検証「桜田門外の変」 (1)水戸浪士






私のコメント
 桜田門外の変」の水戸浪士は、前水戸藩主・徳川斉昭が放った刺客だった。

当時から大方の人には判っていたはずだが、このように書いた文章には出会ったことがない。幕末を動かした「尊皇攘夷」の大物で、しかも証拠・証言が表に出てこなかっただけに、歴史家や小説家は書くのを「遠慮」したのであろう。
そういう訳で、敢えて文章にしておいた。
 
  日本史ブログ「しばやんの日々」に、徳川斉昭は実は「開国を容認」していた証言が挙げられている。青字部が引用部で、緑字部は私の編集である。

蜷川新氏の『維新前後の政争と小栗上野. 続』(昭和6年刊)のなかで、福井藩松平春嶽の『逸事史補(いつじしほ)』が引用されている部分があったので、紹介しておこう。

水戸烈公齊昭公は、頗る世上に攘夷の名あって、幕府にても、水戸でも、どこでも、みな攘夷家と称せり。余偶然、公に問う。方今外国頻りに渡来せりとても、攘夷は出来ぬことと存じ候。外国交際開ければ、今の世はむつかしきと存じ候旨申し候。烈公実は私も左様に存じおり候ゆえ、鉄砲を鋳造し、舟など朝日丸を造り、往々は外国へ我が舟を遣わし、交易するよう相成るべく候。春嶽殿などは御若年ゆえ、其の景況をもご承知相成るべく候。またそれに就いてご尽力をも成され候がよろしく候。私などは老年に相成り候あいだ、攘夷は私の株ゆえ、終身相止め申さず、そのまま死迄も攘夷家にて相済候心得なりと話されたり。是にて烈公のやはり攘夷家あらざることしるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/32
当代一の攘夷論者であった水戸斉昭も、本音では攘夷は不可能であることがわかっていたのだが、攘夷論者としての評価が高かったので死ぬまで攘夷の主張を変えなかったというのである。
松平春嶽の『逸事史補』のこの部分に関する斉昭の手紙を、福井市立郷土歴史博物館が現代語訳を載せている。色字部分が引用部である。
斉昭公は尊皇攘夷の論を激化させて、攘夷家の巨魁であるという。(中略)斉昭公はさすがに賢明な君主で、もはや外国人と交際しなければならないということは、すでに着目しておられた。なぜならば、斉昭公が私(春嶽)に送られた書中にこうある。
「外国人との交際の道は最良の方策ではない。しかし、今の時勢をどうすることもできない。貴公は、まだお若いからこれからのご参考にしていただきたい。とても攘夷など行うことはできない。ぜひ交易和親の道を開きなさい。その時はご尽力なされよ。斉昭は老年だから、攘夷の大親分になってこれまで通り世を渡ってゆくから、私は死ぬまでこの主張を変えることはない。貴公にはこのことを伝えておきます。」
との手紙であった。これによって外国と交易和親しなければならないということや攘夷論を行っていくことが難しいということをご存じであるのはさすがであると、私は敬服するのである。

 こうして見ると、徳川斉昭は、その政敵・井伊直弼と「開国についての見解」に大差はない。徳川御三家の副将軍格の水戸と譜代筆頭格の井伊との内輪もめに朝廷の間の悪い対応がからんで、幕府は崩壊への道を歩むことになるのである。このことは、次の動画で説明される。
 検証「桜田門外の変」 (2)井伊直弼


 「桜田門外の変」を題材に取った歌に、昭和6年の「侍ニッポン」がある。

歌の解説は、ここにある。

【幕末タレント名鑑「徳川斉昭」】