国々のナショナリストたちが、日露戦争に於ける日本の決定的勝利を、陶酔せんばかりの情熱をもって歓迎したのだった。「そして、彼らはみな、日本の勝利から同じ教訓を引き出したのだった」とパンカジ・ミシュラは述べる。
「世界の支配者・白人はもはや無敵ではない」という教訓を。
 インド総督のカーソン卿でさえ、「この勝利の反響は、東洋人の間で、遠い雷鳴のように口伝えで伝わって行った」と述べている。それでもまだ、アジア人の目には、欧州は道徳的政治的権威を維持していたが、それも、引き続いて二つの世界大戦が起こったために、甚だしく影が薄くなってしまった。「しかし、長い目で見れば、西欧の退場の幕引きは対日本海海戦から始まったと言っても過言ではあるまい」ミシュラは結論する。。
 1905年の日本のロシアに対する勝利は、アジアの人々にとっては励ましのニュースとなった。中世以来初めて、非ヨーロッパの国が、大戦争でヨーロッパの強国を地に這わせたのである。そして、日本の勝利に続いてやって来たものは、数知れぬファンタジーだった。―-欧州に国土を支配される屈辱に耐えていた人々の心に、国民の夢、民族の威信あるいは単純な復讐心を吹き込んだのだった。中でもマハトマ・ガンディーの洞察は深かった。「日本の勝利の根は極めて深く極めて遠くまで伸びているために、そこから生じる果実の全貌を把握することは今なお不可能である」と評したのである。

国際聯盟に於ける日本の人種平等の提案
 パリ平和会議(1918~19)および国際聯盟の設立に際して、日本は欧州の植民地支配の下での諸民族の平等を擁護した。日本は、国際聯盟規約の改正を提案した。それによって、「あらゆる点で、人種国籍のゆえを以て一切の差別をすることなく、法に於ても事実に於ても、平等かつ公正な取り扱い」を保証しようというのであった。
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西欧の植民地列強は恥ずべきことに、人間相互の間に於ける平等の観念を拒絶したのである。この観念が、白人の優越性と非白人を抑圧する植民地秩序に対する挑戦となることを恐れたのだった。しかし、日本は、全ての人間の平等を認めさせようというこの提案によって、有色人種の「理論的リーダー」として、アジア人とアフリカ人からの尊敬を勝ち取ったのである。
 第二次世界大戦に関して、ジャワハルラール・ネルーは次のように述べている。
西欧民主主義国家は改革のために戦っていたのではなく、旧秩序を恒久化(永続)させるために戦っていた。そのことは、いよいよ明白になってきた」。そして、連合国側も、枢軸国側も戦争目的に何の違いも持っていなかった。いずれの側も、白人の優越性と植民地の現状を維持することにしか関心を持っていなかった。ネルーによると、両陣営とも、「帝国と民族的優越性」の夢に耽り、戦後になってもそれを肯定し、「古い帝国主義が今なお機能している」と信じていたのである。

世界を震撼させた1941~1942の日本の軍事的勝利
日本海海戦から36年、アジアに駐留する欧州の強国に対して、日本はかつてなかった決定的な打撃を与えた。白人国家であれ、非白人国家であれ、まったく前古未曽有の出来事だった。これが真珠湾攻撃だったのだ。
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1941年12月8日から90日の間、日本は東アジア、東南アジアの米英蘭の領土を席巻した。占領した地域はフィリピン、シンガポール、マレー、香港、蘭印、ビルマミャンマー)に及んだ。1942年初期までにはインドの国境を伺うに至り、その迅速な作戦で世界の目を瞠らせた。
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アジア全域で、支配されていた人々は、西欧の植民地強国に強制的に併合され占領されていた国々に日本軍が進軍して来たのを見て喝采した。1942年初頭、シンガポールが日本に降伏する数日前に、オランダ亡命政権首班のピエトル・ゲルブランディは、チャーチルなどの連合国のリーダーに対して、次のように不安と懸念を表明した。「日本軍が白人住民に障害と恥辱を与えることになった場合は、速やかに相当な処罰をしない限り、白人の威信は取り返しがつかないほどに傷つけられるであろう」。
 マレーシアの元首相マハティール・モハマドは、「大部分のアジア人は、欧州の植民地支配者に対して劣等感を抱いており、独立を実現可能な選択肢と考えることは滅多にないことであった。植民地というものは、原料や天然物資を欧州に供給するように組織されており、だからこそ従属国家だったのである。
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しかし、日本が英国を排除したために、我々の世界観は変化した」と説明している。これによって、日本人というアジア人種が白人を打ち破ることができるということが証明され、その事実によって、「『意志さえあれば、我々も日本人のようになることができる』という意識に新たに目覚めたのである。我々は自分の国を統治し、欧州人と同じ土俵で競う能力を持っているのだ」。したがって、 日本軍の占領下に苦しんだこと、また、戦後英国人が戻って来た失望にも拘わらず、。「奴隷根性」という足かせは打破されたのだった。マハティール・モハマドはこのように述べている。
 同様に、シンガポールのリー・クワンユーは、日本が英国を打ち破ったことが、我々の世界を完全に変えた、と証言している。
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日本に対する称賛と感謝の表明
 日本はアジアの共通の敵に対して、世界を震撼させる軍事的勝利を得た。これによって、アジアの人々は、誇りを取り戻し、顔を挙げてまっすぐに立つことができるようになった。

