吉田茂は「一流の政治家」ではなかった
吉田茂は「一流の政治家」ではなかった
昭和55(1980)年6月に、小室直樹(こむろなおき)氏から便りをもらった。その中に、
私(加瀬英明)が近刊本の中で、吉田首相はサンフランシスコ講和条約に調印して帰国してから、すぐに国民に日本国憲法の是非を問うて、政治生命を賭けて改憲に取り組むべきだったが、そうしなかったのは、「一流の政治家に値しない」と論じたのに触れたものだった。
もし、吉田茂に歴史への洞察力があったとしたら、日本が独立を回復してから、憲法改正を試みるべきだった。そうしなかったために、経済を至上として、アメリカに防衛を依存するようになった。日本国民の意識の中で、占領時代と、独立を回復したあととの間に、明確な線を引くのが難しいのは、このためである。
どのような国家にとっても、国家を国家たらしめている精神の中核に、国民の国を守る決意がある。
吉田氏は一時の便法として、そうしたのかも知れないが、国家の安全を確保するうえで対米依存を定着させた。大切な時期に、ボタンを掛けちがえた。
あの歴史が白熱した時に、あのような人を首相としていたのは、日本にとって不幸なことだった。吉田政治は小室氏の言葉を借りれば、「現代日本の禍根」をつくりだした。国の指導者たる者は、50年、100年先を見通す力を持っていなければならない。
私は昭和32(1957)年に、晩年のマッカーサー元帥をニューヨークのマンハッタンのウォードルフ・アストリア・ホテルにあるペントハウスの邸宅に訪ねたことがあった。後にこの時のことを『文藝春秋』誌〔昭和42(1967)年3月号〕に寄稿したが、マッカーサー元帥は私にタバコをすすめ、震える手でマッチを擦って、火をつけてくれた。
マッカーサーは、かなり耄碌(もうろく)していた。それでも、「日本は軍備を拡張し、自由アジアの一大軍事勢力として極東の安全に寄与しなければならない
」と、語調を強めて説いた。
もし、吉田首相が講和条約締結前に、ダレス特使から日本が強い軍事力を備えることを求めたのを拒まずに、警察予備隊を国軍に改編することを決意していたら、アメリカから反発を招くことなく、憲法を改正することができたはずである。
pp.152-154.より
私のコメント
棺を蓋いて事定まる(かんをおおいてことさだまる)という言葉があった。
生前には利害関係や認識に情が入ったりして公平な判断が難しく、その人の真価を正確に見定めることはできない。遺体を棺(ひつぎ)に納め、ふたをして、初めてその人の評価が定まるという意味に使われる。
「棺を蓋いて事定まらず」なのである。
大西瀧治郎は、「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」と書き残した。
大西の遺書とともに下のURLで解説されるが、味わい深い。
今の政治家の言葉が薄っぺらいのは、
「国民国家としての日本の運命」
を凝視しようとはしないからだろう。
日本は、戦闘民族として目覚めないように呪縛をかけられた