佐倉強哉の見た明治維新 (6)
西南役の時には、明治政府は奥羽地方でさかんに募兵した。鹿児島を征伐して、明治元年の仇を討ってやれと宣伝した。考えようによっては、この宣伝は皮肉である。新しい反逆者を征するために、古き反逆者を送ろうとしたのである。もっと歯にきぬ着せない言い方すると、いくら死んでも痛痒を感じない賊藩の徒を戦場に送るために、古風な仇討ち心理を利用したのだ。この宣伝は当たって、多くの旧藩士が募兵に応じた。平定後の褒美(ほうび)の金も欲しかったのであろう。
邏卒(らそつ)が巡査と改称されたのは明治八年であるが、西南役には、この人は警部補で出征した。
田原坂激戦の図 警視庁抜刀隊
二、三度は命の危機にも遭遇したが、ともかく無事に戻ってきた。が、もらったのは前にも書いた通り、百円の公債一枚、その上に巡査の職を辞めさせられた。賊藩の徒のひがみをいっそう助長させるような、政府のやり方であった。
福沢諭吉に「痩我慢の説」という一篇がある。明治三十四年に発表されたものだか、それにはこんな意味のことが書いてある。
「昆虫が百貫目の鉄槌でうたれる時も、尚その足を張って抵抗の様を示すのに、二百七十年の大政府が、二、三の強藩の兵力に対して毫も敵対の意なく、和を講じ哀を乞うて止まなかったのは、世界に例を見ない。勝安芳が江戸の民を塗炭の苦から救ったことは大功かも知れないが、新政府の新貴顕となって愉快に世を渡っているのを怪しむ者もないのは奇怪である」
この人がこの一文に、福沢に対する傾倒をさらに濃くしたのは当
然であろう。腰抜け将軍慶喜を籠絡(ろうらく)して、七十万石の新封
に追いやった勝が、得々として明治政府の重要な椅子にかけていたことは、三河武士の風上にもおけぬ奴と、この人の目にも映っていた。それを福沢が遠慮なく言ってくれたのだから、この人も溜飲を下げたことであろう。
一人の勝の栄華の後ろには、何千かの旧幕臣、賊藩の徒が、不遇の中にうごめいていたのである。これを時代の赴くところに賢かった者と、その反対の者とに区別して考えるのは簡単である。しかし賢く立ちまわって、外見栄華な暮らしをした者が、立派な生き方であったということにはならない。
再び問う「明治維新とは何だったのか?」
明治維新の対象を、どこまでに区切るかについては、いろいろの説がある。尾佐竹猛はペリー来航から明治十八年までをその対象とし、服部之総はペリー来航から明治二十三年、いわゆる外見的立憲主義が成立するまでを、対象規定とする。
後年の学者たちのこういう区切り方を考えてみても、幕末から明治までの動乱が、薩長二藩の天下取りの野心から起こったとするこの人の見解を、頭から否定することはできない。
明治末年になってから、「防長回天史 - Wikipedia」十二巻が世に出ているが、この「回天」という文字こそ味わうべきであろう。
「呆れ返ってその意を解せず」の状態で鳴りをしずめたと書いている。
これが、江湖新聞の初めからの主張であった。
彼が捕らえられたのは上野の戦争の後であるが、放りこまれた獄には、上野で
戦った者もいた。 大政奉還(二条城)(1)
そんな同囚の一人に
「ろくな調べも受けないで、死罪を申しわたされる者がすくなくない」と言われ、自分も殺されるかと思った。幸いに二十日あまりで放免されたが、新聞の発行はとめられた。間もなく他の新聞もみな発行停止となったという。
それが薩長政権の本質であったと、この人は説明した。
この人が大戦後まで生きていたら、薩長ついに倒る、とほくそ笑んだかも知れない。私はそんな空想に動かされる(2)。この人の生涯
福地源一郎 は、明治の興隆期に歩調を合わせて生きながら、最後まで賊藩の
田舎武士の目を脱することができなかった、といえるかも知れない
(完)。
家康は秀吉の朝鮮出兵を見て反省するところがあり、学問を始めた。家康が到達した結論は、「馬上天下を取るも、
馬上天下を治(おさ)むべからず(武力で天下は取れても、武力で天下を治めることはできない)」だった。もともとが軍事
(おさ)むべからず」に直面して当初は戸惑っている。明治新政府は、全国統治のための組織を持っておらず、統治の空
白を生じかねない危機的状況にあった。そのため、維新後でも旧幕の人材がかなり用いられた。
「急ごしらえの新政権が、なぜ全国を統治できたのか?」のタネ明かしがこれである。江戸幕府の行政機構や組織を継
と幕臣. 中公新書.)。
上の「るいネット」で紹介した記事の末尾に「1877年の統計によれば、新政府役人5215人中、1755人(34%)が旧幕臣
だったという記録が残っている。」という記述がある。
明治の官僚制はプロシャ(ドイツ)を範に取ったとよく説明されてきたが、私はマユツバだと思っている。
賞与(ボーナス)も制服も官舎(公務員住宅)も、江戸幕府から引き継いだものだった。
それである。
その強大な「かたき」ー日本【明治新政府】の権力への復讐心を内に秘めて、明治大正昭和の三代を生き抜き、ついに落魄流浪の一剣士として、敗戦後の日本に死ぬまでの、数奇ににみちた裏街道の人生を描いたものである(猪野謙二の解説)。
老残の主人公・中山荘十郎は、駄菓子屋の二階に住んでいた。八十三歳になっていた。
空襲の激しい日に、向かいの家に焼夷弾が落ち、荘十郎は這って逃げた。警報が解除されると、また這って戻った。
這って帰った荘十郎を見ると、駄菓子屋のおかみはさすがに涙がつまって来て、
「爺さん、つらかったろうねえ」
と言うと、
「なに、非道を重ねて来たやつがいい気味さ」
と応えた。おかみにはその意味はわからなかったが、何か心をさかなでされる様な冷たいものが走っ
た
荘十郎は敗戦の日の三日後に死んだ。
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