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山川中尉という人が、ディソン少年を「自分の弟に似ている」と言ってかわいがってくれた。





第二次世界大戦の前には、英国はアジアを植民地にして、アジアの人々を奴隷化しようとしていた。英国はインドの人々を180年にわたって支配してきた。アジアの大半の地域から英国人を放逐したのは日本だった。そして、その地域の国々はみな、後になって独立を達成した。」
「日本は第二次世界大戦に敗れはしたが、しかし、日本の参戦の結果として、東南アジアの全ての国々およびインドは、長く待望していた西欧植民地列強からの独立を、戦後15年以内に達成したのだった。」
 英国の歴史家アーノルド・トインビーは「日本はアジアに於ける西欧の植民地主義を完膚なきまで壊滅させた」と言っている。
トインビーはさらに、次のように述べた。第二次世界大戦に於て、日本は偉大な歴史を遺した。自国のためばかりでなく、この戦争から得るもののあった国々のために偉大な歴史を遺したのである。その国々とは、日本が提唱し、短命に終わった大東亜共栄圏に含まれる国々のことである。日本の人々が歴史に遺した最大の業績は、世界を支配していた西欧人が「打ち負かすことのできない神々」ではないという事実を明らかにしたことだった。
 タイのククリット・プラモード元首相は、日本を称賛した
タイの元首相ククリット・プラモード氏は、当時「Siam Rath」紙の主任編集長であり、1973年に首相に就任した。氏は次のように述べている。
「アジアの全ての国々が独立を達成したのは日本のおかげである。母なる日本にとっては多くの苦しみを生み出した難産だった。しかし、彼女の子供たちは速やかに健康かつ頑健な成長を遂げたのだった。
今日、東南アジア諸国の市民たちが、米英の市民と並ぶ平等な地位を確保することができているのは誰のおかげだろうか。一にも二にも、我々全てにとって母の役割を果たしてくれた日本が、我々に慈善を施してくれ、自己犠牲の偉業を成し遂げてくれたからである。12月8日(1941年)は、我々にこの重要な教訓を与えてくれた母なる日本が、乾坤一擲、我が身を顧みずに我々のためを図ってくれた記念日である。
 さらにまた、八月十五日(一九四五年)は、我々の敬愛する母親がもろくも崩れて苦しんでいた日である。この両日(十二月八日と八月十五日)は、いずれも決して忘れてはならない日なのである。」
http://www.japanese-greatest.com/mentality-culture/animation/kukrit-pramoj.html
 日本は意図的にあるいは意図せずに、植民地の人々のナショナリズムを高揚させた。ところが、西欧列強は、植民地の国々が隷属するのに長く慣れてしまっていたので、この戦後のナショナリズムを余りにもひどく過小評価していた。植民地の人々は、もとより欧州列強には敵意を持っていた。それなのに、列強は、そういう人々の対していまだに影響力を残しているという甚だしい誤算をしていた。不毛な討伐作戦が行われ、全面戦争になることもあった。それにもかかわらず、特にインドシナでは、反植民地運動は速やかかつ異様なレベルで広がって行った。
 ビルマミャンマー)では、1935年以前には、成熟したナショナリスト運動はほとんど見られなかった、それでも1948年に独立した。インドネシアのオランダ人たちは、残存軍が米英の援助を得て抵抗したが、スカルノに率いられたインドネシアナショナリストたちは、最後には敵を圧倒し、1953年にとうとう駆逐することができた。終戦後の混乱の中で、マレー、シンガポールベトナムは長い反乱と戦争の期間に入ったが究極的に欧州人が撤退しなければならなくなることは目に見えていた。

インド独立闘争の蔭に隠れた日本の役割
 英国によるインド統治は、三世紀にもわたったが、その間の苛斂誅求、不平等な貿易条件、闇市の横行、意図的な飢餓政策などによって、本来防ぐことができたはずの飢饉を惹起し、何百万人ものインド人が死ぬことになった。
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インドの綿産業に打撃を与えるために、イギリスはどうしても紡績工場を去
  らないインド人の職工達が再び仕事が出來ないように、その五本の指を切斷した。
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インド人を戦争に動員しようとする米英と、哀願する蘭。

日本は、インドの独立運動に重要な役割を果たした(その多くは評価されていない)。ネタージー・スバース・チャンドラ・ボースインド国民軍(INA)を設立するのを援助したのである。事情を知っている人々の間では、ボースのINAがなかったならば、インドは決して独立を達成することはなかったであろうと主張されている。
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日本軍に壊走する英印軍。人種差別が明らかに現れた。

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おそらく、インド国民軍のビラ
 その主張には理由がある。INAはインド・ビルマ国境のコヒマおよびインパールで、日本軍のインド侵入作戦の一環として戦い、軍事的には敗北した。
 しかし、INAは、1945年に、デリーの法廷で、英国植民地政府に再び挑戦する機会を得た。三人のINAの将校が、反逆罪の容疑で、レッド・フォート(デリー城)で裁判に掛けられた。起訴されたこの三人は、ムスリム教徒、シーク教徒、ヒンズー教徒だったが、いずれも植民地となった国の国民を解放する役割を正当化する弁明を行い、インドの大衆の同情を集めた。
 これによって、被告たちに対する支持が全国に広まった。その中には、英印軍の軍人であるインド人も含まれていた。俄かに先鋭化した軍隊は、1946年にインド亜大陸全域で、英国の占領に抵抗して、ストライキを行い、暴動に訴えた。かつては堅固だった軍の基盤が中核まで揺らぎ、広汎かつ大規模なデモが起り、陸海空軍が1857年の反乱(セポイの乱)よりも大きな反乱を起こす可能性が生じて来た。ここに至って、英当局も、荷物をまとめてインドを去る時期が来たと判断した。
1947年8月15日、英当局は、インドの独立を認めた。
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チャーチルは、戦後日本では評判がよい。
親米知識人やノーベル賞受賞(文学)の影響がありそうだ。
           しかし、インド・パキスタンバングラデシュでは完全な悪役である。

 インド亜大陸の分割の仕方は極めて愚かしいものであり、これによって、二つの民族国家が果てしない闘争を繰り返すことになった。この闘争は、1947年、英国が屈辱の中にインドを去って行った際に残した痕跡とでもいうべきものである。
ジャンポール・サルトルは、フランツ・ファノン(Franz Fanon)の『地に呪われたる者』(1969年 みすず書房)(Wretched of the Earth)に序文を寄せ、その中で、「ヨーロッパは至る所で水漏れをしている。従来は我々が歴史を作っていた。今では、我々を材料にして、歴史が作られている」と主張した。
 西欧が東洋の植民地から撤退したということは、単一の出来事としては、二十世紀の最も重要な出来事だと言って過言ではあるまい。
 本稿ではまた、日本が異様に不名誉な扱いをされていることに対して、弁護をしたいと思う。言い換えれば、日本は決して、アジア諸国に不法と掠奪を働く犯罪的な意図を持った侵略国ではなかったということを訴えたいのである。そのような誤解は、巨大な西欧の宣伝工作に誘導された結果である。実際には日本は、西欧の支配からの独立を求めて全アジアにひろがった戦いを燃え上がらせることになった火花だった。アジアの人々は、日本の壮大な戦争努力、日本人兵士の血の犠牲によって救われたのだ。今や、日本が受けるべき正当な名誉を与えてやってもよい時期になったのはないだろうか。
 現在の風潮は、日本だけを選択的に取り上げて戦争犯罪容疑で咎め立て、一方、第三世界で西欧各国が犯した罪についてはダンマリを決め込むことになっている。日本もドイツも補償金をきちんと支払っている。西欧諸国に対してもそれを要求しなければならないはずなのに、見て見ぬ振りをするとは、正義を虚仮にしていると言わなければなるまい。
 今日、気になることは、西欧の覇権に関して、驚くべき、かつ道徳的に不快な郷愁が広まっていることである。多くの著名な米英系の指導者たち、また奴隷根性を持ったアジアの政治家たちやNGOの関係者、さらにはネオナショナリズムの旗手となったコラムニストたちもこの病に染まっている。彼らはアジアを、極めて狭い視野で眺めようとしている。つまり、西欧の植民地的利益を擁護し、西欧の植民地支配の暗黒時代の間の歴史的記憶、およびその期間にアジア諸民族を苦しめた集団的経験を検証しないままに終わらせようとする狭い視野に捉われているのである。
植民地化と外国の占領は、人道に対する犯罪を構成する。この二つの罪は、国家の主権に対する最も重大な侵犯であり、国際法違反である。そして、アジア、アフリカ、南北アメリカのほとんど全ての地域に於て、植民地を占領する列強は人道に対する恐ろしい犯罪を犯し続けて来たのである。この罪を犯した犯人たちは、未だに責任を問われたこともなく、その大量虐殺の罪のゆえを以て国際法の下で裁かれたこともない。

 アジア人の心を植民地主義から解放し、日本に感謝の意思を表明しよう
 アジアの人々に課せられた責務は、自らの心を植民地主義から解放し、第二次世界大戦の前およびその最中に於ける日本の行動を新たな目で眺めてみることである。日本は結果的には戦いに敗れることになったが、その軍事的努力は空しくはなかった。
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当時アジアの広大な地域を占領していた西欧の国々、すなわち英国、フランス、オランダ、ポルトガル、米国などは、日本によって相当な打撃を受け、士気を喪失し、その結果、遠からずしてアジアを手放さなければならなくなったのである。

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アジアが西欧の植民地支配から解放される時期を速めるために、日本は独特の貢献をした。その功績はもっと称賛されて然るべきであるのに、現実にはそうなっていない。ポリティカル・コレクトニスという思想、そして第二次世界大戦の間の日本軍の残虐行為をことさら取りあげるなどのためである。
 二十世紀に日本は、欧州の植民地主義をアジアから駆逐するために断乎として立ち上がって戦った最初の国となった。悲しいことに、その英雄的な貢献と犠牲は滅多に評価されることがなく、稀にしか敬意を表されることがなく、ほとんど感謝の対象と看做されることがないのである。
 日本に対して、アジアの感謝の意を表し、歴史のストーリーを書き変えるのに、決して遅すぎることはない。

セナカ ウィーララトゥナ
Senaka Weeraratna


セナカ・ウィーララトゥナ プロフィール
著者セナカ・ウィーララトゥナ氏は弁護士。コロンボの王立初等学校と王立大学で初期の教育を受けた。
氏はコロンボ大学法学部で法律学の学位を取ったが、在学中の一九七〇年代早期に学生運動のリーダーとして頭角を表した。学生組合の選挙に次々と勝利を得て、まず書記長になり、翌年には法学部学生組合の会長に選ばれた。さらに一九七二年には、全学部の学生組合の会長たちの互選によって、コロンボ大学学生協議会の副会長に就任した。
弁護士資格を得たのち、氏はオーストラリアへ行って、モナシュ大学の大学院で法律学修士号(LIM)を目指して研鑽を積んだ。氏はスリランカで始めて外国投資に関する法律論文を書いたという栄誉を担っているが、これは、モナシュ大学の修士論文として発表したものである。この論文は書籍となって刊行されている。
氏はさらに、ケラニア大学で、仏教学のディプロマおよび仏教学のマスター・オブ・アーツを受けた。そして、弁護士としてビクトリア州およびノーザンテリトリー最高裁に入った。
氏はオーストリアでさまざまの職に任ぜられた。同国では、法律学講師、Legal Officer、またメルボルンの高名な法律事務所で弁護士を経験した。
スリランカへ帰国するとすぐに、氏は、スリランカの法律委員会で、動物保護法制定のための名誉法律顧問を務めた(2000~2006)。そして、法律委員会で、動物保護法案を起草するに当たって、重要な役割を演じた。さらに、スリランカの政府の平和事務局の代理事務局長に任命され、その一方で、電気通信規制委員会(TRCSL)の顧問を務めた。
氏はまた、騒音問題訴訟の中心的訴訟当事者となり、2007年には、環境を守るために公共の施設で増音器の使用を厳しく禁止する最高裁の輝かしい判断を引き出した。
氏の最も傑出した業績は、クリケットの審判の基本的なルールに革命的な変化をもたらしたことだった。氏は、世界の影響力ある新聞や国際的クリケット雑誌に一連の寄稿をして、常々持論であったPlayer Referral の概念を導入するように訴えた。これが世界的な反響を呼び、ついに氏の提唱は国際クリケット界で、審判規定の重要ポイントとして認められ使用されることになった。
氏はドイツ仏教協会の名誉書会長兼管財人であり、また、「the Dharma Voices for Animals」のコロンボ支部長を務めている。世界の仏教の世界普及、動物の権利、植民地主義などを始めとして、様々な問題について、新聞や雑誌に定期的に寄稿している。

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付録「フィリピン少年が見たカミカゼ



スリランカと日本の絆